旧暦歳時記 2

その2である。今後、追記の予定あり。

  • 7月 文月
  • 立秋
  • 涼風至(すずかぜ いたる)
  • 1 釜蓋朔日
  • 2 煤払 虫払
  • 3
  • 4
  • 5 栄西忌
  • 寒蝉鳴(ひぐらし なく)
  • 6 北野御手水(煤払) 秋の峯入 硯洗い
  • 7 七夕 乞巧奠 ねぶた祭 盆狂言
  • 8 文殊会
  • 9 浅草四万六千日(-10) 六道参
  • 10 清水千日参
  • 蒙霧升降(ふかききり まとふ)
  • 11
  • 12 草市(-13)
  • 13 迎火
  • 14 盆供 玉取祭(厳島神社)
  • 15 お盆 盆踊 三井寺女詣
  • 処暑
  • 綿柎開(わたのはな しべひらく)
  • 16 送火 精霊送 薮入り 閻魔詣
  • 17 応挙忌
  • 18
  • 19
  • 20 二十日盆
  • 天地始粛(てんち はじめてさむし)
  • 21
  • 22
  • 23 地蔵盆(-24)
  • 24
  • 25
  • 禾乃登(こくもの すなはちみのる)
  • 26 二十六夜待 御山洗(富士の雨) 道灌忌
  • 27 御射山祭(26-28諏訪)
  • 28 相撲節
  • 29
  • 30 宗祇忌
  • 8月 葉月
  • 白露
  • 草露白(くさのつゆ しろし)
  • 1 八朔 不知火
  • 2 出替 二日灸 二日月
  • 3 三日月
  • 4
  • 5
  • 鶺鴒鳴(せきれい なく)
  • 6
  • 7 弓張月
  • 8 世阿弥忌
  • 9
  • 10 西鶴忌
  • 玄鳥去(つばめ さる)
  • 11
  • 12
  • 13 彼岸入 大鳥祭(堺)
  • 14
  • 15 十五夜 月見 放生会(八幡宮)
  • 秋分 彼岸
  • 雷乃収声(かみなり すなはちこゑををさむ)
  • 16
  • 17 立待月
  • 18 太閤忌 居待月
  • 19 臥待月
  • 20 定家忌 更待月
  • 蟄虫坏戸(むしかくれて とをふさぐ)
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25 吉野太夫忌
  • 水始涸(みづ はじめてかる)
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 9月 長月
  • 寒露
  • 鴻雁来(こうがん きたる)
  • 1 更衣
  • 2
  • 3 御灯
  • 4
  • 5
  • 菊花開(きくのはな ひらく)
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9 重陽 後の雛 菊の節供 九日小袖
  • 10
  • 蟋蟀在戸(きりぎりす とにあり)
  • 11
  • 12 広隆寺牛祭
  • 13 十三夜 土用入 長月の念仏(-15)
  • 14
  • 15 神田明神祭
  • 霜降
  • 霜始降(しも はじめてふる)
  • 16 芝神明祭
  • 17 神嘗祭
  • 18 穴織祭(17,18)
  • 19
  • 20
  • 霎時施(こさめ ときどきふる)
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24 逆髪祭(関蝉丸宮)
  • 25
  • 楓蔦黄(もみぢつた きばむ)
  • 26
  • 27
  • 28 秋の釈奠(孔子生誕)
  • 29 宣長忌
  • 30 神渡し
  • 10月 神無月
  • 立冬
  • 山茶始開(つばき はじめてひらく)
  • 1 開炉
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5 十夜法要(-14) 達磨忌
  • 地始凍(ち はじめてこおる)
  • 6 興福寺法華会
  • 7
  • 8 御会式(-13)
  • 9
  • 10 十日夜 案山子揚
  • 金盞香(きんせんか さく)
  • 11
  • 12 芭蕉忌 [初亥]炉開き 栂尾虫供養 [上亥]玄子餅
  • 13 御命講(日蓮)
  • 14
  • 15 下元の節
  • 小雪
  • 虹蔵不見(にじ かくれてみえず)
  • 16
  • 17 神在祭 江戸三芝居囃初
  • 18
  • 19 べったら市
  • 20 恵比須講 二十日夷 誓文払
  • 朔風払葉(きたかぜ このはをはらふ)
  • 21 大歌始(1.16まで)
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 橘始黄(たちばな はじめてきばむ)
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29 十月会
  • 30
  • 11月 霜月
  • 大雪
  • 閉塞成冬(そらさむく ふゆとなる)
  • 1 赤柏 大歌舞伎顔見世 神帰り
  • 2
  • 3 妙見祭礼(秩父夜祭)
  • 4 三大師
  • 5 饗のこと
  • 熊蟄穴(くま あなにこもる)
  • 6
  • 7
  • 8 鞴祭
  • 9 [上申]春日祭
  • 10 [酉]酉の市
  • 鱖魚群(さけのうを むらがる)
  • 11 生姜市
  • 12
  • 13 空也忌
  • 14 三大師
  • 15 油締 いざいほう(5日間) 髪置 七五三 鮭の大助
  • 冬至 冬至粥
  • 乃東生(なつかれくさ しょうず)
  • 16 [中卯]新嘗祭
  • 17
  • 18 鞴祭
  • 19 一茶忌
  • 20 恵比須講
  • 麋角解(おほしかのつの おつる)
  • 21
  • 22 報恩講(-28 親鸞) 近松忌
  • 23 大師講(-24) 霜月粥
  • 24 三大師
  • 25 神在祭
  • 雪下出麦(ゆきわたりて むぎいづる)
  • 26
  • 27
  • 28 報恩講(親鸞忌)
  • 29
  • 30 土穂供養(落穂)
  • 12月 師走
  • 小寒
  • 芹乃栄(せり すなはちさかゆ)
  • 1 乙子の祝 川浸り餅
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5 納めの水天宮
  • 水泉動(しみづ あたたかをふくむ)
  • 6
  • 7
  • 8 事始め(事納め) 八日吹 朧八会
  • 9
  • 10
  • 雉始雊(きじ はじめてなく)
  • 11
  • 12
  • 13 煤払ひ 正月事始 星仏祭 土用入
  • 14 蔵の市始まる
  • 15
  • 大寒
  • 款冬華(ふきのはな さく)
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19 仏名会
  • 20 蓑市 果の二十日
  • 水沢腹堅(さはみづ こほりつめる)
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24 蕪村忌
  • 25
  • 鶏始乳(にはとり はじめてとやにつく)
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29 小晦日
  • 30 大晦日 大祓 追儺 年越 節分
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旧暦歳時記 1

ごく一般的な旧暦の年中行事を表にしてみた。青字は月日は不定。
空欄を減らすため各地の行事を書き込んだが、一地域で多数の行事があるわけではない。
後日に詳細な解説を書くための下調べである。5月28日の「曽我の雨」は曽我兄弟の仇討の日のことで、こういう記念日的なものを増やせばもっと埋まるかもしれない。
おもに鈴木棠三『年中行事辞典』(東京堂)を参考にした。

  • 1月 睦月
  • 立春
  • 東風解凍(こち こほりをとく)
  • 1 元旦 恵方参り 初芝居 初日の出 若水汲み [上子]子日遊
  • 2 初夢 初商ひ 初荷 初買 仕事始 ひめ始
  • 3 芸事始め 
  • 4 寺年始
  • 5
  • 黄鶯睍(うぐひす なく)
  • 6 六日年越(粥たたき)
  • 7 七草 人日 鬼火祭
  • 8
  • 9
  • 10 十日夷(恵比須講)
  • 魚上氷(うを こほりをいづる)
  • 11 初山入 鍬始 蔵開き
  • 12 [上亥]摩利支天参
  • 13
  • 14 横手のかまくら 年越の祝
  • 15 小正月 なまはげ
  • 雨水
  • 土脉潤起(つちのしょう うるほひおこる)
  • 16 薮入り 閻魔詣
  • 17 左義長
  • 18 左義長
  • 19 おしら講 御忌(法然忌)
  • 20 二十日夷(恵比須講) 骨正月
  • 霞始靆(かすみ はじめてたなびく)
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24 愛宕詣 亀戸天神鷽替(-25)
  • 25 天神祭
  • 草木萌動(そうもく めばえいづる)
  • 26 二十六夜待
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 2月 如月
  • 啓蟄
  • 蟄虫啓戸(すごもりむし とをひらく)
  • 1 閉炉 年重の祝
  • 2 如月の灸 二日灸 行基詣
  • 3 田植祭
  • 4 祈年祭
  • 5
  • 桃始笑(もも はじめてさく)
  • 6
  • 7 [上午]初午 薪能
  • 8 事納め(事始め) 針供養
  • 9 [上申]初申 春日祭
  • 10
  • 菜虫化蝶(なむし ちょうとなる)
  • 11
  • 12 [亥]春亥の子
  • 13 彼岸入 御水取
  • 14
  • 15 涅槃会 柱炬火 
  • 春分 彼岸
  • 雀始巣(すずめ はじめてすくふ)
  • 16 西行忌
  • 17
  • 18 十八粥
  • 19
  • 20 浅間祭
  • 桜始開(さくら はじめてひらく)
  • 21
  • 22 聖霊会
  • 23 太子講
  • 24
  • 25 天神講 雛市
  • 雷乃発声(かみなり すなはちこゑをはっす)
  • 26
  • 27
  • 28 利休忌
  • 29
  • 30
  •  [彼岸近い戊]社日
  • 3月 弥生
  • 清明
  • 玄鳥至(つばめ きたる)
  • 1
  • 2
  • 3 上巳 雛祭 磯遊び [大潮]潮干狩 山行 花見
  • 4 奉公人の年季交替(-5)
  • 5
  • 鴻雁北(こうがん きたへかへる)
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 虹始見(にじ はじめてあらはる)
  • 11
  • 12
  • 13 十三参 土用入
  • 14
  • 15 梅若忌
  • 穀雨
  • 葭始生(あし はじめてしょうず)
  • 16
  • 17 浅草三社祭(-18)
  • 18 人麻呂忌
  • 19
  • 20
  • 霜止出苗(しもやんで なへいづる)
  • 21 御影供 空海忌
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25 蓮如忌
  • 牡丹華(ぼたん はなさく)
  • 26
  • 27
  • 28 お札流し 宗因忌 八十八夜
  • 29
  • 30 炉塞ぎ
  • 4月 卯月
  • 立夏
  • 蛙始鳴(かわづ はじめてなく)
  • 1 更衣の儀 孟夏の宴 綿抜の朔日
  • 2
  • 3
  • 4 大峰入
  • 5
  • 蚯蚓出(みみず いづる)
  • 6
  • 7
  • 8 灌仏会(花祭) 馬の塔
  • 9
  • 10
  • 竹笋生(たけのこ しょうず)
  • 11
  • 12
  • 13 練供養
  • 14
  • 15 安居(結夏)
  • 小満
  • 蚕起食桑(かいこおきて くはをはむ)
  • 16 三井寺栴檀講
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 紅花栄(べにばな さかゆ)
  • 21 [中申]山王祭
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25 幟市
  • 麦秋至(むぎのとき いたる)
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 5月 皐月
  • 芒種
  • 螳螂生(かまきり しょうず)
  • 1 賀茂競馬足揃
  • 2
  • 3 菖蒲献上
  • 4 菖蒲湯
  • 5 端午 女の家 牛駈け 薬日 賀茂競馬 入梅
  • 腐草為蛍(くされたるくさ ほたるとなる)
  • 6 鑑真忌
  • 7
  • 8 道頓忌
  • 9
  • 10
  • 梅子黄(うめのみ きばむ)
  • 11
  • 12
  • 13 竹植うる日
  • 14
  • 15
  • 夏至
  • 乃東枯(なつかれ くさかるる)
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19 団扇撒き
  • 20
  • 菖蒲華(あやめ はなさく)
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24 伊勢神宮御田植 蝉丸忌
  • 25 有無の日
  • 半夏生(はんげしょうず)
  • 26
  • 27
  • 28 住吉の田植 隅田川川開き 業平忌 曾我の雨
  • 29
  • 30 富士垢離
  • 6月 水無月
  • 小暑
  • 温風至(あつかぜ いたる)
  • 1 剥け返りの朔日 氷の朔日 富士山開き 四天王寺愛染祭
  • 2 光琳忌
  • 3
  • 4 六月会
  • 5
  • 蓮始開(はす はじめてひらく)
  • 6
  • 7 祇園会(-14 八坂社)
  • 8
  • 9 鳥越神社祭礼 九度参
  • 10
  • 鷹乃学習(たか すなはちわざをなす)
  • 11
  • 12
  • 13 土用入
  • 14 那智火祭 祇園会
  • 15 江戸山王祭 
  • 大暑
  • 桐始結花(きり はじめてはなをむすぶ)
  • 16 嘉祥 月見
  • 17 厳島神社管弦祭
  • 18
  • 19
  • 20 信長忌
  • 土潤溽暑(つちうるおひて むしあつし)
  • 21 糾の納涼
  • 22
  • 23
  • 24 愛宕火 愛宕千日詣
  • 25 天神祭
  • 大雨時行(たいう ときどきにふる)
  • 26 二十六夜待
  • 27
  • 28 大山詣
  • 29
  • 30 夏越の祓
  •  道饗祭 土用の丑(鰻)
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氏神(屋敷神)について

『屋敷神の研究』(直江広治:著)という本に、埼玉県の「県北地方」の2例が、研究雑誌などから、引用・紹介されている。

○大里郡男衾村(現寄居町)富田 字上郷
 どの家にも屋敷の左後方に「ウヂガミサマ」の祠があり、正月に幣束をあげる。祭神は部落の鎮守様である天神様もあれば、稲荷さんや八幡様などもあって雑多である。イッケ(*)内でも、新宅のウヂガミサマは本家から分祀するものとは限らず、各戸に家の守護神として、必ずなくてはならぬものとしている。(*一家、同苗の一族)
 男衾村から小原村、吉岡村にかけて、大里郡は大体屋敷神をウヂガミと呼び、新しい分家もこれを盛っている地帯のようである。村氏神の方は、鎮守様、あるいは祭神名で呼んでいる。
○秩父郡地方
 日野沢村(現皆野町)では、たいていの家で屋敷内の多くは戌亥の隅に「ウヂガミサマ」(ウチガミサマともいう)の小祠を祀っている。霜月十五日が祭日で、幣束を立てて赤飯を供えて祀る。沢部部落では、ウヂガミサマは遠い先祖を祀ったものだといい、ウヂガミサマのついた屋敷を三屋買い取ると、その家は絶えるものだと言っている。この辺では村氏神のほうは、ウブスナ様あるいはチンジュ様と呼んでいる。
 また同郡浦山村でも、各戸屋敷の西北隅に、多くは大木の下に屋敷の神様を祀り、これをハチマンサマと呼んでいる。

主要部分については、この地方では、上記の通りである。
しかし微妙な点もあるので、いくつか確認してみる。

屋敷神の祭神について「部落の鎮守様である天神様」とあるのは例外的で、祭神は不明、または稲荷様であるというのが多数である。これはどこかの稲荷神社の分祀というのではなく、地主神としてのイナリであろう。イナリ様とカタカナで表記したほうが良いかもしれない。
「八幡様」ともあるが、これは若宮八幡、または若宮様のことであり、ウヂガミ様の脇に配祀されることが少なくない。若死にした者を祀ったことから始まったする見解もある。
「雑多である」というように、源為朝というのを見たことがあるが、為朝は江戸時代に子供の疱瘡除けの神として広まったことから、床の間に祀った為朝を快癒後にウヂガミの脇に遷した可能性も考えられる。他に小数の例だが、金毘羅様、三峰様などを、ウヂガミ様と並べて祀る例もあるようだ。

祭日については、他地域の例をみても、それぞれである。「霜月十五日」というのもあるのだろう。「正月に幣束をあげる」というのは、年を迎えるために年末に供える。神棚の伊勢の大神宮様のおふだを新しくし、氏神様にも幣束を祀り、餅などを供える。幣束はカマドなどにも祀り、正月を迎えるための多数の幣束を、釜締め(かまじめ)と総称する。大里郡南部方面などでは、キリハギと呼ぶところもあるが。「ハギ」とは東北地方のナマハギのハギと共通の言葉かもしれない。

屋敷神は、大木の下に祀ることが多かったろうが、近年は樹木そのものが少なくなっている。
宮の形式は、藁宮ともいい、藁を幅1〜2尺ほどの薦状に調え、前方を2本の細い柱で持ち上げる程度のものだった。四方に4本の柱の所もあったらしい。いつのころからか、小さな木造の流造など御宮を作り、あるいは石宮を作り、しっかりした土台の上に設置するようになっていったが、戦後の高度成長期以後のことである。

ウヂガミとウチガミのどちらが本来なのかは難しい。東北地方では、オツガミなどと聞えるところもあるという。東海地方などで、地ノ神(ヂノカミ)、ヂガミと呼ぶのは、ウヂガミのウが取れただけかもしれないが、何ともいえない。

 屋敷神をウヂガミ様、またはウチガミ様と呼ぶ地方は、同書によれば関東から東北地方にかけての大変広い範囲である。他に南九州、三重県志摩地方、岐阜県の一部などがそうであるようで、同書を詳細にチェックすれば分布地図も作れるだろう。
 逆に、屋敷神をチンジュ様と呼び、村鎮守をウヂガミ様と呼ぶ地方が、長野県や岐阜県などにあるが、多くはない。

 村鎮守を「氏神」と呼ぶのは、いわば小数派である。しかし、明治5年の新戸籍(壬申戸籍)の下調帳には、江戸期の人別帳と同様に、一戸ごとの菩提寺の名が記載され、ほかに「氏神」としての神社名を記載した例が多数ある。おそらくこれは全国的な記載法だったのだろう。鎮守という言葉は、「村の鎮守」とは言うが、「○○家の鎮守」とは言わない。そこで「○○家の氏神」という意味で、「氏神」が戸籍の用語として広まったと思われる。その後、公文書などでは、従来の鎮守の意味でも、氏神という用語を使うことが多くなっていったのではあるまいか。
「屋敷神」という言い方は、研究者による分類名の感があるので、今後も、民間では、祀る家の先祖につながる「氏神」という名で呼ばれるのだろう。

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屋敷内の墓地

  屋敷内の墓地
 屋敷内(自宅の敷地内)またはその隣接の地に、墓地のある家を、ときどき見かける。
柳田國男によると、関東・奥羽、そして南九州の山村などに多く、その由来は不明だが、「由来の不明のものは一応は(わが国)固有と仮定するの他はない」と柳田は言い、古来からのものの可能性があるという意味で、今後の研究の課題とした。しかし、その後、研究は進んでいないと、高取正男氏はいう(『神道の成立』p171)。

 柳田以後の見解の典型は、日本人は死を不浄のものとして避けるので、屋敷内に墓地を置くのは、そうした不浄の意識が薄れてきた後世のものだろうなどといったもので、柳田国男監修『民俗学辞典』(東京堂 1950)がそうなっているが、高取氏はそれには疑問を呈している。

 古代に外来文化の影響が比較的大きかった北九州や近畿地方などよりも、辺境だった関東・奥羽・南九州のほうが、古来の意識が先に薄れてしまったということでもあるまい。むしろ、東北・関東や南九州に遺っている風習のほうが、より原日本的なものだろうと考えるのが、普通なのではないか。

 高取氏によると、明治時代に、墓地は大字に1つの共同墓地にまとめるようにと、行政当局からの勧告があったという。理由は直接的には衛生上のことで、土葬した墓地の雨水が地下に染み込み、地下水となって付近の井戸から汲み上げられることなどを問題にしたのだろう。行政に従って共同墓地にまとめた大字も多かった。しかしそうならなかった大字もある。
 埼玉県児玉郡のある地域でも、屋敷の側に墓地のある家は多いと聞いたが、旧幡羅郡の当地でも、敷地内ではないが、墓地が近接あるいは接近している家は多い。
 当地では 明治25年に、大字内の全ての墓地の所在地と所有者を書き出した『墓籍帳』が作られた。これは行政の勧告に沿ったものなのかもしれない。しかしその後の墓地の統合は僅かしか進まなかった。その理由については、まだ結論は出せていないが、現在では、火葬が進んで衛生上の問題もないので、従来の墓地群は、今後もあまり変わることはない
だろう。

本来は、墓地が不浄に関わるのは、葬儀と埋葬の後の一定期間だけのはずである。普段は不浄の地ではないので、盆暮れには普通に墓参りをするものである。
ところが、共同墓地の形式になると、他家の葬儀や埋葬がひっきりなしに行なわれるようになる。墓前に報告に行こうと思っても、他家の葬式の跡が見えてしまうので、報告は屋内の祭壇で済ませることになり、墓所は遠ざかりる。こうして墓地が避けられるようになったのではあるまいか。
盆迎えの隣りで、葬儀の痕跡もなまなましければ、禁忌の意識も薄らぐ。

  我が家の墓地
 我が家には、墓地が3つあった。珍しい例かもしれない。
 1つは、現在の墓地で、江戸中期(元禄を少し過ぎた頃)からのもので、当時の新しい分家の墓地と隣接する。両家のその後の分家や孫分家、番頭などの縁者を加え、現在は共同墓地のようにも見える。
【それ以前の古い分家は、独自の墓地をもつ。以後の分家については、元の家と共同の墓地となり、江戸後期の墓地の新設はないようである。他の苗字の家もおおむね同様だろうと思う。】

 2つめは、元禄以前の墓地で、屋敷の東南の角にあった。前述の新しい墓地ができてから、こちらは墓地としては使われず、石の庚申塔や勢至尊が付近に立てられ、前に広場ができ、高札場となり、名主宅でもあるので、村内東部の中心地となったようである。この一角は、昭和40年代末の市街化により、宅地課税を避けて畑とし、石塔は新しい墓地へ移動した。そのとき別の苗字の石塔が1つあり、その苗字の家に返したという。
 別苗の石塔については、文化元年の古文書に、その苗字の家から石塔を預ってくれと書かれたものがあることがわかり、そのときの石塔であろう。文化元年には、分家どうしの屋敷の境界を再確認する文書が多数あり、当家でも過去帳を取りまとめ、御先祖様の再確認やら墓地を整備したりの気運が広まったようである。該当苗字の家でも、墓地を改めるなどして、その際に石塔一基を預ったものだろうと思う。こうした文化元年頃の傾向が、村内だけのものなのか、広範囲のものだったのかは、未調査である。
 元禄以後は、門口に石塔が増えて行く家が多くなり、集落のメインストリートの道端が石塔だらけになりそうなので、それは避けようということになったのではないかとと思う。そのために、墓地を屋敷内から移したのであろう。しかしどの家もそれほど遠くへは移していない。小字の集落内の自分の畑や山林の一部を利用したものが多い。

 3つめは、屋敷の北西の角の墓地で、明治末の測量図にも載るが、地目は山林であり、実質もそうであるが、元は墓所だった。江戸初期以前の最も古い墓地と思われ、当時の本家分家の形態は不明だが、本家を中心とした一家内(いっけうち)の墓所であったろう。当時は、石塔は建てず、屋敷の氏神の背後の山林に埋葬したものと思う。そこは本家の屋敷の西北に当たり、屋敷林の一部であるので、その部分だけ樹木が少なかったということはあり得ない。
旧墓所の森の前に、氏神がある。

  屋敷林とは何か
 こうして見ると、屋敷林は、単なる防風林ではないことは明らかである。
 古い村落ほど、屋敷の背後に森があるのではなく、森の中に集落があるようだと、高取氏は別の本でいう。縄文時代以前のはるか太古に、人々は森の中に住んでいた時代があり、その記憶を保存し、そこに安らぎを得る心性があるから、そうなっているのだという。
 とするなら、屋敷林と墓所とが、切り放せないものであることはよく理解できよう。先祖伝来の森の中に眠りたいと、人は思うだろう。
 平地の少ない山間の地などでは、墓地は背後の山の中幅に設ける例が多いらしい。その形が、平野部に降りて来ただけの話のようにも見える。
 民俗学の宮田登氏の対談の本で、屋敷内の墓地のほうが古いことが前提の発言があった。地域にもよるだろうが、概ねそれで良いと思う。

 江戸時代の直前、戦国時代には、屋敷内に先祖の墓所があれば、この土地を何がなんでも守らねばならないと思うだろう。もし滅ぼされたとしても、先祖と自分の霊は、この土地に鎮まり続け、移住者は手厚く祀らなければならない。屋敷林とはそういうものにもなる。たとえ我が先祖が、いつの時代かの移住者の側であったとしても、祀らねばならないものに違いない。

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