楡山古典講座 資料

二十四孝絵鈔

二十四孝絵鈔

寛政十三年刊(文政二年再刻、東都書林・浪速書林)の『都会節用百家通』から「二十四孝絵鈔」。
『都会節用百家通』の上段に24ページにわたって掲載されたもの。
一部に岩波文庫版『御伽草子』との比較を載せる。この御伽草子の挿絵は江戸初期らしく、中国風な部分もある。「二十四孝絵鈔」の挿絵は、より日本風で、日本の民俗の反映も認められる。

(一) 大舜だいしゅん

大舜の父は瞽叟こそうといふ。心かたくなにて母はまゝ(継)しくて心ひすかしく、弟は傲れり。常に舜を殺んとはかる。然れども孝行の徳によりてのがれ給ふ。
ある時 歴山に耕作しけるに、大象来りて田をかへし、来りてくさ(草)ぎり、耕作をたすく。其時の天子堯王と云けるが、舜の孝行を感じ給ひ、二人の皇女を后にそなへ、御位を譲り給ふ。
大舜 二十四孝
●耕作する大舜と象と鳥の絵。中国の絵では堯王の使者らしき者が大舜に問ひかける。

(二)  漢文帝 

漢の文帝は高祖の御子也。御母をはく太后と申奉る。
病に臥給ひて已に三年に及べり。帝 其間衣冠をとき給はず、昼夜寝食をわすれて御看病ましましける。
天子の尊き御身にて、かく御看病せさせ給ふを以て、其平日の御孝行を思ふべし。さればかかる有難き御孝心を内にをさめ、外 仁政を行ひ給ふゆゑ陳平、周勃等の賢臣補佐し奉る。誠にいにしへの堯舜の御代に等しかりける。
漢文帝 二十四孝
●寝台の母の前に、看病する衣冠姿の文帝。

(三)  丁蘭ていらん

漢の丁蘭 十五歳にして父母をうしなひ、思慕のあまり木にて父母の像をつくり、朝夕これにつかへけり。
丁蘭をむかへるに、ある時、其妻あやまつて火にて木像のおもてをこがしければ、瘡の如く腫れてうみ血わきけり。丁蘭 大におそれて、斎戒沐浴して妻諸ともにわび言を申ければ、一夜の内に其きずもとの如くいえたりけると也。
祭事いますが如くす。神を祭る事神在が如とは是なり
丁蘭 二十四孝
●祭壇に父母の木像があり、それを祭る丁蘭の絵。
◆御伽草子では、木像は母の一体のみとも読め、妻の髪が落ち、妻に三年詫び言をさせたといふ。

(四) 孟宗もうそう

孟宗は呉国の人也。いとけなきに父をうしなふ。其母賢にして学ををしへ孫皓につかへて司空しこうとなる。
此老母 たけのこを好みて食しける。或冬の頃 病に臥て、すずろに是をもとむ。時に天寒しく雪降ことはなはだし。孟宗竹の林にいたりて天にいのりて笋をもとむ。忽ち雪をうがつて笋あまた生出たり。喜び とりて家に帰り母にあたへければ、老病頓に平癒しけり。
是孝行の徳なりける。
孟宗 二十四孝
●竹林にて鍬で土を掘る孟宗、たけのこの絵。

(五)  閔子騫びんしけん

閔子騫は孔子の門人也。いとけなうして母におくれたり。父後の妻をもとめて二人の子をまうく。
母(継母)閔子騫をにくみて冬のきるものには蘆の穗を綿として着せけり。されば寒にたへずといへども少しもこれをうらみず。父いかりて後妻を去んとす。閔子騫の云、「母なくば三子ともにさむかるべし、我一人寒を凌がば二子生長すべし」といさめけるにぞ。
母これをききて心をひるがへし、二子とへだてなく愛しけるとなり。
閔子騫 二十四孝
●父母の間に入って父をいさめる子供時代の閔子騫。継母は実子を抱く。

(六)  曾參そうしん

曾參は孔子の門人也。其孝心ふかきを以て、孔子これに孝経をあたへ給ふ。
或とき山中へ薪をとりに行れけり、母留主にゐられけるに、したしき友来りけり。もてなしたくおもひて「曾參帰れかし」と指をかみければ、曾參たちまち山中にありて胸とどろきければ、いそぎ帰りける。客はすでに帰り、母は待わび給ひけり。曾參かの次第をかたり、いそぎかへりけると申されける。
孝子の親を忘れざる志なりとぞ。
曾參 二十四孝
●薪の束を携へて、母の待つ家に帰る曾參。
◆指を噛むという呪的な行為があり、それが曾參に伝はったということ。

(七)  おうしょう

晋の王は、継母これをにくめども恨とせずして孝をつくす。
其母寒中に生魚を食んといひければ、王即ち池に臨て魚をとらんとしけるに、水凍りて叶はず。王衣をぬぎて、氷の上に臥し、身のあたたまりを以て氷を割んとす。天 其至孝なるを感じ給ひけるにや、厚き氷忽ちさけてふたつの鯉魚をどり出たり。喜びとりて帰り母にあたへけるとかや。
王 二十四孝
●氷の上に裸で臥す王、氷の割れ目から鯉が二匹。
◆御伽草子によると、池ではなく河で、毎年氷が張ると人の臥したような跡が見える場所があるといふ。

(八)  老莱子ろうらいし

老莱子はわかき時より父母に孝なる人なり。
其身既に七十に至れども、父母なほ存命なりしかば、吾老舞を顕しなば父母其身を省みてはかなくおもひ給はん事を恐れ、常に五彩の衣を着し、小児の戯れをなしけり。
或ときは食をすすむるとて、わざと躓きたふれて啼真似をしけり。
とかく父母の志をやしなひ奉りて楽ましめんとなり。其至孝なる事の如し
老莱子 二十四孝
●長寿の老父母の前で、子供の身なりで戯れる七十歳の老莱子。転んでゐる老莱子を描く絵もある。

(九)  姜詩きょうし

後漢の姜詩は母につかへて至孝なり。其妻もまた姑に孝なり。
其母 井の水をきらひ、江水をこのみけり。其家清き江に遠し。
姜詩が妻 日々に遠処の清江にいたりて水を汲て帰る。又其母 生魚のなますを好みければ常に調へてすすめけり。
其後姜詩が家の側に、清泉わきいづ。其味ひ江水に同じ。又日々に双鯉をどり出て、供養の労をたすけけるとなり
姜詩 二十四孝
●家の前に泉が湧き、鯉が現はれ、水を汲む姜詩の妻。中国の絵は水汲みから帰る場面の絵。手桶が小さい。

(一〇)  唐夫人とうふじん

唐夫人は唐の崔南が妻にて、の長孫夫人につかへて至孝也。
姑、とし老て歯なく食事心のままならざるがゆゑに、朝夕乳をふくめて養ひければ、無病にして寿をたもたれける。
其後姑病に臥し、終にのぞみて子孫諸{てい}をあつめて云、「我かく天年を全うして終る事は、偏に唐夫人が多年の供養によれり。願くは吾子孫、此唐夫人を学び行はば、永く繁栄なるべし」と申れけり。
唐夫人 二十四孝
●姑に乳を飲ませる唐夫人、脇に子供。室内で子供が乳児である絵もある。中国の絵では唐夫人の胸は見せない。

(一一)  楊香ようこう

楊香は魯の楊老がむすめ也。幼して孝也。父につかへて暫くもはなれず。
或時父にしたがひ山に入て薪をとるに、大なる出て父を食んとす。楊香その時年十五なるが、少しもおそれずにむかひ、なみだをながし「吾をがいして父の命をたすけよや」と、とらに飛かかりければ、とらは敢て食んともせず、かへつておそれ逃去りけると也。
誠に孝子の志のせつなるを、天より助給へる也
楊香 二十四孝
●虎に飛び掛からうとする娘、父は倒れ込む。虎に跨って格闘する絵もある。
◆御伽草子では、娘は天に祈っただけで虎に飛び掛からない。

(一二)  董永とうえい

後漢の董永 幼して母をうしなひ、常に人にやとはれて父をやしなふ、
其父死て葬べき便なし。董永 雇主の家にて銭十貫文をかりて永く其家の奴僕とならんと約し、銭を得て礼をととのへて、家に帰る道にて美女に遇けり。強て妻とならんと約して、ともに主家に至り、一月中にきぬ三百匹を織て、かの銭をつぐなふ。
是天其至孝を感じ織女を降して助け給ふ也
董永 二十四孝
●織女が雲に乗って天に帰るときの絵。中国の絵は家で機を織る場面。

(一三)  黄香こうこう

後漢の黄香は、経義に達し、道学に志深く、文章をよくす。九歳の時母をうしなひ、父につかへて至孝也。
夏は其床を(にて)冷にし、枕をすずしくし、冬は衾(しとね)をあたためて父を臥しめ、うしろをつくろひ、すそをおさへ、夜中はたびたびこれをうかがふなど、侍養おこたりなきを以て其名尊し。
朝廷につかへて魏郡の太守となり、其子孫みな高官にすすみけるも孝行の徳なり
黄香 二十四孝
●寝台の上に敷いた夜着を扇であふぐ黄香。側に老父。江戸中期までは敷布団はない。中国の絵は豪華な寝台が描かれる。寝台+夜着は折衷的。

(一四)  王裒おうほう

晋の王裒は博学多能の人也。
父王義、罪なくして文帝に害せられしより、終に西に向て坐せず。其朝に臣たらざることを示し、
父母の墓の側に小き庵を造りて、朝夕其前に至つて礼拝しけり。
又其母存生の時甚だを畏れけるゆゑ、母の死後にも雷のなる時は昼夜をいとはず墓のまへに至りて、「裒ここにあり裒ここにあり」と生るにつかふるが如くせり。
王裒 二十四孝
●墓前に跪く王裒。稲妻。中国の絵では庵が描かれ、墓所は石戸のある塚。
◆中国では天子が裁判等に深く関るらしく、怨まれることもある。

(一五)  郭巨かくきょ

後漢の郭巨、家まづしければ、其母をやしなふに食の不足ならんことを悲めり。一子ありて既に三歳に及び、老母これを愛して我食の中をわかちあたふ。
郭巨いよいよ母の食乏しからんことを察して、其妻とはかりて小児を埋み殺さんと、あなを掘事二三尺にして黄金一を得たり。
上に文字あり、曰「天孝子郭巨に賜ふ」と。是より其家富さかえけるとかや
郭巨 二十四孝
●門口で穴を掘り、黄金の釜を掘り当てる郭巨と妻。中国の絵では穴を掘った場所は山中である。日本の絵で門口といふのは、流産や間引きの習俗によるものか。

(一六)  朱壽昌しゅじゅしょう

宋の朱壽昌は、七歳の時、其父美女をめとりて其母を去ける。それより実の母を見ざる事をかなしみて一日も忘れざりけり。然れども父母存生のうちは、いささか色にも出さず、五十年を過ける。
双親むなしくなりて後、官祿を辞し、天に祈りて母を尋しに、母猶存命して七十に及びけるを求め逢けり。
誠に孝心のまめなる事、朝廷に聞えて顕官高禄を賜りけるとなり。
朱壽昌 二十四孝
●実の母に巡り逢へた朱壽昌。母の側に孫(?)
◆御伽草子では、実母探しの旅に出るのに妻子を捨てる。

(一七)  剡子ぜんし

剡子は相伝て孝行の名高し。父母老いて、ともに眼をわづらひけるに、鹿の乳汁を用ゆればいゆべしといふ。
よつて鹿の皮を打かづきて、鹿のむれたる中にまじりて乳汁求めけるを、猟人まことの鹿とおもひ射てとらんとしけるに、剡子こゑをあげて此よしを述て、なげきわびければ、猟人も是をかんじて射さりけり。
孝子の志を、天のみそなはして必死をのがれしめ給ふなり。
剡 二十四孝
●狩人の前で命乞ひをする剡子、鹿の皮をかぶってゐる。

(一八)  蔡順さいじゅん

後漢の蔡順、幼少にして父にはなれ、母につかへて孝をつくす。
此時王莽乱を起して天下大に乱れ、ききんして食事に乏し。蔡順、母の食ふ桑の実を拾ひけるが、其器を二つにして、黒きと赤きとを別にして入ける時に、赤眉のに遇けり。盗人どもかの桑の実を尋けるに「黒く熟せらるは母にそなへ赤く塾せざるは己が食とす」と答ふ。賊ども感じて米二斗と牛のかた股をあたへける也
蔡順 二十四孝
●賊の前で跪いて、二つの器のわけを弁明する蔡順。

(一九)  庾黔婁ゆけんろう

庾黔婁は南齊の時の人なり。孱陵の令となれり。
十日ばかりありて胸さはぎしければ、故郷の父病に給ふならんと、即日官をすてて帰りけるに、果して疫痢を患て命危かりける。医に問けるに「其糞をなむべし。甘は悪し、苦はよし」と是をなめければ、甘かりけるにぞ。
猶々心を苦しめ、夜々庭に出て北辰に祈るに、己が身を以て代らんと願しに、必死の痢病忽ち癒て其身も恙なかりしとなり。
庾黔婁 二十四孝
●北斗七星に向かって父の病気平癒を祈る庾黔婁。香をたく。中国の絵では父の床の側で香をたく。

(二〇)  呉猛ごもう

呉猛は八歳にして孝行の名たかし。
其家もとよりまづしく、夏の頃は蚊帳をたるる事だになければ、父母のになやみ給はん事を悲しみ、衣をぬぎて父母にきせ参らせ、赤裸になりて側にうづくまり、心に念じて「吾身をさして父母をさすことなかれ」といひけると也。
幼してかくまで心を用ゆる事其ためしまれ也。今此伝を読てなみだを流し孝をおこさざるものは、其人必ず不孝の子たるべし(「孟猛」と書かれてゐる)
呉猛 二十四孝
●老父母の傍らで裸でうづくまって蚊に刺される呉猛。
◆落語では酒を浴びて蚊が付きやすくしたといふ。

二一 江革こうかく

後漢の江革は、幼して父をうしなひ、母につかへて孝行の聞えあり。
其頃天下大に乱れければ、母を背におひて乱をさけ、其身は人にやとはれて賃をとりて母をやしなひけり。世をさまりて故郷へ帰りけるに、自ら牛にかはりて車を曳けり。
仍て世に江巨孝とよびけり。巨孝とは大なる孝子といふ事也。かく世に名あるを以て朝廷へめされて高官を賜り栄えけるとなり
江革 二十四孝
●母を乗せた車を引く江革。母を背負って山道を歩く絵もある。 ◆御伽草子には、この話はない。

二二 仲由ちゅうゆう

仲由、あざなは子路、孔子の弟子なり。
家まづしうして常にあかざの実、豆の葉を食とし、人にやとはれて遠方より米をはこび、其賃をとりて父母をやしなひけり。
父母没して後、楚国につかへて富貴の身となり、金銭衣食に富み、栄光こころに叶はざる事なし。然れどもこれを悦びとせず、昔の如く貧にて賃銭をとりて父母につかへ奉りたくおもへども、是のえ心に叶ずとなげかれけり
仲由 二十四孝
●米俵を背負って運ぶ仲由。中国の絵は俵ではなく麻袋。
◆御伽草子には、この話はない。

(二三) 黄庭堅こうていけん

宋の黄庭堅は、山谷さんこく道人と号す。博学にして文章を事す。もつとも詩に長ぜり。朝廷につかへて官高く家富み、親に孝を尽せり。
其母やまひに臥給ふ時は、其看病をつとめらるるに、昼夜衣冠をとかず、薬をせんじ食をすすめ、二便(大小便)をとり清き水を汲みて其器をあらふなどに至るまで、みな自らせられける。
其身富貴にしてあまたの召使あるに、其労をいとはれざる孝心の程思ふべし
黄庭堅 二十四孝
●母の便の器を処理する黄庭堅。水に流してゐる。

(二四)  陸績りくせき

陸績は、呉の孫権につかへて博学多識にして、天文に達す。
はじめ六歳の時、九江の袁術が方へ行けるに、橘を出てもてなしけり。帰る時に礼拝するとて懐より橘三枚を取おとせり。袁術これを見て笑ひたれば、陸績おとなしく跪きて云、「此珍果持帰りて母におくらんと存じてなり」と、こたへければ、袁術をはじめ満座の人々、幼うして孝心を含み且長者に対する礼を知と、かんじけり。
陸績 二十四孝
●貴人の前で跪いて陸績が礼拝すると、橘が3つこぼれ落ちる。


◆『御伽草子』では、21、22の2話は、次の2つの話に置き換はってゐる。2つのテキストは、『御伽草子』を元に、短縮した。

(二一)  張孝 張禮ちょうれい 

張孝、張禮ちょうれいは兄弟なり。世間飢饉の時に、八十余の母を養へり。木の実を拾ひに行きたれば、一人の盗人来りて、張禮を殺して喰はんと云へり。張禮云「吾に老いたる母あり、今日は未だ食事を参らせざりしに、すこしの暇を賜はれ、やがて参らん」と云うて帰り、母に食事を進めて、約束の如くに彼の者の所へ至りけり。兄の張孝是を聞きて、跡より行きて盗人にいふ様は、「我は張禮より肥えたる程に、食するによかるべし、我を殺して張禮を助けよ」と云へり。二人かく死を争ひければ、彼の無道なる者も、兄弟の孝義を感じて、米二石塩一駄を与へたる。
張孝兄弟
●兄弟と賊の絵。(岩波文庫版『御伽草子』より)

(二二)  田眞でんしん 田廣 田慶

此三人は兄弟なり。親におくれてのち、親の財宝を三つに分けて取れるが、庭前に紫荊樹とて、枝葉栄え花も咲き乱れたる木一本あり。これを三つに分けて取るべしとて詮議しけるが、夜の明けて、木を切らんと木のもとへ至りければ、昨日まで栄えたる木が俄に枯れたり。 田眞でんしん云「草木心ありて切り分たんといへるを聞て枯れたり。誠に人として、これを弁へざるべしや」と、分たずして置きたれば、又ふたゝびもとの如く栄えたるとなり。
田眞三兄弟 二十四孝
●木の前で相談する三兄弟。

落語「二十四孝」

八五郎が御隠居から『二十四孝』の話を聞かされ、親孝行をしたら小遣ひを貰へることになる。
そこで真似事を始めた八五郎だが……
郭巨の真似をしようにも自分に子供がないので長屋の子を連れ出したり、
王祥孟宗の話がごっちゃになって雪に埋もれた竹林を掘って鯉を捕まへた話だと言ひふらしてみたり、
呉猛を真似て裸になって酒を吹き付け蚊に刺されようとしたが、その酒を飲んで泥酔してしまふなど、失敗の連続。