『大里郡神社誌』における湧き水の記録

昭和5年発行『埼玉県大里郡神社誌』に記載された湧き水に関連する部分、その可能性のある部分などを抜粋。湧水でないものも含まれるだろう。市町村名は現行のもの。
大里郡とは、明治29年(1896)に旧大里・幡羅・榛沢・男衾の4郡の合併により成立。以下では旧幡羅・榛沢郡域で多い。


熊谷市上之 上之村神社

氏子区域の中央部に池あり。広さ二二〇坪。これは村内字琵琶湖にありしも、接続の関係上、隣地主が埋立て、今は小部分の池となれり。
摂社大雷神社は、安政年間より旧比企・児玉・男衾・榛沢の各郡の崇敬者より雨乞の祈祷を申出づるもの多く、御手洗池の水を借り受け、帰村して祈願を為す時は、日ならずして雷雨ありしと、今なほ報賽 頗る多し。

熊谷市宮町 高城神社

寛文10年庚戌の始めより里人のいひけるは、社の傍に小樽の木の年古りて、高さは八丈五尺、周囲は一丈五尺、枝は十四、五間もはびこれるものあり。この樹、地をさること三尺ばかりの処に空なる穴あり、口は七寸ばかりにして内はいと広く、洞穴の如し。その中より清水 湧き出で、絶ゆることなし。若しこの水を用ひて諸々の病を治すれば、必ず感応の効を得んと、この事いつしか近国に聞えければ、人々 日々集り参りて御水を戴けるに、果して諸病に効験ありき。

熊谷市 佐谷田神社 

御神井 石畳中に噴出の井 一ヶ所

熊谷市(旧妻沼町)日向字八幡間掘の内 長井神社
同 上須戸 八幡大神社
 龍海については長井神社の項に詳しいが、以下は上須戸の項より抜粋。

日向、上須戸の間に四町四方の池あり、これを龍海といふ。常に大蛇棲みて村民を悩ます。土豪 島田大五郎道竿(中略)一日西方に向ひて南無弓矢八幡を念願し、村民に令して渠を掘り、その水を利根川に落(今その堀を道竿堀といふ)さしむ。(中略)龍海の中央には弁財天を安置して、龍蛇の霊を慰むといふ。合祀社 厳島神社これなり。時に天喜5年8月15日の事なりきといふ。

熊谷市(旧妻沼町)弁財 字沼上 厳島神社

神社の背後に弁天沼と称する古沼あり。往昔は二町余の面積を有し、深さも十数尋に及べりといふ。然れどもその地 字の共有なるが故、輓近埋立て畑となし、現在僅に3畝余歩の池沼を存するのみ。

熊谷市(旧妻沼町)葛和田 神明社

御神井 一ヶ所

旧妻沼町妻沼 大我井神社の項

若宮八幡宮湧泉之記
夫原若宮八幡宮者、建久年中、右大将源頼朝卿、従武蔵野下野那須野原巡行之時、老杉之下停、於駕勝景有詠覧之地郷閭崇尊之、則造営一社、恭奉勧請石清水大神宮。
(中略)壬戌之秋八月 東国水嵐烈水溢前波後浪渾々?々如流如奔往々遭于険者衆也 井河濁不食竟絶食者数日 実以庶民之憂也、
雖然非天命 靡常社傍自淤泥中清泉涓々而湧出、郷人奇之不勝歎躍用汲用味則得免飢渇 今嗚呼赫今壮分 石清水之霊験 輝光厥福今願厥禎祥也(以下略)

熊谷市奈良 奈良神社

神社より東北二〜三町にして、往昔 湧泉の旧蹟あり。現在 水田となりて神社の所有なり。この地は「和銅四年神社之中忽有湧泉自然奔出漑田六百余町」(三代実録)とある旧跡なりと言ひ伝ふ。中古まで 沼沢の地たりしを、弘化年中、時の名主 野中彦兵衛が地頭 曲淵重左衛門殿に乞ひ、免許を得て田となせりと、その書類 今なほ 同家に保存す。現にその傍の小字を沼ノ上といふを見ても、涌泉の事跡 以て証すべし。
御手洗は、和銅の昔 涌泉の地にして、今その旧蹟を表記せる碑石を設く。

熊谷市代 八幡神社

御神井 一箇所

熊谷市 玉井大神社 

僧某、東国に下り当地に滞在中、両眼を病み、偶々霊夢に感じ、里人を鼓舞して井を掘らせしめ、その水を以て眼を洗ひしに、忽ち癒ゆ。乃ち傍に井の神を祭りて、井殿明神と称す。里名の玉の井、これより起れりといふ。後、社名を改めて玉井大神社と称す。

熊谷市西別府 湯殿神社

当社御手洗に湧出する清泉は、透麗の気 人身の邪熱を払ひ、諸病の流行を防止する効ありとなし、往昔より春夏の候、参詣者のこれを汲むもの多し。而してその下流は、田園潅漑するもの幾百町歩、人民その沢に霑ふこと甚だ多しと伝へいふ。

熊谷市三尻 八幡神社

沼田一九一五番 溜井 反別1反1歩

深谷市上増田 諏訪山神社

古は現社殿の後方に広き「諏訪森」の森厳なるを有し、「諏訪池」の大なる碧水を漲らせて、太古そのままなる神域なりきといふ。

深谷市東方 熊野大神社

基本財産(不動産) 池沼 1町1反6畝18歩

深谷市原郷 楡山神社 記載無し。編集主幹のため頁数を抑制したか。

深谷市上柴町(柴崎) 諏訪神社

神社の付近に穴の口径丈余に及べる古井戸穿ちありて、当時深谷城の飲料水に供せられしと伝へられ

深谷市上野台 八幡神社 湧水による池あり。次の「神井」のことかは不明。

神井 覆屋付 大正15年

深谷市西島 瀧宮神社 

神池 3反3畝歩を有す。

深谷市下手計 鹿島神社 

境内に大欅あり。周囲約三十五尺、中心空洞にして底に井あり。(中略)神霊の加護し給ふ神井の水なればとて、これを汲みて多年の宿痾病患の者に与へ、或いは彼神水にて身を清め、鹿島の神に諸心願を罩め希代の霊験を蒙りし者 往々ありければ、打寄りて浴舎を設け、諸人の助にとて浴湯を始めしに、神験著しく老若群集せしが、別当職の老死後 暫く休止し居たるを、文政の末年再興し、明治の初年まで経営せられしも、後嗣の幼かりし為めまたまた廃されてそのままとなり了れり。

深谷市(旧岡部町)普済寺 字菅原 菅原神社

当時境内に清泉湧出して、社の以東数ヶ村の用水の起原たるを以て、水利関係の数ヶ村より毎年幣帛料を奉納して、特に崇敬せり。

深谷市(旧岡部町)山河 伊奈利神社

社領山林に三日月池と称する所あり。これ当社を離る約八町の西南方にて、鎌倉幕府時代、前橋より鎌倉に到る通路に沿ふ。古老の伝説に依るに、元 清水滾々として湧出し、暑中旅人の渇を慰むるに適し、もと不思議にも三日月これに映りしが、一馬丁の馬鮭を沾してより清澄掬すべき霊水も俄然沽渇せりといふ。
社領 字西谷  山林   4畝24歩  三日月池所在地

深谷市(旧岡部町)山崎 天神社

弁天社 往古より別当寺地蔵院の管理せるものにて、今なほ3月18日大護摩修行し、当日年々大神楽、芝居、飾物等の余興ありて、参拝する者多し。御霊像安置 承和元年弘法大師御作とあり。御池1反8畝の中に社地1畝18歩あり

深谷市(旧岡部町)本郷 藤田神社

舞楽、獅子舞行事の相伝あり。古老の口碑に、中古はこの行事 最も盛に行はれて、その祭の日は社頭を始め氏子区域中を舞ひめぐり、終りに本村字象殿といふ山中のに舞込といふ。舞楽を行ひつつ舞行くときは必ず急雨ありて、近隣の農作物を潤し、不作を免れしといふ。付近この祭を本郷の雨乞祭と俗称し、年々供奉者は増加して、盛大なる祭祀の年中行事なり。

深谷市(旧花園町)黒田 豊栄神社

元社地付近に御手洗の池あり。四時清水湧出し、池中に魚類多く棲息すれども、これを捕食すればその一家断絶すべしと称し、現今に至るも里民のこれを捕獲するものなし。

深谷市(旧川本町)瀬山 字東中井 八幡神社

神域前方の泥池に莚を浸したるを持ち来りてかぶせ廻る。前記 当餅の争奪より起れる奇習にして、瀬山の莚かぶせと称ひ、近郷に名高く参観者極めて多し。近時非文明の行事なりとして廃止せらる。

寄居町用土 字藤田 貴船神社

神社の西方に俗に御池と称する池あり、中央小高き島上に弁天社を祭る。祈雨祭の時は、この池の水を汲みて村民一同にて祭を行ふを例とす。また他より御水を借り来りし時は、その水を池に入れて祈雨祭を行ふ。

寄居町 宗像神社

末社 水波能女神社は、境内の真名池の水神を祀ると称し、末社となる。

寄居町赤浜 出雲乃伊波比神社

明和8年、稀有なる旱魃あり。本村各戸の井水、悉く凋れて飲用水 欠乏したりし時に当り、宮井及び神木の根元より▲冷水滾々として湧出し、本村は勿論、隣村 富田よりも、牛馬の飲用水より家内の飲み水に至るまで使用したりといふ。
(古文書)「西は溜沼より厳を限り」

熊谷市(旧大里町)吉見神社 

神社を距る東南凡そ六丁、一の霊井水あり。大旱魃と雖も渇水することなし。文治の昔、源義経の従士 亀井六郎、この地に来り俄に疾病す。乃ち当神社に丹精を凝し祈請を篭め、その霊井水を掬飲せしに、忽ちにして病癒ゆるに至る。これ全く神水の致す所と為し、大に歓喜し、篤く報賽して出発すと伝ふ。爾来この霊井を称して亀井と称へ、その地区を亀井区といふ。今なほ現存す。
2反3畝歩 沼地を存せし

熊谷市(旧江南町)千代 飯玉神社 

社前に古池あり、里唱 御池といふ。池中に棲める魚類凡て片眼なりと称せらる。
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