氏神(屋敷神)について

『屋敷神の研究』(直江広治:著)という本に、埼玉県の「県北地方」の2例が、研究雑誌などから、引用・紹介されている。

○大里郡男衾村(現寄居町)富田 字上郷
 どの家にも屋敷の左後方に「ウヂガミサマ」の祠があり、正月に幣束をあげる。祭神は部落の鎮守様である天神様もあれば、稲荷さんや八幡様などもあって雑多である。イッケ(*)内でも、新宅のウヂガミサマは本家から分祀するものとは限らず、各戸に家の守護神として、必ずなくてはならぬものとしている。(*一家、同苗の一族)
 男衾村から小原村、吉岡村にかけて、大里郡は大体屋敷神をウヂガミと呼び、新しい分家もこれを盛っている地帯のようである。村氏神の方は、鎮守様、あるいは祭神名で呼んでいる。
○秩父郡地方
 日野沢村(現皆野町)では、たいていの家で屋敷内の多くは戌亥の隅に「ウヂガミサマ」(ウチガミサマともいう)の小祠を祀っている。霜月十五日が祭日で、幣束を立てて赤飯を供えて祀る。沢部部落では、ウヂガミサマは遠い先祖を祀ったものだといい、ウヂガミサマのついた屋敷を三屋買い取ると、その家は絶えるものだと言っている。この辺では村氏神のほうは、ウブスナ様あるいはチンジュ様と呼んでいる。
 また同郡浦山村でも、各戸屋敷の西北隅に、多くは大木の下に屋敷の神様を祀り、これをハチマンサマと呼んでいる。

主要部分については、この地方では、上記の通りである。
しかし微妙な点もあるので、いくつか確認してみる。

屋敷神の祭神について「部落の鎮守様である天神様」とあるのは例外的で、祭神は不明、または稲荷様であるというのが多数である。これはどこかの稲荷神社の分祀というのではなく、地主神としてのイナリであろう。イナリ様とカタカナで表記したほうが良いかもしれない。
「八幡様」ともあるが、これは若宮八幡、または若宮様のことであり、ウヂガミ様の脇に配祀されることが少なくない。若死にした者を祀ったことから始まったする見解もある。
「雑多である」というように、源為朝というのを見たことがあるが、為朝は江戸時代に子供の疱瘡除けの神として広まったことから、床の間に祀った為朝を快癒後にウヂガミの脇に遷した可能性も考えられる。他に小数の例だが、金毘羅様、三峰様などを、ウヂガミ様と並べて祀る例もあるようだ。

祭日については、他地域の例をみても、それぞれである。「霜月十五日」というのもあるのだろう。「正月に幣束をあげる」というのは、年を迎えるために年末に供える。神棚の伊勢の大神宮様のおふだを新しくし、氏神様にも幣束を祀り、餅などを供える。幣束はカマドなどにも祀り、正月を迎えるための多数の幣束を、釜締め(かまじめ)と総称する。大里郡南部方面などでは、キリハギと呼ぶところもあるが。「ハギ」とは東北地方のナマハギのハギと共通の言葉かもしれない。

屋敷神は、大木の下に祀ることが多かったろうが、近年は樹木そのものが少なくなっている。
宮の形式は、藁宮ともいい、藁を幅1〜2尺ほどの薦状に調え、前方を2本の細い柱で持ち上げる程度のものだった。四方に4本の柱の所もあったらしい。いつのころからか、小さな木造の流造など御宮を作り、あるいは石宮を作り、しっかりした土台の上に設置するようになっていったが、戦後の高度成長期以後のことである。

ウヂガミとウチガミのどちらが本来なのかは難しい。東北地方では、オツガミなどと聞えるところもあるという。東海地方などで、地ノ神(ヂノカミ)、ヂガミと呼ぶのは、ウヂガミのウが取れただけかもしれないが、何ともいえない。

 屋敷神をウヂガミ様、またはウチガミ様と呼ぶ地方は、同書によれば関東から東北地方にかけての大変広い範囲である。他に南九州、三重県志摩地方、岐阜県の一部などがそうであるようで、同書を詳細にチェックすれば分布地図も作れるだろう。
 逆に、屋敷神をチンジュ様と呼び、村鎮守をウヂガミ様と呼ぶ地方が、長野県や岐阜県などにあるが、多くはない。

 村鎮守を「氏神」と呼ぶのは、いわば小数派である。しかし、明治5年の新戸籍(壬申戸籍)の下調帳には、江戸期の人別帳と同様に、一戸ごとの菩提寺の名が記載され、ほかに「氏神」としての神社名を記載した例が多数ある。おそらくこれは全国的な記載法だったのだろう。鎮守という言葉は、「村の鎮守」とは言うが、「○○家の鎮守」とは言わない。そこで「○○家の氏神」という意味で、「氏神」が戸籍の用語として広まったと思われる。その後、公文書などでは、従来の鎮守の意味でも、氏神という用語を使うことが多くなっていったのではあるまいか。
「屋敷神」という言い方は、研究者による分類名の感があるので、今後も、民間では、祀る家の先祖につながる「氏神」という名で呼ばれるのだろう。

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