帯刀について

【古文書倶楽部2016-9】
近世研究のために、江戸時代の前後の、戦国末期や明治時代のことも勉強し直さないといけないと思い、戦国末期については、藤木久志の本を読んでみたことがある。
最初は岩波新書の『刀狩り』。これは江戸時代のことも多く触れられている。

この本によって、今まで、庶民と刀について間違った認識を持っていたことがわかった。
その間違いとは、豊臣秀吉による「刀狩り」によって、農民は刀を全て没収され、江戸時代は、一部の名主などが例外的に「苗字帯刀」を許された場合に、装飾品ないし宝物として刀を所有し、今日に至ったというもの。その程度の知識だった。

事実は、秀吉の刀狩りは兵農分離に主眼があり、実際の没収は限定的なものだったらしい。江戸時代も多くの農民は刀を所有したが、一揆などでは使用しないというルールがあった。旅や外出のときに、守り刀として脇差し一本を腰に差すのは、普通のことだった。明治以後は刀を差して公道は歩けなくなったが、風呂敷等に包んで荷物として運ぶことは問題ない。戦後の所謂「マッカーサーの刀狩り」では、全国から500万本以上の刀が取り上げられたが、時代による生活慣習の変化で国民の抵抗はなかったという。これは歴史上最大規模の刀狩りだった。ということらしい。

帯刀とは、武士のように大小二本を腰に差すことを言い、一本差しただけでは「帯刀」とは言わないそうだ。二本差しは武士だけの特権である。
そういえば、任侠映画で番場の忠太郎も沓掛の時次郎も、長ドス一本だけを差していた。

庶民にとっての刀は、なんといっても「守り刀」であったのだろうと思う。
臨終のあと、遺体の傍らに守り刀を置く慣習は、今でも残っているところには残っている。
床の間に飾る刀は、そばで就寝する者の守り刀でもあったろうし、我が家も昭和の父まではそうしていた。

さて、藤木氏の他の本で印象に残ってゐることは、
戦国時代は日本中が戦乱の時代で、近隣の村どうしでの武力衝突はひんぱんにあった。死人が出たときは、悪無限の報復の連鎖を避けるために、他方の村から一人を選んでその首を差し出して事態を収めるというルールができていった。その一人をどうやって選ぶかというと、村では予め他所から来た牢人(浪人)を幾人か養っていて、働かなくても食事などを与え、いざというときに差し出したとのこと。急な賦役の人足を差し出さなければならないときも、こうした牢人を差し出したが、「ものぐさ太郎」の話はそうした事実の反映だろうという。また、村の老人の一人が、自分の首を差し出し、子孫を末代まで村役人として待遇することを条件にすることもあったという。江戸時代の名主の中には、そのような経緯で名主になった家もあったことだろう。
戦乱の時代は早く終らせたいという人々の思いは、江戸時代には特に強くなっていったものと思う。

藤木氏の中世史に関するある本で、序文の冒頭を、柳田国男の引用で始めているものがあった。近世史の専門家になぜそれができないのだろうと思った。
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