石井兄弟の仇討

【古文書倶楽部2016-10】

我々父石井宇右衛門と申、
青山因幡守方に知行
弐百五拾石給罷有候。因幡守
大坂御城代相勤被申候時分
私共親も大坂に相詰罷有
申処に、此水之助其時分は
赤堀源五右衛門と申候、源五右衛門
親遊閑と申、江州大津に
浪人にて居申候。此遊閑と
私共親宇右衛門と由緒有之故、
源五右衛門事を頼越申に付、
則かくまい置、色々不便を
加へ、武芸抔はげませ
此者身代の事を致苦労
に居申処に、其時分源五右衛門
儀、方々と鑓の師を致廻り
申に付、父宇右衛門申候は、其方
の鑓にて師致の事 無心元
候、今少致稽古 其上に
師いたし候はば尤の由、申聞候得ば
源五右衛門却て致腹立、左様に
無心元思召候はば先仕相見
申度由 望候故、無是非
仕相仕候。源五右衛門は寸鑓の
竹刀にて、父宇右衛門は木刀にて


仕相、何の手もなく源五右衛門
鑓に入つき 少も不為働
仕負申候て、又異見申。
其分にて事過候得キ
其後源五右衛門弟子一両
人宛も無承之申候故か、御面目
なく存候故、深く宇右衛門を
恨、夜中他所へ引罷帰
申所をくらき所より鑓にて
言葉もかけずつき申候。
宇右衛門鑓をたぐり申候
得共、{日}来の働にをくれ候哉、
つき捨にいたし 迯のき申候。
其時分私共兄兵左衛門、
因幡守近習相勤、泊番にて
居合不申候。尤我々年五歳
二歳の時分故 落のばし
申候。其節源五右衛門書置候は、
宇右衛門妻致病死 無之に付
縁組取組仕 京より呼寄せ
申筈に仲人致候處に宇右衛門
分別替り 変改仕 先様へ
申訳無之故 如是致置候
抔と書置申候。定て御家にても
左様の申慣にて可有之候。


夫より兄兵左衛門 因幡守より
暇取、ねらひ廻り候得ども
深隠行方知れ不申に付、
右の遊閑を討候はば 無是非
行合可申と存、私共兄
遊閑を江州大津に討
捨申候。夫より・に相ねらひに
成申候。八ヶ年過候て於美濃に
兄由緒の者有之様・滞
在仕候処を、源五右衛門承之
彼宅へ忍入 後よりだまし
切に仕候。兄ぬきあわせ
源五右衛門がももを突候得共
深手負終に討れ申候。
夫より此様子を以御家へ
被召抱、御城内に被差置、
町々御領分の在方迄
彼者かとふと仕申様に
被 仰付候事、千万無是
非義にて御座候。其後我々
兄弟歳立仕寄ねらひ
廻り候得共、堅密の御かこ
い きび敷、或は商人非人
の躰にも身をなし爰かしこ
はいかい致候といへども、



終に不得折を 甲斐なく
して、漸々四五年以前より
一人は御家中の面々へ渡
並の草履取に奉公人と
成、深く包心掛候得ども、
今一人兄源蔵一所に難
成。漸々今年迄相待一
所に罷成、兄弟共に只今
年来の遂本望、雪会
稽の恥 候者也。愚筆故
有増 如斯御座候。以上

巳五月日 石井源蔵
       吉時 判
     石井半蔵
       時定 判
板倉周防守様
 御家老中
    御披見

尤竪・・水之助
死骸袴腰に結付け
立退候由

元禄14年に起こった石井兄弟の仇討は「亀山の仇討ち(wikipedia)」ともいう。
世に仇討といっても、忠臣蔵では浅野内匠頭は殺されたわけではなく、その他、典型的な必要条件を満たす仇討は意外に少ないのだそうだが、亀山の仇討はそうではない。
文書は、仇討を遂げたあとの始末書のようなもので、庶民はこれを書き写したものを、ゴシップを読むように回し読みしていたようで、このような状態で残っている。
(ただし虫食が酷い部分は、研究書を参考に修正してある。)
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