120年前のタイムマシン

正月のテレビ番組も面白いものがないので、昔テレビでみた映画『タイムマシン』のDVDを中古で入手して見た。H・G・ウェルズの小説が原作の1960年のアメリカ映画。
物語の舞台は19世紀末のイギリスで、1899年大晦日から1900年1月5日までの話。今からぴったり120年前になる。
昔みたのは40年ほど前なので、青春ドラマとして解釈したようである。青年科学者は夢を見たのかもしれないし、しかし未来から持ち帰った花一輪だけが真実を語る、といったふうな記憶だった。今回見たら、青年科学者は、再び未来へ旅立って行った。最終場面の記憶が消えていたのは、その直前で物語は完結していると解釈したためかもしれない。当時この映画についての批評的な短文を書いた記憶があるので、文章で粗筋をまとめるときに記憶の微妙な変形があったのかもしれない。

青年科学者は、帝国主義と戦争に明け暮れる19世紀が嫌いだといい、未来へ飛び立った。学者仲間たちとの「時間」についての議論する場面もある。議論じたいは難しい内容ではないが、映画を見る側に多少の哲学的素養ないし人生経験などがあれば、その思考を刺激してくるのである。まして人生において老年となった身には、時間とは何かというテーマは、非常に重いものとして受けとめざるをえない。ジャスト120年後といい、良いタイミングで見ることができた。

さて、タイムスリップの物語といえば、手塚治虫の『ワンダースリー』というマンガを思い出す。そこでは地球に来た3人の宇宙人が、2度変身する。1度めは動物に、2度めは地球人に変身する。2度めのときは、命令に逆らった罪により、罰として変身させられるのである。3人が記憶を消され、死後の転生のように別の個体の生命を生きるときに、時間がスリップして、かつて動物に変身して生きた時代……全ての登場人物と同時代を再び生きることになる。記憶は消されているのだが、「前生の記憶」が蘇る瞬間があることを示唆して、物語は終る。
「前生の記憶」が蘇るのは、1度の瞬間だけではないかもしれないと思って、すぐに再読することになる。再読して、あの場面とこの場面は「前生の記憶」によるものではないかと想像したり、なぜ気づかないのだろうとハラハラしてみたり、何度も再読した作品になった。今、老年になって思うことは、「ワンダースリー」のように、ああやって動物などに転生して前生の記憶は消されても死後の世界で懐かしい人たちと同じ時代を生きられたら、それ以上の幸福はないのではないかということ。

蛇足 SFの約束事として書く必要はないのだらうが、タイムマシンの物語は、一種の天動説に基づいているので、それを思うと虚しくなることがある。天動説というのは、80万年後に移動しても、地球の表面の同じ場所から動くことがないという意味である。実際は地球の表面さえプレート移動で年3cm動くとすれば、80万年後は24kmほど移動しているはずである。地球自体も太陽に対して公転し、太陽も、銀河系も常に動いている……ということを考えてしまう。

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