古文書倶楽部からインポート

古文書倶楽部という小ブログの2016〜2018年の記事 29件を、
本年4月1日〜29日の日付でインポートした。
comments (0) | - | 編集

化猫の次第

【古文書倶楽部2018-5】
『講座日本風俗史第一巻』(雄山閣)に掲載の「瓦版」を読んでみる。
(仮名遣ひ等を改めた)。

化猫の次第

音羽辺 化猫の次第
凡そ獣類の中にても寝食を同じうするは猫のみなれど、
又、年たけぬれば、わざはひをもなす事、古来よりためし多し。
爰に、音羽辺なる、さる御やしきにて、五月二十日頃の事とかや。
いづくよりかは、一疋の大猫来り、御愛子の枕近く立より、
はじめの程はたはむれ、くるひけるに、やがて耳逆だち、
口ひらき、眼するどににらみ、喰ひころさん斗りゆゑ、
何某公、是を追ひちらし、長刀にて追ひまはし、一太刀あびせけるに、
庭の松が枝にのぼり、血汐流れ候ゆゑ、其の生躰(正体)を見届けんとするに、
一向にかげかたち見えず、山の奥へ逃げさりしと見えけり。

……読んで見て、どうといふことはないのだが、
結局この化け猫は、危害を与へることもなく、聞く人に恐怖心を植ゑつけて、影も形も見えなくなった。
飼猫が人と寝食をともにすることは、この時代からあったことはわかる。
「実物大」といふのは、A5判見開き(A4)が、ほぼ「瓦版」の紙の大きさといふこと。
comments (0) | trackbacks (0) | 編集

風流都々一

【古文書倶楽部2017-7】
明治のごく初年のものと思われる「風流都々一」なるメモ書を読んでみた。
庶民文芸の一のようだ。遊里などでの特殊な用語の意味が難しい。


風流都々一

としのくれよりまたして おいて、ふらしてたのしむ春の雨
 (「ふる」は、女が「ふる」ことをかけるのだろう)

おまい梅ならわしゃ鴬よ 花が仲人で いんむすび
(関東では「え」を「い」と訛るので「いんむすび」とは「えんむすび」のことだろう)

ひらきかかりし あやめのつぼみ 水あげすまして 床の前
 (「水揚げ」は、遊里用語)

ゆこかかひろと若いしたちが しあんしながら格子前
 (行こか帰ろと若い衆たちが、思案しながら。格子は遊郭の格子窓。)

かわずあがれば柳の雫 ちょと ぬれたるいけのはし
 (蛙と「買わず」をかけるのだろう。「あがる」もたぶん遊里用語)

水にまかせたあやめでさいも すいた心で花がさく
 (「風まかせ」という言葉もあるが、気楽というより、自分の意志で動けない不自由さをいうようだ)

三国一夜の白さけ娘 うつくしいぞや不二の花
 (「白さけ」は「白酒」と何かをかけたものか、不明。藤と富士。富士山を「三国一」という、富士講流行の背景が見えるので、明治初期のものと見られる)

蚕さなかによめごのさわぎ もらわざなるまいねた子でも
 (「蚕が寝る」と表現するような、養蚕の上でのあまり良くない状態があるのかもしれない。)

八兵衛女としらずにしたら ぬいてびっくり蕗のとう
 (八兵衛は(特に下総船橋あたりの)下級遊女。「蕗のとう」は難しい)

八十八三に別れて松霧(霜?)唐崎の 日毎なみだに夜の雨
 (「唐崎の夜雨」は近江八景の一つ。上の句の読み方が不明。通常の七七七五ではないのかもしれない。「八十八夜の別れ霜、名残の霜」などの慣用句があるが……。)
comments (0) | trackbacks (0) | 編集

秩父札所案内絵図

【古文書倶楽部2017-6】



江戸時代の秩父札所案内絵図。
村の名や山の名はあるが、寺の名前はなく。一から三十四までの番号と距離のみ。
十五番の少林寺の北西に鳥居の絵があり「妙見宮」とあるのが秩父神社。神社の東に今は秩父鉄道の秩父駅がある。妙見宮の境内は当時相当に広かったが、明治初年に政府に上地された。
盆地の中央を貫く街道は、今の旧道で、「しなの くまがへ(くまがい)道」とある。
comments (0) | trackbacks (0) | 編集

江戸の「事業仕分け」

【古文書倶楽部2017-6】
これはちょうど鳩山政権のころのある古文書勉強会のテキストとして使ったとき、そんなタイトルをつけた。
その文書は、天保二年十月のもので、内容は、知行所各村の村役人らが、知行所の財政改革案、とりわけ人件費の削減について提案したもの。
保存文書は、かなり急いで写したとみえて、読みづらい文字だが、読んで見た。

  乍恐以口上書奉申上候
一 来辰年従五ヶ年間 御省略御仕法の趣
 逸々奉承?候?事
一 御家中御人払被仰付 御知行所村役人
共の内にて在府仕御用役御給人御侍等迄奉賄
御指配御給金頂戴不仕にて?知申儀存候
并御門番兼御仲間二人にて為御間合度存候但し
御給金は頂申度候事
一 御稽古御供の義は御侍にて兼帯仕候て相勤
 申義の事
一 御女中の義は御膳焚一人御茶の間一人にて
御間に合せ度奉存事
右の通り御仕法に被遊候へば御給金二十
二両二分 御扶持米五人扶持此?一ヶ年に
九石相減じ候様に奉存候 猶御尋の義
御座候はば口上にて乍恐可奉申上候 已上
 天保二卯年十月  御知行所
・役人
武(州 村々)
総(州 村々) 印

内容をまとめると、
一、旗本家で5か年をかけて財政改革に取り組む意向である
一、御家中の人払い、つまり家来や使用人の人員削減をする。
 村役人の中から上京して代ってその仕事に仕える者は給金は頂戴しない。
 御用役、御給人、御侍まで削減の対象に考えているらしい。
 門番を兼ねる仲間(ちゅうげん)は二人とし、給金は払う。
一、殿様や若様の武道の稽古には、お供は必要である(中小姓の仕事)。これは省略できない。
一、女中は二人、台所に一人、茶の間に一人。
(奥様付きの腰元は、私的なものでもあり、削減の対象外とも解釈できる)。
そして、このようにすれば、人件費二十二両一分、米九石が節約できる。
・・・というような内容であろう。

実際にはどう改革されたであろうか。
天保八年と十一年の旗本家賄帳なる文書があり、これは村役人が財政を切り盛りした詳細な支出報告である。
給金は、各人の年俸の半額が3月に支給され、残りを年末と秋9月の2回に分けて支給。そのうちの3月の支払い明細である。

 天保八年三月 御給金渡
三両二分 小笹守
三両   堀田惣左衛門
二両   御中小姓
一両二分 御膳焚
一両一分 御茶之間
一両   御腰元
五両二分 御仲間四人
一両   御乳母
〆金十八両三分也

 ※ 小笹と堀田は、「御用役、御給人」にあたる人である。
 次に、3年後の帳面。

天保十一年三月 御給金渡
三両二分 小笹守
二両   御中小姓
一両一分 御茶之間
一両   御腰元
一両二分 御膳焚
四両二朱 御仲間三人
〆金十三両一分二朱也

堀田惣左衛門(3両)がない。仲間一人(1両1分2朱)減、乳母(1両)はなし。

乳母は、たまたま必要でなくなったのかもしれないが、仲間は一人減っている。
用人一人(堀田)減は大きい。
地頭所からの通達文書を見ると、従来は二人の署名があったが、天保九年より、堀田の名は消えて、御賄方・御蔵元・小笹の3人連署となった。そのうち御賄方・御蔵元の2人は知行所村役人である。文書の通達先の村の役人が、この二役のうちに該当するときは、当然、通達主には名を連ねない。したがって村役人2人が必要となるわけだろう。
堀田は天保9年に職を解かれたことになるが、武士を解雇するのは大変なことかもしれない。しかし、天保8?9年に地頭所が商人から借金した證文が大量に名主家に存するので、その借金を村で肩代わりすることによって、村々の提案が承諾され、人件費削減は実行されたようだ。
(ちなみに仲間一人1両1分2朱は、年間では2両3分。村の名主家の奉公人でも3両は貰っている)

どの旗本家でもこのようなことになると、江戸の町には浪人があふれ、治安も悪くなる。
しかしこの改革は失敗に終った。
天保13年、給人格の一人が、年貢米を金納するための計算をして知行所全8ヶ村へ通知したときの金額にミスがあり、ある村から指摘された。その人は武士道に撤するかのように名主を辞し、その子も同様。もう一人の給人格の名主(わが先祖)も隠居して伜に家督を譲り、以後この役につくものが出なかった。
そして翌年から給人については二人に戻った。
comments (0) | trackbacks (0) | 編集

石井兄弟の仇討

【古文書倶楽部2016-10】

我々父石井宇右衛門と申、
青山因幡守方に知行
弐百五拾石給罷有候。因幡守
大坂御城代相勤被申候時分
私共親も大坂に相詰罷有
申処に、此水之助其時分は
赤堀源五右衛門と申候、源五右衛門
親遊閑と申、江州大津に
浪人にて居申候。此遊閑と
私共親宇右衛門と由緒有之故、
源五右衛門事を頼越申に付、
則かくまい置、色々不便を
加へ、武芸抔はげませ
此者身代の事を致苦労
に居申処に、其時分源五右衛門
儀、方々と鑓の師を致廻り
申に付、父宇右衛門申候は、其方
の鑓にて師致の事 無心元
候、今少致稽古 其上に
師いたし候はば尤の由、申聞候得ば
源五右衛門却て致腹立、左様に
無心元思召候はば先仕相見
申度由 望候故、無是非
仕相仕候。源五右衛門は寸鑓の
竹刀にて、父宇右衛門は木刀にて


仕相、何の手もなく源五右衛門
鑓に入つき 少も不為働
仕負申候て、又異見申。
其分にて事過候得キ
其後源五右衛門弟子一両
人宛も無承之申候故か、御面目
なく存候故、深く宇右衛門を
恨、夜中他所へ引罷帰
申所をくらき所より鑓にて
言葉もかけずつき申候。
宇右衛門鑓をたぐり申候
得共、{日}来の働にをくれ候哉、
つき捨にいたし 迯のき申候。
其時分私共兄兵左衛門、
因幡守近習相勤、泊番にて
居合不申候。尤我々年五歳
二歳の時分故 落のばし
申候。其節源五右衛門書置候は、
宇右衛門妻致病死 無之に付
縁組取組仕 京より呼寄せ
申筈に仲人致候處に宇右衛門
分別替り 変改仕 先様へ
申訳無之故 如是致置候
抔と書置申候。定て御家にても
左様の申慣にて可有之候。


夫より兄兵左衛門 因幡守より
暇取、ねらひ廻り候得ども
深隠行方知れ不申に付、
右の遊閑を討候はば 無是非
行合可申と存、私共兄
遊閑を江州大津に討
捨申候。夫より・に相ねらひに
成申候。八ヶ年過候て於美濃に
兄由緒の者有之様・滞
在仕候処を、源五右衛門承之
彼宅へ忍入 後よりだまし
切に仕候。兄ぬきあわせ
源五右衛門がももを突候得共
深手負終に討れ申候。
夫より此様子を以御家へ
被召抱、御城内に被差置、
町々御領分の在方迄
彼者かとふと仕申様に
被 仰付候事、千万無是
非義にて御座候。其後我々
兄弟歳立仕寄ねらひ
廻り候得共、堅密の御かこ
い きび敷、或は商人非人
の躰にも身をなし爰かしこ
はいかい致候といへども、



終に不得折を 甲斐なく
して、漸々四五年以前より
一人は御家中の面々へ渡
並の草履取に奉公人と
成、深く包心掛候得ども、
今一人兄源蔵一所に難
成。漸々今年迄相待一
所に罷成、兄弟共に只今
年来の遂本望、雪会
稽の恥 候者也。愚筆故
有増 如斯御座候。以上

巳五月日 石井源蔵
       吉時 判
     石井半蔵
       時定 判
板倉周防守様
 御家老中
    御披見

尤竪・・水之助
死骸袴腰に結付け
立退候由

元禄14年に起こった石井兄弟の仇討は「亀山の仇討ち(wikipedia)」ともいう。
世に仇討といっても、忠臣蔵では浅野内匠頭は殺されたわけではなく、その他、典型的な必要条件を満たす仇討は意外に少ないのだそうだが、亀山の仇討はそうではない。
文書は、仇討を遂げたあとの始末書のようなもので、庶民はこれを書き写したものを、ゴシップを読むように回し読みしていたようで、このような状態で残っている。
(ただし虫食が酷い部分は、研究書を参考に修正してある。)
comments (0) | trackbacks (0) | 編集

榛名山初穂料

【古文書倶楽部2016-】


  覚
一金百五拾疋
右の通御代参御初穂
目出度 神納仕候
以上
 榛名山谷之坊改
   吉田祐太夫 (印)
巳三月晦日
原之郷村
 御代参 宇兵衛様

榛名山は、水の神、農業の守護神として広く信仰された。温泉などもある。
代参者が納めた初穂料の領収書のようなものであるが、人数分のおふだが授与されたものと思われる。
旧榛名山の御師は谷之坊を名のっていたが、「谷之坊改 吉田」と苗字が記され、明治の御一新の直後のもの。
巳年とあるので、明治二年である(これは断定で間違いない)。
comments (0) | trackbacks (0) | 編集

熊野宮

【古文書倶楽部2016-10】


「日本第一 大霊験 熊野宮神牘(しんとく)
 武州藤沢 惣社神主 」
と書かれ、熊野の神使である多数の烏の絵がある。
「おふだ」である。

江戸時代の人々は、広く各地に足を運び、道中で著名な神社仏閣には参拝し、おしるしを授かったということだろう。
武州藤沢とは、今の埼玉県入間市下藤沢のあたりで、その地には今も 熊野神社 という神社があるようだ。

余談だが、戦国の武将、太田道潅が戦ったという「藤沢の役(藤沢の戦)」は、川越城からも遠くないこの地の出来事なのではなかろうかと、思っている。吉田東伍は地名辞書で、深谷市南部の人見ヶ原のあたりだというが、その付近を藤沢村と言ったのは明治中期以後で古い地名ではないとのことである。
comments (0) | trackbacks (0) | 編集

白雲山御宮太々講

【古文書倶楽部2016-10】


  覚
一金七両二分 太々神楽料
一金二百疋  御神馬料
一金 百疋  御留守居
一青銅五十疋 御神参目付
一同 三十疋 供僧
一同 三十匹 御宮詰
一鳥目二十疋 御供世話人
一同 四十疋 下部五人
 右の通慥致拝手候成
    白雲山御宮
   寅八月廿八日
     当番 (印)
  太々講衆中

白雲山御宮とは今の群馬県の妙義神社のことであるらしい。
太々神楽料の金額ほか明細と、受領したことが書かれ、「当番」の押印がある。
「七両二分」は高額に見えるが、講中の人数が多かったのだろうか。
「寅」とはいつの寅年か。慶応二年(1866)かもしれないが、その年かそれに近い寅の年ではなかろうかと思う。

「疋」という金銭の単位については、辞典などの説明が全く当てはまらない例もあるようだ。広辞苑では「古くは鳥目一○文を一匹とし、後に二五文を一匹とした。」と書かれるが、別文書だが「金一疋」は(鳥目)二文としかとれない文書も実在する。

「供僧、御宮詰」などなどは、民間なら奉公人に相当する人たちと思われ、多数の人たちへ心付けのようなものを納めたようだ。
商家などの奉公人も、定められた給金のほかに、心付け(チップ)があった。
comments (0) | trackbacks (0) | 編集

榛名山神前筒粥目録

【古文書倶楽部2016-9】


榛名山神前筒粥目録
夕かほ   六分
うぐひすな 半吉
なすび   同
うり    十分
わせ大豆  八分
おく大豆  六分
あさ    半吉
かいこ   七分
大むぎ   六分
小麦    半吉
わせ小豆  同
おく小豆  六分
ささげ   カイサン
いも    同

わせいね  六分
中いね   半吉
おくいね  同
木わだ   八分
大こん   六分
あきな   カイサン
ひゑ    八分
早あは   同
おくあは  七分
きみ    十分
そば    同 
あい    同
けし    八分
からし   十分
ごま    七分
つづみ   十分
もろこし  同
正月十五日執行 辰年

榛名山での筒粥神事の結果の刷り物。その年の農作物の吉凶を占ったもの。
「正月十五日」とあるのは旧暦と思われる。
「辰年」については、明治初年前後ごろのものかもしれない。
comments (0) | trackbacks (0) | 編集