屋敷内の墓地

  屋敷内の墓地
 屋敷内(自宅の敷地内)またはその隣接の地に、墓地のある家を、ときどき見かける。
柳田國男によると、関東・奥羽、そして南九州の山村などに多く、その由来は不明だが、「由来の不明のものは一応は(わが国)固有と仮定するの他はない」と柳田は言い、古来からのものの可能性があるという意味で、今後の研究の課題とした。しかし、その後、研究は進んでいないと、高取正男氏はいう(『神道の成立』p171)。

 柳田以後の見解の典型は、日本人は死を不浄のものとして避けるので、屋敷内に墓地を置くのは、そうした不浄の意識が薄れてきた後世のものだろうなどといったもので、柳田国男監修『民俗学辞典』(東京堂 1950)がそうなっているが、高取氏はそれには疑問を呈している。

 古代に外来文化の影響が比較的大きかった北九州や近畿地方などよりも、辺境だった関東・奥羽・南九州のほうが、古来の意識が先に薄れてしまったということでもあるまい。むしろ、東北・関東や南九州に遺っている風習のほうが、より原日本的なものだろうと考えるのが、普通なのではないか。

 高取氏によると、明治時代に、墓地は大字に1つの共同墓地にまとめるようにと、行政当局からの勧告があったという。理由は直接的には衛生上のことで、土葬した墓地の雨水が地下に染み込み、地下水となって付近の井戸から汲み上げられることなどを問題にしたのだろう。行政に従って共同墓地にまとめた大字も多かった。しかしそうならなかった大字もある。
 埼玉県児玉郡のある地域でも、屋敷の側に墓地のある家は多いと聞いたが、旧幡羅郡の当地でも、敷地内ではないが、墓地が近接あるいは接近している家は多い。
 当地では 明治25年に、大字内の全ての墓地の所在地と所有者を書き出した『墓籍帳』が作られた。これは行政の勧告に沿ったものなのかもしれない。しかしその後の墓地の統合は僅かしか進まなかった。その理由については、まだ結論は出せていないが、現在では、火葬が進んで衛生上の問題もないので、従来の墓地群は、今後もあまり変わることはない
だろう。

本来は、墓地が不浄に関わるのは、葬儀と埋葬の後の一定期間だけのはずである。普段は不浄の地ではないので、盆暮れには普通に墓参りをするものである。
ところが、共同墓地の形式になると、他家の葬儀や埋葬がひっきりなしに行なわれるようになる。墓前に報告に行こうと思っても、他家の葬式の跡が見えてしまうので、報告は屋内の祭壇で済ませることになり、墓所は遠ざかりる。こうして墓地が避けられるようになったのではあるまいか。
盆迎えの隣りで、葬儀の痕跡もなまなましければ、禁忌の意識も薄らぐ。

  我が家の墓地
 我が家には、墓地が3つあった。珍しい例かもしれない。
 1つは、現在の墓地で、江戸中期(元禄を少し過ぎた頃)からのもので、当時の新しい分家の墓地と隣接する。両家のその後の分家や孫分家、番頭などの縁者を加え、現在は共同墓地のようにも見える。
【それ以前の古い分家は、独自の墓地をもつ。以後の分家については、元の家と共同の墓地となり、江戸後期の墓地の新設はないようである。他の苗字の家もおおむね同様だろうと思う。】

 2つめは、元禄以前の墓地で、屋敷の東南の角にあった。前述の新しい墓地ができてから、こちらは墓地としては使われず、石の庚申塔や勢至尊が付近に立てられ、前に広場ができ、高札場となり、名主宅でもあるので、村内東部の中心地となったようである。この一角は、昭和40年代末の市街化により、宅地課税を避けて畑とし、石塔は新しい墓地へ移動した。そのとき別の苗字の石塔が1つあり、その苗字の家に返したという。
 別苗の石塔については、文化元年の古文書に、その苗字の家から石塔を預ってくれと書かれたものがあることがわかり、そのときの石塔であろう。文化元年には、分家どうしの屋敷の境界を再確認する文書が多数あり、当家でも過去帳を取りまとめ、御先祖様の再確認やら墓地を整備したりの気運が広まったようである。該当苗字の家でも、墓地を改めるなどして、その際に石塔一基を預ったものだろうと思う。こうした文化元年頃の傾向が、村内だけのものなのか、広範囲のものだったのかは、未調査である。
 元禄以後は、門口に石塔が増えて行く家が多くなり、集落のメインストリートの道端が石塔だらけになりそうなので、それは避けようということになったのではないかとと思う。そのために、墓地を屋敷内から移したのであろう。しかしどの家もそれほど遠くへは移していない。小字の集落内の自分の畑や山林の一部を利用したものが多い。

 3つめは、屋敷の北西の角の墓地で、明治末の測量図にも載るが、地目は山林であり、実質もそうであるが、元は墓所だった。江戸初期以前の最も古い墓地と思われ、当時の本家分家の形態は不明だが、本家を中心とした一家内(いっけうち)の墓所であったろう。当時は、石塔は建てず、屋敷の氏神の背後の山林に埋葬したものと思う。そこは本家の屋敷の西北に当たり、屋敷林の一部であるので、その部分だけ樹木が少なかったということはあり得ない。
旧墓所の森の前に、氏神がある。

  屋敷林とは何か
 こうして見ると、屋敷林は、単なる防風林ではないことは明らかである。
 古い村落ほど、屋敷の背後に森があるのではなく、森の中に集落があるようだと、高取氏は別の本でいう。縄文時代以前のはるか太古に、人々は森の中に住んでいた時代があり、その記憶を保存し、そこに安らぎを得る心性があるから、そうなっているのだという。
 とするなら、屋敷林と墓所とが、切り放せないものであることはよく理解できよう。先祖伝来の森の中に眠りたいと、人は思うだろう。
 平地の少ない山間の地などでは、墓地は背後の山の中幅に設ける例が多いらしい。その形が、平野部に降りて来ただけの話のようにも見える。
 民俗学の宮田登氏の対談の本で、屋敷内の墓地のほうが古いことが前提の発言があった。地域にもよるだろうが、概ねそれで良いと思う。

 江戸時代の直前、戦国時代には、屋敷内に先祖の墓所があれば、この土地を何がなんでも守らねばならないと思うだろう。もし滅ぼされたとしても、先祖と自分の霊は、この土地に鎮まり続け、移住者は手厚く祀らなければならない。屋敷林とはそういうものにもなる。たとえ我が先祖が、いつの時代かの移住者の側であったとしても、祀らねばならないものに違いない。

comments (0) | - | 編集

Comments

Comment Form

icons: