ハラとヒラ(地名雑記)
「原という地形について」で述べたことは、大和言葉のハラの意味は、漢字の原(もとは厡)の原義とほぼ同じものだった。すなわち、崖から泉がわきいづる所の意味である。
池澤夏樹『日本語のために』(河出書房)を見ていたら、次の記述が目に入った。
「 「おもろさうし」の最初のページに「川坂(かわひら)」「前坂(まいひら)」という言葉があるが、坂の意味の「ひら」は、古事記でイザナキが黄泉の国から逃げ帰る時に過ぎる「黄泉比良坂(よもつひらさか)」の「ひら」と同じ崖とか坂の謂で、「さか」のほうは境の意味らしい。 」(池澤)
ひら = 坂
さか = 境
ということらしい。
沖縄の言葉で崖や坂のことを「ひら」というのだということがわかる。「おもろさうし」には「川坂は泉に降りる坂。前坂は前方の坂。」という外間守善氏の注釈がある。単に昇ったり降りたりの坂ではなく、泉との関係がありそうなのだが、それ以上のことは、この本ではわからない。大和のハラと沖縄のヒラが、よく似た意味だとすると、発音も似ているわけだが、これだけでは音の転訛だといいきるわけにもいかない。
沖縄で平良(タイラ)という苗字や地名を聞いたことがあるが、タイラな地形ではなく斜面のあるところだという。崖の下の泉の意味も加わるのだろう。
ところで、ハラは 源 の意味であり、ヒラは大和では 平 という字を書く。源と平といえば、日本を代表する二大姓氏ではないか。どちらも皇族の子孫が臣下となったときの姓だが、源や平の命名の由来はどうなのだろうか。調べてみると、源は、皇室と源を同じくする意味で、中国にも例のある姓であり、平は、平安京の名前から来ているのではないかという説があるが、それだけなのだろうか。
藤原 という姓は、大君の禊ぎを介添する巫女の出身であることから、禊ぎの場所、水源地の渕原(ふちはら)からきたものであるというのは、折口信夫説。このくらいの明快な説明が、源や平にもあるといいのだが、はて、3つに共通するものがあり、それは「泉」である。新しい姓を決めるときの一つの趣向の現れとみることもできるし、臣下として生れ変るにふさわしい場所であることには違いないが、もっと詳しいことがわかれば良いと思っている。
もう一つ、古事記によると伊邪那岐命が禊ぎをした場所は、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」である。阿波岐原の「原」は水源地の意味であるが、「橘」の意味するものは何であろうか。地名でハナといえば尖った岬のことだが、内陸部でも同様の台地の地形をハナというので、橘(たちばな)の地名もそのような地形に由来するものである可能性が高い(※)。これもまた、清らかな水に関わるものが想定されるわけであり、詳細は今後の課題だが、源平藤橘の4大姓氏の名称に共通のものがあることになる。
※ 関東では、群馬県の赤城山の麓で前橋市北部の橘山、旧武蔵国橘樹郡(郡衙遺跡周辺)などが、これにあたるだろう。
※ タチバナの地名は、タチは東北地方に多い館(たて)と同じで、ハナと同様に台地の端の崖状の地形をいうと、小川豊『災害と地名』などで指摘されている。