子負(こふ)の原

その昔、神功皇后の新羅征伐のときの北九州での話には、「魚釣の石」や「淀姫」の話などがある(佐賀県の話)が、福岡県側の、「子負(こふ)の原」の鎮懐石の話も、よく知られている。
万葉集の山上憶良の歌によると、皇后は、俄かに産気づいたため、2つの石をからだに当てて、出産日を遅らせたという。その石は、筑前国の怡土(いと)郡 深江村の子負の原の、海に臨む丘の上にあったもので、今の鎮懐石八幡宮(福岡県糸島市二丈深江)のあたりという。やがて誕生した皇子は後の応神天皇である。

平安時代の和名抄に、鵠と書いて、くぐひ、こふ、などの訓がある。鵠とは、白鳥などの白い渡り鳥をいい、鴻の鳥や、鶴などもいうことがあるらしい。
「コフの原」とは、白鳥などの飛来地であることからの地名だという定説で問題ないと思う。谷川健一氏によると、2つの石は卵を意味し、貴人が卵から生れるという卵生説話と関係があろうという。

「子負の原」には、海に臨む丘があった。その丘の端から海の方向に斜面を降ったところが、水鳥の棲息に適した地であったのだろう。白鳥は概ね淡水を好むと思う。丘の斜面から大量の湧き水が出て、沼や湿地を形成し、近くの海まで流れていたことが想定されるが、今の地図を見ると、鎮懐石八幡宮の西に堀があって西の海につながっている。
深江の南西には、福井、吉井という地名が続き、泉が噴き出し、吉い泉のある一帯だということがわかる。

古い地名の「原」は、清らかな湧き水などの豊富な土地、水源地をいう。

次は、万葉集より2首、原という地に棲息する鶴を詠んだ歌。

 打ち渡す竹田の原に鳴く鶴の、間無く時無し。わが恋ふらくは  大伴坂上郎女(万葉四、760)
竹田は、今の奈良県橿原市東竹田町、寺川のほとり。

 湯の原に鳴く葦鶴は、わが如く、妹に恋ふれや、時分かず鳴く  大伴旅人(万葉六、961)
大伴旅人が「次田(すきた)の温泉(ゆ)に宿り鶴(たづ)の声を聞きて作れる歌」。次田は、今の福岡県筑紫野市の二日市温泉。

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