江戸時代の一日の労働時間

1日に8時間の労働は、(私事だが)大変だと感じるようになった。おそらく年齢のせいだらう。
1時間毎に1時間の休憩や読書時間などを混じへて、休憩込み15時間のほうが、まだ楽だと思ふ。
しかし昔は(江戸時代などは)、日本人の労働時間は、それほど長くはなかったのではないだらうか。
身のまはりで早死にする人たちを見るにつけ、働き過ぎの蓄積が原因のように思へてならない。
日本人の労働効率は、世界的に見ても、低いほうなのだそうだ。明治以来、追ひつき追ひ越せで経済はそこそこ成功したといっても、それは労働効率が良かったからではないらしい。となると、江戸時代と違って、単に労働時間を長くしただけのことになる。

江戸時代の人々は実際にどのくらゐ働いたのだらうか。。
江戸城に日勤する武士たちの勤務時間は、小川恭二氏によると、老中などの要職にある者は、朝10時から午後2時くらゐまでで、他は朝が8時と早めになってそのぶん長い(『江戸の暮らし122話』つくばね舎)。つまり1日4〜6時間といったところ。城内警衛の番方などは、24時間を3交替制だが、3〜5日に一度の勤務だったといふ。平均すると、4日で8時間(1日2時間)の計算だが、天候に関らずのきつい仕事なのであらう。
阿波国では、大名おかかへの能楽師たちは、1年勤務すると次の1年は完全休暇だったと、浮世絵の写楽研究家が明らかにした(*)。大名は2つの能楽チームを雇ってゐたのだらう。江戸では北町奉行所と南町奉行所は交互に月交替で勤務したといふ。指南番がゐるところへもう一人指南番を雇ふといふ落語の話も、十分ありうる話だ。
(* 内田千鶴子氏によると、1年間の休暇中に能楽師斎藤十郎兵衛は写楽として絵を描き残したらしい。)

商店では、明るいうちに閉めて、明るいうちに湯屋に行って、明るいうちに夕飯を食べたほうがうまいに決まってゐる。芝居も明るいうちにしかやってないので、見に行く時間がときどきは欲しいはずだ。

農家も概ね同様だと思ふ。農繁期といふのがあるが、天候よって休まなければならない日も多いわけで、トータルではそんなに長時間労働にはならないのではなからうか。
芳賀登氏は、天保のころの下野国、弘化のころの上野国の農村の史料から、年60日以上は休み日があったらうとする(『江戸期の社会実相一〇〇話』つくばね舎)。休み日とは、盆や正月、神仏に関る日を含めてである。
ただし、これらは日数のことであり、時間のことではない。また、祭礼の前には、上演する芸能のための稽古で、たくさんの日数を要するものである。労働が終ったあとでもできるが、やはり明るいうちに稽古すべきだらう。
休みといっても、神仏の用以外では、男なら薪を調達したり、家屋の修繕などの家事がある。家屋は、骨組は専門の大工に頼むが、他は自分で少しづつ作るものだった。これらも労働のうちだと見る向きもあるかもしれないが、ほどほどの量の仕事なら、農業専業の単一労働ばかりに対してリフレッシュの効果があるだらう。半分遊びのような仕事を混じへるのが良いのではないか。

江戸時代の伊勢参りの道中記を見ると、宿に到着した時刻が書かれてゐることがあり、八ツ時が多い。八ツとは「おやつ」の時刻のことで、午後2時ごろのことである。宿は予め予約してあるわけではなく、宿では、客が到着してから夕飯のために魚屋や八百屋に買出しに出るのだらう。夕食の料理はやはり明るいうちに食べたであらう。
午後2時までといふのは、前述の江戸城の武士も同様だった。農家の労働も、同様だったと考へるのが自然である。

余談だが、大正から昭和のころの茨城県の農家の話では、親の道楽で屋敷地(宅地)以外の田畑は全て人手に渡ってゐたが、夫婦で一生懸命働いて20年で田畑を買ひ戻したといふ話がある(『聞きがたり農村史1』御茶の水書房)。20年のうちには何人かの子供も育て、そうやって、この夫婦は毎日8時間以上は働いたことは確実である。
買ひ戻した土地の値段は、1反で普通の1人分の年収ほどだらうから、1町歩を買ひ戻したとすれば、普通の人の10年分の年収にあたる貯金を、夫婦は20年で貯めたわけである。よく働けば、そのくらいは可能だらうが、からだが丈夫でないといけない。

蛇足。貧しい農民は、朝から晩まで働きづくめで、それでも収入はごく僅かだった、などという固定イメージを抱く人もあるかもしれないが、そんなに長時間働くためには、広大な田畑を所有してゐなければ不可能である。小作ならありうるといふ理屈もあるが、一つの村でそんなに多くの貧農たちのための多くの田畑は存在しないことは調べればわかることである。農業の労働時間は、耕作する田畑の面積に比例する。

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市川市月の桃太郎と猿・犬・雉

幕末に武蔵国幡羅郡江原村(現深谷市江原)に生れた俳人、市川市月は、絵も描き、気の利いた物語なども書きそえた軸物が多数あり、その洒落心などが、地元では愛好されている。

昔話の桃太郎を描いた軸物では、猿、犬、雉の三匹の意味について、次のように書く。

三疋の禽獣は 悪はさる 魔はいぬ 災はきじと云の謎
心の鬼の亡る時は万の宝も掌の内にとり込し肆(いちぐら)に栄ん事疑ひなし

悪は去る(猿)、魔は往ぬ(犬)、災は来じ(雉)という謎かけだというのだが、
「来(き)じ」とは方言的な言い方である。「来(こ)ない」というべきところを関東地方では「きない」というが、そのいわば文語表現が「来(こ)じ」でなく「きじ」というわけである。したがってこの「きじ」と雉をかけるという発想は、そうした方言を使う地域の人でなければ思い付かない。市川氏本人が考えた洒落なのだろう。

肆(いちぐら)とは、市座のことで、市で商品を並べ置く所の意味らしいが、「栄ん事疑ひなし」というわけで、蔵の中の財宝も増えてゆくという、まことに縁起の良い話である。縁起の良い文や絵なので、この地方の人は、これを床の間に掛けて飾ることを好んだのだろう。
「いちぐら」の「いち」は市川氏の市でもあり、市川市月は地方で句会があれば主催者や賛同者として必ず名を連ねた人だった。
市川市月 桃太郎



話変って「猿」をふくんだ謎解きをもう一題。
ぬえ(鵺)という伝説上の怪獣があり、尾は蛇、手足は虎、頭は猿で、蛇(巳)・寅・申で「みとらざる」ともいう。親の死に際を看取ることができないという意味であり、家族に巳年生れ・寅年生れ・申年生れの三人が揃うと親の死に目に会えないという俗説になっている。
(ちなみに、鵺は、胴は狸で、声は虎鶫(とらつぐみ)に似ているらしい)

鵺を退治したといえば源頼政だが、もし平安時代の京都で「みとらざる」という言い方が成立していたとすれば(可能性は低いかもしれないが)、誰にも看取られずに死んだ者たちが化けて出たのが鵺なのではなかろうか。都では、行き倒れの多かった時代であったし、官人たちも親の臨終の場にいると死穢のために1年間は出仕できずに出世に遅れることになるので、人の死に目に遭うことを避けた時代である。

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村の費用で賄う行事

明治2年の幡羅郡原之郷村の文書から。
助郷などに関連して刎銭やら村に支給される金銭などもあったようで、その使途について書かれた文書に、村の行事などが23項目書かれていた。項目名だけではわかりにくいので、その説明を試みたが、こちらの想像のみの部分があるので、さらに後日に再考が必要となる。「」内は辞書から引用。

一 鳥猟運上金 并 鑑札
    鑑札を得て、鳥の捕獲をしていたようだ。
一 風祭り鎮守湯立
    風祭りとは、「風を鎮めるため二百十日の前後に行う祭。風日待。とうせんぼう。」
    湯立 「神前で湯を沸かし、巫女が熱湯に笹の葉を浸して自分の身や参詣人にふりかける」「舞と結合して芸能化」

一 福正寺留場料
    ※福正寺 国済寺末 薬師如来 普化宗 稲荷町現高橋仕立屋付近にあった。
一 年中諸浪人足銭泊り

一 年中座頭足銭泊り
    座頭は琵琶法師などの芸能者のことか
一 同 諸勧化
    勧化は、神仏関係者への寄付
一 榛名山氷礼祭り
    (不明)
一 丈方川浚 人足賃
    丈方川の川底を定期的に浚う仕事の賃金。本来は所有する田の面積に応じての人足負担だろうが、面積に応じた村費の負担があれば、村費で人足賃を払うのが合理的なのだろう。
一 年中郷送り物
    郷送りとは、村送りのこと。原郷村では、村内というところを郷中ということがある。
    村送りとは、廻状や、人別送りなどのことらしい。
一 同諸人足
    廻状を他村へ伝達するなどの仕事
一 年中諸山御師
    諸山とは、羽黒山、熊野山。伊勢は伊勢講の組織があったろう。
一 京都愛宕山勧化
    愛宕山の関係者が定期的に来たようだ。
一 秋作番賃
    収穫間近の田の見回り担当者のことか
一 丈方川定式
    川の維持管理のための毎年決まった仕事
一 年中瞽女
    瞽女などの芸人に関する費用。宿泊などの諸費用。事実上は、村の主催で、入場無料か。
一 高畑堰杭木代
    高畑村の堰から用水を分配して田に導いたのだろう。堰を維持・補修などのための杭の費用。
一 同 番賃
    堰を管理担当する者の費用。

一 年中定遣給
    定例の出張や、伝達の費用
一 年中当番蝋燭代
    夜勤の当番の蝋燭代
一 同当番筆墨紙代
    毎年の文書を作る墨紙代
一 同割場弁当代

一 番非人敷地代
    深谷宿入口に非人小屋があった。その土地は百姓の誰かのもので、借地料。
一 年中御年貢納入用
    年貢納入のための費用。

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子供の手習

北武蔵地名

江戸時代の手習塾(または寺子屋)で、子供が読み書きを習うための教本などで、有名なものはいくつかある。
『名頭字林』は、「原平藤橘」で始まる人名用漢字を羅列した内容であり、全国共通である。『江戸方角』は江戸と近隣の地名を羅列した内容だが、使用された地域は限定的ということになる。地方では地方の地名を羅列したものがある。冒頭の画像は、武蔵北部の地名と、いくつかの上州の地名が書かれた文書の断片である。

1行目は読みにくく、最初の「戸」は前行からのもので不明だが、
次に「三ヶ尻 十六間」とあり、武蔵国幡羅郡の村名である。
次の「新堀 玉ノ井」も同様。
更に「 小嶋(大里郡) 瀬山(榛沢郡) 河原明戸(大里郡)」も村名。
 このあたりは三つの郡が混在しているが、瀬山(武川村)は、吉田東伍によれば幡羅郡霜見郷に比定される。川原明戸と小島(大麻生村)は、荒川の流域変更で荒川北岸に変った村である。

「深谷 本庄」は中山道の宿場。それに続く宿場の「新町 倉ヶ野 高崎」は上州である。
「次 榛名 妙義 八海山」は上州から越後の山。

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村の職業

村の職業に、どんなものがあったか、明治5年の「商工職調」に記載のものを見てみよう。分類して注記を付けた。

1、金物など
鋳掛職  「鋳掛屋」 鍋や釜の修理
馬鍬職  馬に引かせる鍬。堅い材木と金属で作る。
鍬物職  鍬など。鍬物とは鋤や万能などを含めたものか。製作や修理など
鍛冶職  「鍛冶屋」。金属製の農具の製作など。
2、木工など
付木屋  薄い木片に、硫黄を塗って燃えやすくしたもの
桶職   「桶屋」
材木屋  「木屋」製材など。
差物職、  箱、机、箪笥などを作る。「箱屋」など。
建具職  障子、襖、戸などを作る。家具なども作る例あり。
屋根職  「屋根屋」、萱葺、藁葺が主と思われる。当村に「大工」はなかった。
籠屋職  「籠屋」竹製の籠などの製作・販売・修理
?屋職  ?
3、その他
油絞り  「油屋」菜種から絞って菜種油を作る
髪結職  「髪結」、床屋・理容
質屋   金貸し
酒造濁酒 高級な酒ではないようだ。居酒屋も経営した例あり。
小間物  「小間物屋」日用品・櫛・簪など。作るより売買がメインか
穀屋   穀物の売買。米や麦は、親類の生産者と毎年融通し合う例が多く、他の穀物が多いか。

4、別文書で確認された職業
手習塾
修験

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天神講の紙の旗

『近世のこども歳時記』(歴史を旅する絵本、岩波書店、宮田登:文、太田大八:絵)という本をを見ていたら、「一月」のところに、
「今日は天神講です。朝早く男の子たちは「奉納天満大神宮」と書いた紙の旗を祠に収めてから、寺の本堂に集まりました」
と書かれていた。

子どもが「紙の旗」を納めるというので、すぐに思い出したことがあった。
以前に、古文書を保存してあった長持ちの中に、くしゃくしゃに丸めてあった紙のことである。

その紙は、長さ60cmほどで、子どもの下手な字で、

「天満大自在天神宮御ほぜん 明治二年四月廿三日」

と書かれてあったものである。


天満大自在天神遇
天神講の日に、子供たちが、学問の上達を祈って、紙の旗を納めるという慣習があったのだろう。
我が家のものは、二枚書いたうちの良いほうを納めて、一枚が残ったのかもしれない。

天神さまの祭は、1月か2月の25日が多いと思うが、毎月25日、または年何回かの25日というのもあるらしい。当地では4月25日にもあり、その2日前の23日に書いたもののようである。「御ほぜん」とは、「御宝前」のことだろう。

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江戸時代の農民の家計簿

江戸時代の『柳菴雑筆(柳庵雑筆)』という本に、ある農家の家計の概略が書かれている。
『江戸物価事典』で引用紹介されていて知ったのだが、原本を「国文学研究資料館」(https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/searchlist.php?md=thumbs&bib=200020209) のサイトで見ることができるので、そちらも参考にしながら書いてみる。

そこに書かれている農家の規模は、耕作する田畑の面積でわかる。
1町歩の田と、5反の畑があり、これはほとんど専業農家といえる。

田が1町歩というのは、規模は大きいほうだが、借地である。
田に稲の種を1石ぶん蒔き、収穫は籾40石、脱穀すると米20石となる。
20石のうち、年貢と諸負担で5石、地主へ5石を納め、残り10石が実収である。
年貢は、1町歩の基準量10石程度(収穫量ではない)の4割の4石程度のほかに、若干の諸負担というのがある(助郷などの金銭負担などが予想される)。地主へ5石とは、小作料のことで、年貢関係と同額となっている(この本以外の他の例では、もっと安い小作料の例もある)。

畑は5反である。
収穫は大根のみで、2万5000本という多量だが、あるいは実際例ではなく概略を説明するために単純化して表現したものかもしれない。野菜(大根)の売上は135貫文ほどだが、経費である肥料代・船賃・運賃を差し引いて、28貫750文が、野菜(大根)の実収入である。
他に麦が6石ばかり(畑3反にて)。
野菜の金額の単位は貫と文だが、船賃だけが2両2分で単位が異なる。差し引き計算では船賃を文に換算して計算したようであり、1両=6500文としている。(500単位が区切の良いものと見なしたための数字だろう。私は実際に近い1両=6400文としている、6400文なら、1朱=400文となるので暗算によってさまざまの計算がしやすい)
28貫750文の野菜の収入から、年貢を3貫文納めるという。残りは25貫750文となり、これは前記の換算法で、ほぼ4両になる。麦を売ればもっと増えるだろうが。
畑の年貢は、5反で3貫文(3000文)であり、1反あたり銭600文になる。
米1石=1両とすると、田の年貢は1反あたり0.4両(2600文)ほどなので、畑の年貢はかなり安く、田の年貢の1/4以下である。

田畑の年貢・諸負担等を納めた残りは、
米10石、麦6石、現金4両、これが全てである。
麦の価格は、『江戸物価辞典』の別項によると、米の90%または90%弱といったところ。
米と麦を現金化すれば、15両余り、野菜の4両とで、合計19両余になる。

ただし米10石と麦6石のうち、夫婦の主食として消費される分がある。
麦はほとんど食糧として消費される。
夫婦で、麦3石6斗、米1石余。
日雇が、麦1石8斗、米5斗。と書かれる。……江戸物価事典(133p)の「五升」は間違いで、原本は「五斗」である(画像参照)。日雇人の量を2倍すると夫婦(2人)の量になる。
ほかに雇人には給金として1両2分を支払う。雇人の食費の麦1石8斗と米5斗は、金額で2両と少々。合計で4両弱が雇人にかかる。
家族に子供があれば一人9斗ほど消費するという。

そのほかの米の消費は、正月の餅が3斗余、親類友達にふるまうのが2斗。
別に来年用の種籾として1石を確保(種籾の量か、米に換算した量か不明)。
米10石から、消費する米と種籾のぶんを差し引くと、7石2斗。これを売ると7両余になる。野菜収入の4両と合わせて、11両余の現金が残る。

次に、家計の支出について。
 塩・茶・油・紙 2両
 農具・家具   2両
 薪・炭     1両余
 衣料      1両2分余
 年末年始節句忌仏等入用 2両余
 親類友人交際費 1両

これでお金はほとんど残らないという。
健康を損なって仕事を長期に休めば、収入は減る。「これにて農夫の辛苦を知べし」という。

贅沢ができる暮らしではないが、食費を除いて11〜12両の家計は、新しい衣料も購入できる普通の暮らしではあろう。
親類友人関係の支出には、援助の性質の支出があるので、逆に援助される年もあるだろう。

蛇足ながら、夫婦が1年で食べる米麦が、4.6石余ということについて。
一人分は、2.3石、これは1日で6.3合になる。
宮沢賢治の有名な詩(雨ニモマケズ)では、「1日4合の玄米」とあり、この場合、100日で4斗、365日で14.6斗つまり約1.5石である。
夫婦の一人2.3石は多めだが、副食費などを説明から省いたために、多めなのかもしれない。
ちなみに大工の日当350文は、月20日働けば月収1両と少しになる。年13両ほどだが、ここから食費と家賃などを支払う。年貢は大家が納める。
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