旗本・中野家のこと

【古文書倶楽部2016-】
旗本・中野家は、江戸時代にわが先祖が名主として仕えた殿様である。
中野家の総石高は、1275石6斗5升1勺(文政六年十一月「相渡置一札の事」による)。
領地(知行)は、武州に五ヶ村、上総に一村、伊豆に二ヶ村、計8ヶ村があった。

中野家の由来を調べてみると、戦国時代の三河の井伊家の分家であり、分家の幾つかが「上の家」「中の家」と呼ばれ、その「中の家」が中野家を称したのが始まりらしい、というのが当初の知識だった。

『歴史と旅・姓氏総覧』では次のようにいう。三河時代は分家の中でも有力なほうだったようだ。
「中野氏 三河【井伊氏族】井伊系図に「井伊忠直の子直方、中野組」とあるのより起こる。直方又直房ともある。此の末流と称する中野氏は、寛政系譜に一家を収めている。家紋 丸に鳩酸草、鷹の羽八枚草。」

ネット情報では、「家紋world 姓氏と家紋」というサイトに、短い解説がある。
「家紋は 丸に酢漿草
井伊忠直(井伊直政六世の祖)の子直方が中野を称した。中野重弘・弘吉の二代は但馬や石見の銀鉱に貢献した。」
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_na.html

家紋の酢漿草(かたばみ)は鳩酸草と同じである。石見銀山については思い当るふしがある。わが先祖の道中記によれば、安芸の宮島から北へ、三次のあたりまで他村のグループと同行、同宿だったが、三次から先は、他村のグループはまっすぐ出雲大社へ向い、先祖たちは石見銀山へ迂回した。石見銀山は中野家の先祖と縁のあることを知っていて、土産話にするためなどの目的のための迂回ではないかと思われる。他村のグループは、中野領の村ではない。

中野家の当主の名には、元禄のころの伝右衛門のあとは、左兵衛、勘右衛門、主殿、左京、左兵衛、文吉、吉兵、吉兵衛、鉄太郎、七太夫、鉄之進、三郎、不染、内記、鐘吉、鐘次郎、鐘七郎といった名が見える。(同一人の別名を含む)。

総石高は、1275石余と書いたが、そのうち武州の五ヶ村は次の通り(カッコ内は石高)。
 幡羅郡 原之郷村(369)、
 榛沢郡 東大沼村(138)、
 同郡  新寄居村(72)、
 男衾郡 富田村(58)、
 同郡  小江川村(72)。
五ヶ村はみな相給で、これらの村には、中野家と全く同じ石高の内藤家の知行地が存在する。内藤家のほうが他にもより広い領地があり、規模は大きいようだ。
他の三ヶ村は、
 上総国望陀郡 長須賀村 (300石、天保9年八ヶ村皆済目録) 現在は木更津市の中心部。
 伊豆国田方郡 北条寺家村(146 計算値)
     〃  中嶋村(118 計算値)

中野家の事績は詳細は不明だが、江戸中期には、小普請役などに就いた。内藤家との養子縁組の記録もある。
幕末の長州征伐のときは、将軍家茂につき従い、小姓の世話役などをした(以上は村文書による)。
戊辰戦争の後は、田安家に従って駿府へ下ったが、その後の消息は不明。これは、村の入会地を廻る新政府との訴訟事で、中野氏の証言を得るべく村で手をつくして調べたときの調査結果である。それ以上の情報をを得ることはできなかった。

<雑記 同姓の人々>
上総の手賀沼の北の、湖北村に、中野家という豪農があったという。
「中野家は治右衛門あるいは酒屋と称され農業と酒造業を営む豪農で、江戸時代、代々旗本内藤領の名主を務めた。」 http://www.geocities.jp/abikokeikan/nakabyou/page2.html
「湖北」とあるので三河の浜名湖の北かと思ったが、手賀沼である。旗本の中野家とは無関係。

幕末の老中 井伊直弼の兄・井伊中顕が養子に入った中野家は、井伊家の家老であるという。旗本ではない。

蛇足だが、Wikipediaによると、「中野清茂」という人は、「江戸時代後期の9000石旗本」であり、「父は300俵取りの徒頭」だったというが、疑わしいようにも思える。wikiには多数のテレビドラマが関連項目として書かれ、また9000石は旗本ランキング(http://homepage3.nifty.com/ksatake/libinde.html)では第2位に入ることになり、祖父の素性もわからない人物が一代で大名の一歩手前までの出世とは。数年前に「旗本中野家」をネットで調べたときには、こんな情報は存在しなかった。
しかし、『江戸期の社会実相一〇〇話』(つくばね舎)の小川恭一氏によると、根岸肥前守など、150俵の御家人から御徒組頭を経て1000石の旗本へ昇級した例はあるようだ。
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