漢字の「原」と和語の「はら」

諸橋轍次『大漢和辞典』で「原」といふ字を調べてみると、
十六種類の意味があることがわかる。

(一)みなもと。厡・源に同じ。古は𠫐に作る。
(二)もと。
(三)もとづく。もとづける。
(四)たづねる。根本を推求する。
(五)ふたたびする。かさねる。
(六)のぞく(除く)
(七)ゆるす(宥す)
(八)はら (高く平らな地)に通ず
(九)耕作地
(十)つつしむ、すなほ。愿に通ず。
(11) 虫の名。螈に通ず。
(12) 羊の一種。羱に通ず。
(13) 文体の一。本原をたづねて推論する文。
(14) 古は 厡・邍・愿 に作る。
(15) 地名。今の河南省済源県の西北。
(16) 姓、原氏。


地形に関するものとしては、(1)みなもと、(8)高く平らな台地、(9)耕作地の三つがある。この大辞典には「広い土地」といった解説はない。『漢字源』では(原が)「広い野原を意味するのは、原隰 げんしゅう(泉の出る地)の意から」とあり、それを考慮すると、〈崖の水源→崖下の湿地→崖上の台地〉と意味が広がっていったと推定できる。耕作地については、湿地と台地の両方にできる。さうした推論が可能なのは、3000年以上の長い漢字の歴史があるからであらう。

さて和語についてであるが、日本では1400〜1500年前頃からやうやく文字を使ひ始め、そのころは既にハラから派生した語彙はたくさん揃ってゐた。

『古典基礎語辞典』(大野晋)などで、「遥か」や「晴る」などの語と同源語だとして、目の前に広がる広い土地といふ意味が、原の原義だとするのは、残念ながら、後世的な見方や後世のロマンチシズムが加はってゐると思ふ。(同辞典で、原の2つめの意味として葬地を載せるのは良いが、葬地が遥かな場所にあるからではなく、「境界」にあたる聖なる場所だからであらう)

ハラの同源語としては、最も近いのは、擬態語などのパラリと剥げるのパラである可能性がある。
ハラヘ(祓)については、古事記でいふ「祓つ物」とは、須佐之男命が指から剥がした爪だった。蛇の脱皮も同様であるが、土地も風雨や大水で削れたり剥がれたりして崖ができ、聖なる場所となって湧き水も出る。これは漢字「原」の原義に酷似した地形である。伊邪那岐命が禊ぎをした阿波岐原もそんな場所だったらう。
「祓へ」に似たものとして「禊ぎ」があり、ミソギの原義は身を削ぐことだとすれば、祓へにも類似した構造の原義があるとしても不思議はないのである。

また、水や雨が落ちるときの擬態語ないし擬音語は「ぱらぱら、はらはら」である。
 水神の森の下露はらはらと秋をもまたぬ落ち栗のおと  蜀山人

人や動物の皮膚を深く傷めると血が流れ出る。大地もまた表面を深く掘ると水が流れ出る。その水がいかに貴いものであったか、それが始まりだらう。

後半のところは、あとあと論を深めていかなければならない。

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大井の泉

『大井の泉』と題するエッセイ(丸谷才一『遊び時間2』に収録)で、岡野弘彦著『折口信夫の晩年』といふ本のことが語られてゐる。


「折口が死んでからの叙述が際立って立派である。殊に、玄関の神棚に祀ってあった男女の河童像の魂を抜いて、霊を放つくだりは、まことに美しい鎮魂の文章となってゐる」(丸谷氏)

と書かれ、岡野氏の著作からの引用が13行ほどある。
引用部に書かれてゐることは、品川区大井出石の折口宅裏から品川の海へ続く地下水脈があり、途中3ヶ所から泉となって湧き出してゐるところがあり、一続きの水脈なのだらう、3ヵ所のうちの最も上流である折口宅裏の泉へ、器に入った水を運び、水を泉へ注いで流したことが書かれ、美しく表現された文章であるとエッセイで評されてゐる。

速読のせいか、この引用文と前文とのつながりが、少しわかりにくかったのだが、『折口信夫の晩年』を確認してみると、「器の水」は、河童像の前に置いて念じて、河童像の魂を水へ遷したものだった。その水は泉に注がれ、地下水脈を通ってやがて魂は海へ至るのであらう。

海へ至るのは、神として祀られ、主人の死によってその役割を終へた河童像の霊なのだが、河童像を祀ってゐた主人の霊の一部分も、海へと至るのであろうか。

太古からの泉について考へるとき、生活用水としての有り難さといふ視点からだけではなく、別の視点、異界への信仰に関るものであったりするので、そのことを思ひ出せるようにしておかうと思ふ。

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別府沼

貴重な写真。
熊谷市西別府の別府沼。台地の北の縁の下がったところに道路があり、さらにその下に細長い沼がある。道路から西北西をのぞむ。沼の奥が湯殿神社。神社の先が後に発見される幡羅郡郡家跡である。昭和40年(1965)ころの写真で、豊かな水を湛えていた。
別府沼

沼の岸の道で遊ぶ子供たち(同上年ころ)
別府沼の岸

別府沼に群れる白鷺(昭和50年代頃か)
別府沼の白鷺

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子負(こふ)の原

その昔、神功皇后の新羅征伐のときの北九州での話には、「魚釣の石」や「淀姫」の話などがある(佐賀県の話)が、福岡県側の、「子負(こふ)の原」の鎮懐石の話も、よく知られている。
万葉集の山上憶良の歌によると、皇后は、俄かに産気づいたため、2つの石をからだに当てて、出産日を遅らせたという。その石は、筑前国の怡土(いと)郡 深江村の子負の原の、海に臨む丘の上にあったもので、今の鎮懐石八幡宮(福岡県糸島市二丈深江)のあたりという。やがて誕生した皇子は後の応神天皇である。

平安時代の和名抄に、鵠と書いて、くぐひ、こふ、などの訓がある。鵠とは、白鳥などの白い渡り鳥をいい、鴻の鳥や、鶴などもいうことがあるらしい。
「コフの原」とは、白鳥などの飛来地であることからの地名だという定説で問題ないと思う。谷川健一氏によると、2つの石は卵を意味し、貴人が卵から生れるという卵生説話と関係があろうという。

「子負の原」には、海に臨む丘があった。その丘の端から海の方向に斜面を降ったところが、水鳥の棲息に適した地であったのだろう。白鳥は概ね淡水を好むと思う。丘の斜面から大量の湧き水が出て、沼や湿地を形成し、近くの海まで流れていたことが想定されるが、今の地図を見ると、鎮懐石八幡宮の西に堀があって西の海につながっている。
深江の南西には、福井、吉井という地名が続き、泉が噴き出し、吉い泉のある一帯だということがわかる。

古い地名の「原」は、清らかな湧き水などの豊富な土地、水源地をいう。

次は、万葉集より2首、原という地に棲息する鶴を詠んだ歌。

 打ち渡す竹田の原に鳴く鶴の、間無く時無し。わが恋ふらくは  大伴坂上郎女(万葉四、760)
竹田は、今の奈良県橿原市東竹田町、寺川のほとり。

 湯の原に鳴く葦鶴は、わが如く、妹に恋ふれや、時分かず鳴く  大伴旅人(万葉六、961)
大伴旅人が「次田(すきた)の温泉(ゆ)に宿り鶴(たづ)の声を聞きて作れる歌」。次田は、今の福岡県筑紫野市の二日市温泉。

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みかの原 わきて流るる

「原という地形」シリーズ。今回は百人一首に詠まれた「原」6首。

  みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ  中納言(藤原)兼輔

みかの原は、京都府南部の木津川市にある小盆地で、いづみ川は、盆地を東から西へ流れる今の木津川のこと。聖武天皇の恭仁京のあった地でもある。

みかの原から湧き出で、みかの原を二つ分けて流れる、いづみ川。いつ逢ったといって、こんなにも恋しいのだろう。
「いつ見きとてか」の解釈がいろいろあり、逢ってないとする解釈もあるようだが、ここはやはり逢ったと解釈すべきだろう。
「か」という疑問符は、「見き」ではなく「いつ」につながるものであろう。百人一首の紫式部の歌に「見しやそれとも わかぬ間に」とあるが、この場合は、見たかどうかもわからない意味だが、「いつ(何時)」という言葉がある以上、不確定なのは、逢った時期である。
お逢いしたのは、いつのことだったか、それ以来もう何年も何年も恋い悩んだような、それほどの恋だと言いたいのだろう。
そして、二人の間を分けてしまったように流れる、いづみ川。恋の相手は、この川の対岸にいるのだという想像も可能である。どこか棚機姫の伝説につながるところもある。女性に身をやつした歌でもあろう。あるいは恭仁京の遠い昔を慕ぶ歌でもある。こういう歌が名歌とされるのだろう。
みかの原については、湧き水や河川段丘のある扇状地であり、原の原義に近いものといえる。

百人一首のそのほかの「原」を詠んだ歌。
  浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき  参議(源)等
  有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする    大弐三位(藤原賢子)

篠原、笹原ともにイネ科の植物名を冠したもので、葦原と同じで、湿地帯でもあるのだろう。

  天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも     阿部仲麻呂
  わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟  参議(小野)篁
  わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波  法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)

わたの原は広い海、天の原は広い空を意味するわけだが、地形を意味する原の比喩表現と仮定するなら、原の意味が拡大してからの語法ということになる。

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段丘地形と地名

ここのところ、地名について再勉強。
まづ、谷川健一の対談集『地名の話』(平凡社)では、
巻頭の一志茂樹氏へのインタビューが、地名研究が単なる語呂合せにならないようにするための大事なところが語られていた。そのほか
「上村があれったとすれば、下村もある」
「上村をカサ村というところがある、笠原とは上の原のこと」
「前田。神社や寺や大きい屋敷の前の田、収穫された米は祭礼などで使われる」などなど。

東北に多いタテ(館)という地名については、
古代の柵(き)が原型で城や建物、屋敷ができ、さらに堀や築地などをふくめた全体をタテというようになったという。
しかし、柳田国男の『地名の研究』では、建物がなかったところでもタテという地名があり、タテとは山裾の台地の端の意味だろうとあった。
群馬県前橋市郊外の橘山や、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)などの、タチバナのタチは、台地の端の意味であろう。ハナは塙のことだろうから、これも台地の先端の意味になる。

これらについては、柳田説を注目してゆきたいと考える。というのは、『地名の研究』を読むかぎり、日本の地名で最も種類が多いのは、台地の端、段丘地形に由来する地名(別掲)だからである。同書では、日本に湿地を意味する地名が多いのは稲作が豊かだった証拠というふうなことも書かれるが、より種類が多いのは、湿地よりも、段丘地形に関する地名のようである。
(日本で湿地を意味する地名が多いというのは、これまで地方の研究者たちが、わが村にも古代から水田稲作があった可能性があるとか、古代から先進地域の村だったに違いないとか、郷土愛によるものも多いような気がするが、湿地が湧き水によるものなのか、水はけが悪く河川の大水が引かないだけなのか、区別する必要があるだろう。2020.2.23)

一志氏の本でも、信濃のシナについて、「更級・埴科・仁科とかいうところは、だいたい段丘地形といいますか崖錐地形といってもいいですが、山の麓がテラス状になているところ、もしくは河岸段丘になているところ、扇状地状になっているところ」で、これらが信濃の国名の元の意味であるという。和歌の有名な枕言葉「しなざかる 越の国」「しなてる 片岡山」などが同様の意味のものとして紹介される。片岡山は候補地が複数あるが、大和盆地西部の丘陵の端ないし側の大和川の河川段丘の地であろう。
日本の土地は、起伏に富み、雨量も多く、扇状地地形も多い。その端に崖などがあり、湧き水があり、低地には水田が広がる。台地上には洪水を避けて居住地があり、畑と山林資源もあり、居住に適した地である。集落が複数できて、段丘の形状の違いの名称が集落の名となり、地名として現代まで残ったものもあるのだろう。

『地名の研究』から段丘地形といえるものを、いくつか拾ってみる。
  阿原、片平(沖縄ではヒラ)、真間、コウゲ・カガ・ゴカ、
  タテ(館)、根岸、ハケ(八景)、塙、台、丘
この他に、シナ、片岡などもあり、他にもあるだろう。
「原」も古い地名の多くは同様である。橘は「館+塙」であろう。
タテの元という柵(き)も同種なのだろうが、「キ」のつく地名を調べあげるのは大変だ。
これらは似た意味の地名だが、それぞれの違いについての吟味も必要だろう。

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沖縄の地名「ハンヂャ」

宮城真治著『沖縄地名考』(名護市教育委員会)を興味深く読んでいる。
そのうち「第二部 沖縄地名論考」の「第三章 羽地という地名の本義について」が、大変面白いというか、論争がらみでもあり、著者の筆が最も熱っぽい部分でもある。

そこで語られていることは、(国頭郡の)羽地について、
今はハネチと読まれることが多いが、地元の人はパニヂと言っている。地名に無理に漢字を当てはめ、後に漢字の読みにつられて地名の呼び方も変ってしまうことがあるらしい。
パニヂが本来の名前であることを想定し、元の意味を知るには、県内他所で似た発音の多数の地名を調べ、それらから類推して行く、というのが著者の方法である。これは有効な方法なのではないかと思う。

パニヂに似た地名には、ファンヂ、ハンヂャなどがある。
国頭村の半地(ファンヂ)は、「やや流れの早い川の河口の両岸に跨っている所」(同書、以下同じ)で、ファイ(走)ミヂ(水)の意味ではないかという。
羽地村にもハンヂャーガーという井(泉)があり、ガーは川のことなので、ハンヂャも「走イ水」の意味だろうという。
伊江村の川平は、地元の年寄はハンヂャと言っていて、「泉の下方に位する部落」であり、これも「走イ水」だろうという。
摩分仁村の波平(ハンヂャ)は、元は「ハンヂャガーという井があり」「清冽なる水が岩間より湧き出て、常に井に溢れ、小さな溝もなして下の田圃に流れ込んでいる」という。これも同様で「もと泉の名であったのが後に地名となったものであろう」という。
他にも多数の例が書かれているが、ハンヂャは、沖縄では少なくない地名であり、泉のこと、その流れのこと、流れの両岸の所のこと、という意味があることがわかる。

では、沖縄でハンヂャと呼ばれる地名と、同じ系統の地名が本州にもあったとするなら、多少は語形は変化しているだろうが、どんな地名であろうか。

昔読んだ本で、北海道の羅臼岳と、本州の茶臼岳、茶臼山は、同じ言葉であるという説なのだが、誰の本かは忘れてしまった。ラ→ダは、幼児がラジオのことをダジオというのと同じであり、ダとヂャは断定の助動詞「運転手ハ君ダ」〜「君ヂャ」というのと同様の転訛であると。したがって、ラからヂャへ転訛することがありうるわけで、日本語(大和言葉)の語頭にラ行の音は立たないこともあり、ラウスは、チャウスとなったのではないかと。(山頂が1つではない山をいうようで、前方後円墳を茶臼山という例もある)

ラからヂャへの転訛となると、ハンヂャの元はハンラということになる。
ハンラとは原(幡羅など)のことであり、意味もハンヂャに近いことは、これまでも書いて来た。
詳細は今後の課題である。
パニヂは、土師(はにし)にも似ている。

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ハラとヒラ(地名雑記)

原という地形について」で述べたことは、大和言葉のハラの意味は、漢字の原(もとは厡)の原義とほぼ同じものだった。すなわち、崖から泉がわきいづる所の意味である。

池澤夏樹『日本語のために』(河出書房)を見ていたら、次の記述が目に入った。

「 「おもろさうし」の最初のページに「川坂(かわひら)」「前坂(まいひら)」という言葉があるが、坂の意味の「ひら」は、古事記でイザナキが黄泉の国から逃げ帰る時に過ぎる「黄泉比良坂(よもつひらさか)」の「ひら」と同じ崖とか坂の謂で、「さか」のほうは境の意味らしい。 」(池澤)

 ひら = 坂
 さか = 境
ということらしい。
 沖縄の言葉で崖や坂のことを「ひら」というのだということがわかる。「おもろさうし」には「川坂は泉に降りる坂。前坂は前方の坂。」という外間守善氏の注釈がある。単に昇ったり降りたりの坂ではなく、泉との関係がありそうなのだが、それ以上のことは、この本ではわからない。大和のハラと沖縄のヒラが、よく似た意味だとすると、発音も似ているわけだが、これだけでは音の転訛だといいきるわけにもいかない。
 沖縄で平良(タイラ)という苗字や地名を聞いたことがあるが、タイラな地形ではなく斜面のあるところだという。崖の下の泉の意味も加わるのだろう。

 ところで、ハラは の意味であり、ヒラは大和では という字を書く。源と平といえば、日本を代表する二大姓氏ではないか。どちらも皇族の子孫が臣下となったときの姓だが、源や平の命名の由来はどうなのだろうか。調べてみると、源は、皇室と源を同じくする意味で、中国にも例のある姓であり、平は、平安京の名前から来ているのではないかという説があるが、それだけなのだろうか。
 藤原 という姓は、大君の禊ぎを介添する巫女の出身であることから、禊ぎの場所、水源地の渕原(ふちはら)からきたものであるというのは、折口信夫説。このくらいの明快な説明が、源や平にもあるといいのだが、はて、3つに共通するものがあり、それは「泉」である。新しい姓を決めるときの一つの趣向の現れとみることもできるし、臣下として生れ変るにふさわしい場所であることには違いないが、もっと詳しいことがわかれば良いと思っている。

 もう一つ、古事記によると伊邪那岐命が禊ぎをした場所は、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」である。阿波岐原の「原」は水源地の意味であるが、「」の意味するものは何であろうか。地名でハナといえば尖った岬のことだが、内陸部でも同様の台地の地形をハナというので、橘(たちばな)の地名もそのような地形に由来するものである可能性が高い(※)。これもまた、清らかな水に関わるものが想定されるわけであり、詳細は今後の課題だが、源平藤橘の4大姓氏の名称に共通のものがあることになる。

※ 関東では、群馬県の赤城山の麓で前橋市北部の橘山、旧武蔵国橘樹郡(郡衙遺跡周辺)などが、これにあたるだろう。
※ タチバナの地名は、タチは東北地方に多い館(たて)と同じで、ハナと同様に台地の端の崖状の地形をいうと、小川豊『災害と地名』などで指摘されている。

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『聞きがたり農村史』

東敏男編著『聞きがたり農村史』3冊は、良い本である。その3冊目『村の指導者とインテリたち』の中に、茨城県那珂郡の川田村での大正時代の用水についての話がある。(187p)
川田村は、津田、市毛、堀口、枝川の4字から成り、今のひたちなか市南西部。南の那珂川の対岸は水戸市中心部である。場所がわかるような地図も作ってみた。



(聞き手)----小場江の用水のことで揉めて。
(かたり手) これがなかなか出来なかったんですね。枝川では早戸川から水を引いてたんですね。津田、堀口、市毛は水が出ますから必要なかったんですよ、用水はね。
(聞き手)----早戸川から水を取って、あとが下に流れて枝川地内の水田に行くわけですね。途中に小場江用水が流れてますから、その下を通して枝川の水田に水引いたわけですね。
(かたり手) そのころは、枝川は小場江に入っていなかったですから。山なんか伐っちゃったから、水源もなくなってきちゃったんですね。枝川の方まで回んなくなってきちゃったんです。それで枝川が小場江に入りたいというわけで(後略)



小場江用水は、那珂川と平行して北側に作られた30km以上に及ぶ用水で、川田村の枝川と市毛・堀口の境界あたりを通る(図に書込んだが十分正確ではない)。
早戸川は北から流れて来て、津田と市毛の境を流れて、枝川の東部で那珂川に合流する(図に書込)。
地図は現在の区画であり、枝川はもっと西まで広かったようで、川田村で最も戸数が多く「勢力があった」そうで、今は一部が水戸市に編入されている。他にも区域変更があるようだ。

津田、堀口、市毛は、水が出るので用水は不要だったという。「台地」とも書かれる。那珂川の扇状地であり、湧き水が出たのだろう。田は少ないのかもしれない。那珂川に接する枝川は、水はあまり出ないのは、那珂川が削った低地だからなのだろう。開拓時代に早戸川の水を引いて利用したが、小場江用水は使わないため、水を引いた堀は立体交差になったようだ。小場江用水と早戸川も交差している。
ともかく、扇状地の地帯では、湧き水が豊富だったということが確認できる。

「枝川は小場江(用水組合)に入っていなかった」が、
「山なんか伐っちゃったから、水源もなくなって」とは、明治時代から早戸川の上流域の開発が進んだことをいうのだろう。森林の開発は、大雨のときには逆に洪水を引き起こしたものだが、日本中で同じようなことが行なわれた。
この本は、同じ時代に多くの村でもあったような出来事が詳しくよく語られている。

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原という地形について

柳田國男は『地名の研究』で「野」という地名について、次のようにいう。

山・岡・谷・沢・野・原などという語を下に持った地名は、たいたいに皆開発の以前からあったものと見てよかろうが、その中でも実例がことに多く、意味に著しい変遷があったらしいのは「野」という言葉であった。
これは漢語の野という字を宛てた結果、今では平板なる低地のようにも解せられているけれども、「ノ」は本来は支那にはやや珍しい地形で、実は訳字の選定のむつかしかるべき語であった。
白山の山彙を取り繰らした飛騨・越前の大野郡、美濃と加賀との旧大野郡、さては大分県の大野郡という地名を見ても察せられるように、また花合せ・骨牌の八月をノという人があるように、元は野(ノ)というのは山の裾野、緩傾斜の地帯を意味する日本語であった。
火山行動の最も敏活な、降水量の最も豊富なる島国でないと、見ることのできない奇抜な地形であり、これを制御して村を興し家を立てたのもまた一つのわが社会の特長であった。
野口、入野という類の大小の地名が、山深い高地にあるのもそのためで、これを現在の野の意味で解こうとすると不可解になるのである。

説得力のある説明である。
野とは、山の裾野や緩やかな丘陵など、地殻変動の大きく雨の多い日本に特有の地形であるという。

一方、漢字の「野」は、漢字源によると、

予は、□印の物を横に引きずらしたさまを示し、のびる意を含む。野は「里+音符予」で、横にのびた広い田畑、のはらのこと。

野は、ただ広がっている土地というのであって、未開の「原野」に近い意味なのであろう。漢語で「野生」「野獣」「野卑」などがある。「野(や)に下る」というが、この野をノと読んでは感じがでない。大陸では「広い土地」は平らであろうが、日本の野(の)は起伏のある土地もいう。

しかし、である。「原」についても同様に詳しく述べてもらいたかった。(電子本版で検索したが、野についてのような説明はないようである)。
藤原(ふぢわら、ふぢはら)などの地名が、「山深い高地にあるのもそのため」である、と言い切れるだけの説明がほしい。
しかしそれは、われわれ自身でやらねばならない。
そこで、まづ「漢字源」を見てみよう。

「厂(がけ)+泉(いずみ)」で、岩石の間のまるい穴から水がわく泉のこと。源の原字。水源であるから「もと」の意を派生する。
広い野原を意味するのは、原隰(げんしゅう)(泉の出る地)の意から。
また、きまじめを意味するのは、元(まるい頭)・頑(まるい頭→融通のきかない頭)などに当てた仮借字である。


日本でも、藤原滝原 のハラは水源という意味なので、意味が近い。
「原隰(げんしゅう)(泉の出る地)」は、低湿地のことでもあり、葦原芦原などは、その通りの場所である。
どうやら、和語のハラの元の意味も、漢字の「原」に近かったことになる。原の元の字形は「厡」であり、いかにも水源らしい字である。

さて広辞苑では、「原」とは「平らで広い土地。特に、耕作しない平地。野原。原野。万二(199)『埴安の御門の原に』」とある。説明では水源や湿地については触れていないが、用例文の「埴安」とは埴安の池のことである。
引用歌は万葉集巻二の長歌、柿本人麻呂による高市皇子への挽歌である。「埴安」とは、埴安の池という広大な池があったところで、この原と池の水源の詳細は不明だが、この御門は高市皇子の住居とされる。同じ歌に、他に2つの「原」が出てくる。
(1)「飛鳥の真神の原に、久方の天つ御門を畏くも定め給ひて」は、天武天皇の飛鳥浄御原宮を定めたこと。
(2)「不破山越えて、高麗剣 わざみが原の仮宮に」は、壬申の乱のとき、美濃国での天武天皇の仮宮。
(3)「万代に然しもあらむと、木綿花の栄ゆる時に、わご大君皇子の御門を、神宮に装ひ奉りて、使はしし御門の人も、白栲の麻衣着て、埴安の御門の原に、茜さす日のことごと」の「埴安の御門の原」が、高市の皇子の住居とされるが、「神宮に装ひ」という天皇クラスの表現が使われ、その(一時の)繁栄が歌われている。
こうした、天皇・皇子の御門や仮宮を建てる場所は、ただ広い土地だとか原野だとかいうのではなく、何か神聖な場所の意味が込められているように思えてならない。

天皇の宮の名前には、他に、橿原宮、軽の堺原宮、飛鳥川原宮、藤原宮など、「原」の文字はよく使われる。その場所を賛美しての名なのだろう。高天原の時代からなのだらうか。こうしてみると、広辞苑の「平らで広い土地。特に、耕作しない平地。野原。原野」のどれにも当らないような気がする。

※ ちなみに、他に、天皇の宮の名で多いのは、穴(片塩の浮穴宮、志賀の高穴穂の宮、穴門の豊浦の宮、石上の穴穂宮)、岡(葛城の高岡宮、軽の境岡宮、飛鳥岡本宮、長岡宮)がある。

そこで『古事記』を見てみる。

最初は「高天原」。解釈は難しい。

次に殺された火の神・迦具土神の体から八柱の神が生れ、その一柱に原山津見神。
 つまり頭に正鹿山津見神。胸に、淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)。腹に、奥山津見神。陰に、闇山津見神。この闇山津見神は、渓谷の神といわれる。
 左の手に、志芸山津見神。右の手に、羽山津見神。
 左の足に、原山津見神。右の足に、戸山津見神。
語義不明の名前も多いが、山や谷、その裾野のあたりまでの地形からの名のようであり、火山活動によって成った山のそれぞれの部分の神々のようでもある。
原山津見神は左足。原とは、山の裾のどこかをいうのだろう。
右手の羽山津見神は、山の端、あるいは尾根のあたりとすると、足は陰(谷)とつながる部分なので、尾根と尾根の間の土地、蛙の足でいうと水掻きに相当する部分ということになるだろうか。ここは扇状地であることが多い。谷から下る川によって原は左右に分割され、原山津見神と戸山津見神。群馬県の至仏山の東が戸倉、西が藤原であるのは偶然か(山で左右に分れる例だが)。

次に「葦原の中つ国」の「葦原」。これも難しい。

次に「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あはきはら)」で伊邪那伎神が、禊ぎをする。「阿波岐原」は、清い水が豊富な場所に違いない。やはり水源地であろう。それほど高くない滝があり、滝の水を浴びての禊ぎなのかもしれないが、後世では介添の巫女もあった。

次に、三貴紳の誕生。天照大神は「高天原を知らせ」、月読命は「夜の食国を知らせ」、須佐之男命は「海原を知らせ」とある。
「海原」とは、比喩的表現なのだろうか、それとも原にはもともと「海原」にふさわしい意味があるのだろうか。原は、夜の食国の「国」と同等のようにもとれる。

次に「天の安の河原」に八百万の神が集う。
河原とは、現在では、川の岸辺のことで、増水すれば水に覆われる。海原は、海辺のことではなく、常に広い海原のことである。河原の原と海原の原は同じではないのではないか。

大野晋『日本語の形成』によると、タミル語では、海を意味する paraval という言葉があり、天を意味する param もあり、原を意味する para もあり、それぞれ別の語とすれば日本語も同様なのかもしれない。さらに、parampu(台地)という言葉について「滝のある山の下の丘の斜面」というタミル語の成句らしき用例も載る。
同書では、日本語の原の意味としては次の用例を載せる。

「高平をといふ 和名波良」(和名抄)
「車をむかひの山の前なるはらにやりて」(源氏 蜻蛉)

この源氏物語の「はら」は、原山津見神の生れたあたりに近い。和名抄の「高平」もほぼ同様で台地の意味だろうか。野との違いは、野が山裾の傾斜面、原は谷から続く川による堆積による平地ということかも。

4代懿徳天皇の「軽の境岡宮」と8代孝元天皇の「軽の境原宮」の場所がはっきりすれば、岡と原の違いもわかるかもしれない。
『日本国語大辞典』については「は」の項を含む1冊が見つからず、見つけ次第、追記する予定。(辞典を確認してみたが、原の語義の説明は小辞典並みの短いものであり、この辞典の悪い所である歴代諸氏による荒唐無稽の語源解釈を延々と掲載。この問題については全く役に立たない)

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