蝦夷と東国の話

岩手県の作家・高橋克彦氏によると、近年の東北地方の人たちは、自分たちを、平安時代以前の蝦夷(えみし)と呼ばれた人たちの末裔であるという歴史認識に到達しているとのことである。蝦夷とはアイヌとは異なる人たちのことであり、従来は両者の区別があいまいだったが、新しい資料と地元研究者により、両者が異なる民族であり、平和的に共存していたとする見解が主流となったという。(半藤一利氏との対談『日本史はこんなに面白い』)

蝦夷とは何か。中国では夷という字は、辺境の下等民族という意味があるそうだが、日本の蝦夷とは、異民族というほどのことではないのだろう。都から遠くに住み、文化や習慣が多少異なっていたようだが、蝦夷の子孫といわれる安倍貞任と源義家とのやりとりの和歌もあり、弟の安倍宗任は京へ招喚され申し開きをしたという話もある。何とか言葉は通じたのだろう。和歌のやりとりをするのだから、異民族ではなかろう。

東北地方では物部氏の勢力も強く、高橋氏によると、物部氏の出身は出羽の鳥海山の麓だという伝承もあるらしい。平安時代初期の関東地方、武蔵国にも、蝦夷の反乱や物部氏永の乱の記録があることを聞いたことがある。関東の人たちも、程度の差こそあれ、蝦夷の末裔であり、あるいは蝦夷とそれ以外の混血の末裔なのだろう。最近のDNA解析などからも、西から東への地方ごとの差はなだらかである。

蝦夷とそうでない土着の民との違いは、高橋崇著『蝦夷』などによると、大和の勢力に対し、抵抗したか、早めに妥協したかの違いにすぎないらしい。妥協といっても、取引ないし交易の一種とみれば簡単であろう。総じて外来文化を受け入れることには寛容な民ばかりである。後になって異をとなえると、もとにもどって蝦夷にされてしまうのかもしれないが。

古事記の国譲りの直前の物語では、高天原から派遣された男たちは、現地で婿になって報告をせず、ということの繰り返しであり、さらに次の男が派遣されてくるのだった。天に弓を引いた男(天稚彦)もあった。
ある時期に列島に統一国家を作ろうと発想した人たちがあり、それは成功した。
統一のために諸国へ国司が派遣されるようになるが、国司の権限とは、外交権だけで、内政の実質は在地の豪族たちにあったという例が多かったらしい。それは埼玉県史通史編でも文献を引いて明らかにしてあった。
森浩一・網野善彦『』でも、森「在地の力を相当残したことが、律令制のさまざまな施策が一応は成功した理由かもしれません」、網野「そうだと思います。律令制は郡司クラスの地域の豪族、有力者の力に支えられていたのでしょうね」と語られる。
外交権とは、1つは中央政権に対して代表としてふるまうのだが、勤務評定が良くなるような報告をするものらしい。諸国どうしの関係といっても商業権は在地にある。問題は東北との関係で、中央の意向を国司が東北に対して執行するのだろうが、在地の協力については難しい問題ではある。

最初に書いた高橋氏の対談についての話に戻るが、1つだけ問題に思う点がある。
東北には大国主命をまつる神社が多く、古い時代に出雲から東北へ移住した人が多かったろうという発言について。山陰や東北が関係の深いことは確かなのだろうが。
移住した人々は、まづ移住した土地の神々を感じとり、その神をまつり、庇護を被るというのが最優先であろうと思う。でなければ子孫はすぐに絶えてしまう。崇神天皇が三輪山の神の祭祀を重視したのと同様である。
仮に、移住者が出発地の神しか祀らず、移住のたびにそればかり繰り返していたとしたら、日本の神はより一神教に近いものとなったろう。各地に分散した人々の中には、子孫が絶えてしまう系統があり、するとその神も絶え、神々は減るばかりで増えることがない。それを数百年以上も繰り返せば、神々の数は著しく減少することを避けられない。近代の日本の信仰が、やや一神教的な性格をおびてきたとするなら、新しい神を発見できないでいるからだろう。
新しい土地には新しい神の発見があったはずである。それらの神々には、独自の名前があったのだろうが、近世の国学以後、地方の神を、記紀に登場する神名に同定したり、月読命を須佐之男命と同一としたり、個別の山ごとの神々が、同じ一つの大山祇の神の名になったりなどがあるのだろう。
東北地方の大国主神とは、国土平定以前の神という意味合いが大きいのではあるまいか。、国造りの神なので大国主神という名になったのだろう 大国主神をまつる神社では、薬師神社という名の神社が目立つが、薬師とは、聖徳太子以来ということかもしれない。
もともと関東の平氏や奥州の清原氏などが自身の氏神を勧請して歩いたという話は聞かない。源氏の八幡宮さえ源義家の元服伝説以後の話かもしれない。八幡宮は武神であり起請の神でもあるが、鎌倉の鎮守ではなく、東国の鎮守といった意味合いで定着したのではないか。なぜなら東国という範囲がひとくくりのものとして認識されたことはそれまでなく、東国全体の鎮守もなかったからである。

「えみし」とは、もとは勇敢な人という意味で、蘇我氏ほか大和の貴族の名前にも使われた。関東には勇敢な人たちが多く、九州を防備する防人は関東の兵が主体であるといい、奥州の蝦夷の平定に際しても主力は関東の兵であるという。西の兵は戦死者が出るとすぐに死の忌みだといって閉じこもるので当てにならないからだと書く本もあったが、しかしそれ以前に、関東の勇敢な兵たちは、弱そうな西の軍にいとも簡単に平定されてしまったともいう。そして苦役ともとれる九州の防備や東北征伐に従ったという。これらはやはり奇妙な解釈だと思うが、あとで考えてみよう。

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