楡山神社ホームページ 郷土資料

武州幡羅郡原郷村の歴史 1

 一、湧き水の郷(八日市そのほか)

 昭和初期に原郷八日市の斉藤半次郎が編纂出版した『大里郡幡羅村全図』といふ大判の地図帳がある。その地図帳の楡山神社付近の図を見ると、縦横にいくつかの太く黒い線が描かれ、この太線は。水路ないし堀を示したものと明示されてゐる。
(地図上の活字体の文字は追加書込)

 堀の一つは、今の原郷中部自治会館(会議所)の南のあたりから、北へ流れ、八日市橋(鳥谷橋)のところで丈方川(福川)の手前に東西に流れる堀へ落ちてゐる。会議所付近からの堀は、昭和初期生れの人ならよく記憶に残ってゐて、大量の湧き水が吹き出して流れてゐたといふ。湧き水は戦後しばらくの頃まであったらしい。
 会議所の場所には大師堂があり(現在は自治会館会館建物内)、西隣には楡山神社旧別当の正徳院能泉寺もあった。寺号に「泉」の字が使はれてゐる。正徳院は瑠璃光寺の末で徳沢家が居住した。北西には平安時代の武将の「幡羅太郎館跡」もあり、東側には、八日市の旧家とおぼしき家が並び、この湧水を中心にして八日市の集落が成り立っていったことが偲ばれる。
 堀は楡山神社の西方を北に流れていたが、その先の丈方川(福川)の北は、鳥居ヶ谷戸といひ、『大里郡神社誌』の楡山神社の項にも「古代祭器数個、字鳥居ヶ谷戸地下より発掘品」と書かれた古い土地である。鳥居ヶ谷戸の西の蟹原では、近年の公園造成の際に古い遺跡が発掘されてゐる。蟹原は八日市の中心からは離れてゐるが「八日市遺跡」と教育委員会は名付けたようだ。
 堀は、いきなり丈方川に落ちるのではなく、川の手前を平行して流れる台地下の別の堀に落ちてゐる。台地下の堀はさらに東へ続き、根岸沼に至るまで、旧原郷村の全域に流れてゐた。一部分で丈方川とつながってゐるのは水量調節のためであらうか。
 櫛引台地の北端に当たる原郷台地の北縁からは、各所で湧き水が見られ、その多数の湧き水をまとめた堀が形成されてゐた。湧き水なので水質は非常に良く、時代を遡れは水量も大量であった。
 丈方川は、大正時代までは、上唐沢川下唐沢川の合流地点から下流のことをいふ。深谷の宿場や市街地からの排水や、各地の田の排水などが注ぎ込んでゐた。丈方川はさらに下流の旧妻沼町では古くから福川と呼ばれた。幡羅地区では丈方川といふ名だったが、戦後は全体を福川と呼ぶようだ。福川の語源は、おそらく水源の多くが別府沼を含めて櫛引台地縁から噴き出す水であったことからの名付けではなからうか。丈方川は昔は城北川とも書いたが、この「城」の意味するものについては、諸説があることだらう。
 太古の昔、人々が村をつくって定住するには、清らかな水の湧き出る土地が必要だった。湧き出た水は小さな流れとなり、人々の生活用水となり、水の量が多く近くに低地があれば、低地へ田をつくり稲作も可能となる。日本の稲作の始まりは、山裾や台地下などの湧水の豊富なところから始まったといふ。洪水の危険を伴ふ大きな川の傍らではなく、湧き水である。江戸時代の丈方川ないし福川は、雨季には台地地帯の雨水が大量に注ぎ込んで、洪水が多発し、またさらに古い時代には、流れの位置さへ定かではなかったようだ。

 楡山神社の堀の跡

 前掲の同じ地図に、楡山神社の北の県道沿ひにも、西から東南東へ流れる堀が、黒い太線ではっきりと描かれてゐる。地図だけを見ると、途中で湧き出て途中で消えたかのように見える。ところが神社境内の山林部の西側や南側にも長い堀の跡が今も残ってゐるので、北側の堀と連続した、ひと続きの長い堀であったようである。
 境内地の南西の隅には、榎の木があり、その根元近くの堀跡の底には、砂利石を敷き詰めた場所がある。おそらくこの砂利石の底から水が湧き出て、北へ流れ、また東へ流れてゐたと思はれる。砂利石は、吹き出した水の勢ひで水が濁ることのないようにするためのものであらう。
 そこから北へ流れた水は、県道の端に至って東に向きを変へ、境内東端の旧御神木の大楡の北側あたりで、地図上からは消えてゐる。その県道をまたいで北東のあたりからは、戦後しばらくまでは大量の湧水が北の低地へ落ちてゐたといふ証言もあるので、水は御神木のそばでいったん地下を通って北東へ流れてゐたのかもしれない。県道は明治以来、数度の拡幅工事が行はれ、道沿ひの堀の跡は、今は道路下となって確認できない。
 また、榎の下の水源から境内を東の方向へ続く堀の跡は、今は社務所の南あたりまでしか確認できない。それ以上のことは、証言者もなく不明である。
 いづれにせよ、明治大正時代までの楡山神社の境内は、楡や杉の大木に覆はれ、豊かな水を湛へた、荘厳な神域であったことは間違ひない。

 湧水を中心にした八日市の集落が、そのまま太古の時代から続くものだといふ確かな証拠はない。とはいへ楡山神社は延喜の時代の千百年前には既に地方で有数の神社として知られた存在であり、奈良時代には同じ幡羅郡の奈良(熊谷市)からは大量の湧水が吹き出したといふ記録もあり、武蔵国幡羅郡の中心地域であった深谷市原郷から熊谷市奈良にかけての土地は、古くから人口も多く栄えた土地であることは疑ひ得ないことである。
 幡羅郡全体からみれば上流地域にあたる原郷の楡山神社の境内から湧き出た水は、水量は多くはないが、根岸沼を通って下流の福川へ流れ、幡羅郡一帯へ染み渡ってゐたことが想像される。幡羅郡総社とも呼ばれた。

 以上により、八日市には少なくとも二つ(会議所近くと楡山神社境内)の水源地があったことがわかる。西部の城西でも以前は湧水があったといひ、東部の木之本でも根岸沼方向へ脇水が出てゐた。根岸沼については次の章で述べる。
 多数の湧き水は、幡羅地区南部地帯の工業化などのあった経済成長の時代に、徐々に消えていった。昔の時代のことを書き残した文献などは、いたって少ない。少ないといふのは、たぶん、井戸堀の技術が進んで皆が井戸水を使ふような豊かな暮らしの時代になり、さらに便利な水道となったため、堀の水が何か貧しい時代を思ひ出させるようで、記憶から遠ざかってしまったためだらうか。

 木之本にあった「北の渕」

 原郷内で八日市とともに古くから人口の多かった木之本にも、湧き水の流れがあったことが確認できる江戸時代の古文書がある。天明八年(1788)に四郎右衛門家の新宅普請の際に、新たに東から入る馬入れの道が作られた。馬入れの長さは「東の端から西の境まで」二十六間半(約四十八メートル)。道幅は二間(三.六メートル)と広めで、そこに一列に木を植ゑるにあたって、「土手」から東と西で別の二名が分担して植ゑ、さらに「北の渕」にも一通(一列)の木を植ゑると書かれてゐる。
 「土手」は、今も東の道路の東のH家内に木が植ゑられて残存する土手状のもの(古墳に関する深谷市教育委員会報告書に「土塁」とあるもの)と一続きのものだった可能性が高い。土手を斜めに横切って馬入れが作られた。土手は馬入れから南西方向に続いてゐたことになる。
 「渕」とは、湧水か落ちて溜っている場所、あるいは流れの途中で水の溜ってゐる場所をいふ。木之本の渕がどちらなのかは不明であるが、どちらにしても湧水の水源があったことは確実である。南西にも水源があったとすると、そこにはY家(本家)があり、更に南西には国済寺がある。Y家の東北と北には、昭和の頃には二つのコンクリートの貯水池があったが、貯水池は古い時代の湧水跡に作られた可能性もある。北の貯水池の西は、付近にはない急坂の地形であった。木之本の流れの下流は、根岸沼だったことになる。

(2013年11月2日)

 幡羅太郎

 幡羅太郎館跡は、八日市会議所から西北方向のS家付近にある。幡羅太郎は、その出自は藤原氏であり、平安時代に北武蔵へ移住して、太郎の祖父は騎西郡司となり、その後に幡羅郡へ勢力を伸ばしたとされる。子孫は成田氏を名のった。成田氏系譜によれば、
 九条の右左相藤原師輔〜太政大臣藤原伊尹〜右少将藤原義孝〜武蔵守藤原基忠〜騎西郡司藤原宣直〜武藤藤原忠家〜幡羅太郎藤原道宗、と続く。
 太郎道宗の子の助高は、埼玉郡上之(現熊谷市)へ移住して館を構へ、成田氏を称した。末の子孫は行田忍城主となる。成田太夫助高の子に、成田太郎助広、別府二郎行隆、奈良三郎高長、玉井四郎助実がある。
 騎西郡とは旧騎西町を含む埼玉郡の西部一帯のことをいったらしい。

幡羅郡

 幡羅郡の範囲は、江戸時代の新編武蔵風土記稿によれば、今の深谷市の幡羅・明戸地区、熊谷市の三尻・別府・玉井・奈良地区・大幡地区の柿沼と代、旧妻沼町全域をいふ。中世以前には、少し西の唐沢川が榛沢郡との境界だったとする説もある。
「幡羅」は中世以前の時代には「ハラ」と読まれた。意味は平坦な土地を意味する「原」であらう。中世から近世にかけて「原郡」と書いた文書も少なくない。幡羅と二字が使はれたのは、奈良時代のころに国名や郡名は、吉事を選んで二文字とするといふ国の方針による。那賀郡などもその意味は「中郡」なのであらう。幡羅の表記は、郡の下の郷名としては、全国に数ヶ所の地名に見られる。幡も羅も吉字であり、どちらも繊維関連の縁字であり、万葉仮名によく使はれる字である。羅は良(らの元字)と並んで最も使用頻度の高い万葉仮名であり、画数は多いが、昔は日常的によく見られた字であった。
 本文に、「幡羅郡の中心地域であった深谷市原郷から熊谷市奈良にかけての土地」と書いたが、近年、その中央部に近い東方と西別府の境付近から、建物跡などが発掘され、幡羅郡の役所である幡羅郡家の跡であることは確実といふ。
 幡羅郡は八つの郷からなってゐたと、平安時代の和名抄にある。八郷のうちの幡羅郷が、原郷や東方などの幡羅地区を中心とした地域で、熊谷市西別府なども含めたと思はれる。

原之郷村

 明治22年の町村合併で幡羅村ができる以前は「原之郷村」であった。江戸時代には「原ノ郷村」と書かれることも少なくなかったが、「ノ」は筆で小さく書くので、「原郷村」のように見える表記もあった。