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武州幡羅郡原郷村の歴史 2

 二、根岸沼と丈方川

 「根岸沼」とは、今は原郷の東北部の小字名であり、根岸の東、木之本の台地の北側に田が広がる地域のことである。北は丈方川(福川)まで、東は熊野大神社西から本田ヶ谷へ通じる道の少し西あたりまでが、小字の根岸沼である。
 「丈方川」は今の福川の幡羅周辺地域での旧称である。福川とは、元は別府沼からの流れの下流、上江袋から先の旧妻沼町などでの呼び名だった。原郷、東方、上下増田などでは丈方川と呼び、城北川と書くこともあった。本書では昔風に丈方川と書く。

文政六年 丈方川絵図面(斜体の青字で字名と橋名を補足)

 文政の絵図面でみる根岸沼と丈方川

 文政六年(1823)の丈方川絵図面がある。現代の地図のような正確な測量にもとづくものではないが、凡そのことはわかる。川の流れは現在とくらべて直線的ではない。
 北の台地の縁に沿って、別の細い堀が流れてゐる。この図では、権現橋の少し西あたりから分水してゐるのは確認できるが、明治大正時代の斉藤半次郎の測量した地図では、細い堀は、さらに西まで続いてゐた。八日市の堀をはじめ、各所で流水が落ちて出来た堀であらう。
 根岸の徒橋の少し西に、台地からの堀がつながってゐるのが確認できる。その東に「落込五尺」とあるのは、台地との落差のことだらうか。
 その東に「境」とある付近のいくつかの黒い丸印は、石の弁天様などのことである。そこから堀が南へ流れるのは、台地の縁に沿ってゐるからだらう。堀の幅はやや広がってゐる。途中で淵のような沼のようなふくらみが見られ、そこから東へ流れ、その先にもふくらみが見られる。この一帯が、小字名の根岸沼である。
 字根岸沼の「堀」の一つめのふくらみの部分は、丈方川の川幅より大きい。やはり「沼」と呼ぶべきものであらう。古い時代には更に大きな沼であったと想像される。ふくらみの部分に「出水落込五尺」「出水落込四尺」とあり、二ヶ所で湧き水が落ちてゐた。「落込五尺」「落込四尺」は、滝のように落ちてゐた水の、滝の高さ、あるいは台地との落差のことであらう。この二ヶ所の湧水の場所は、根岸の荒神社から少し南のあたりである。
 水はそこから東へ流れて、二つめのふくらみが見える。そこにも小さな沼があり、水は台地の縁にそってさらに東方村方面へ流れてゐる。
 昭和三十年代ごろまで、字根岸沼一帯の台地の下からは、いくつもの湧水が落ちてゐたらしい。当時までは蛍飛び交ふ清流もあったといふ。
 絵図面の根岸沼の沼は、現在の熊谷市西別府の別府沼に形がよく似てゐる。根岸沼もまた、古い時代には別府沼のような大きな沼だったらうことが偲ばれる。根岸沼の東の、東方地内には、沼辺といふ小名が今もある。
 元禄十一年(1698)の『検地帳』をもとにした同年の『原之郷村名寄帳』によると、当時から根岸沼には田が多く、当時は既に田園地帯となってゐた。

 唐沢川

 図は、現代の地図をもとに昭和三年以前の唐沢川を想定して描いたもので、教育委員会の資料から拝借した。
 唐沢川は、今は深谷駅南東で上唐沢川と下唐沢川が一つになって北へ流れ、福川(丈方川)と立体交差して北の小山川へ落ちてゐる。ただしそれは昭和三年(1928)に竣功した大工事の後の時代の話である。昭和三年以前は、上唐沢川も市街地の西部を北へ流れてゐて、二つの川が、深谷城跡の東西を流れ、さらに北で一つに合流し、そこからは丈方川となって東へ流れてゐた。上唐沢と下唐沢の合流地付近には、西からの菱川も合流してゐた。雨季には大量の水となり、江戸時代の洪水の記録も多い。明治以後は養蚕の普及により上流域で森林が伐採されて、より大きな洪水も発生し、そのための大河川工事だったのだらう。

 江戸時代の唐沢川はどうだったかといふと、文化元年の文書に次のように書かれる。
「丈方川水元の儀は、本庄宿裏出水の堀一ヶ所、岡部村裏より流来候堀一ヶ所、字上唐沢川一ヶ所、中唐沢川一ヶ所、下唐沢川一ヶ所、右五筋の堀川其外近郷の用悪水路の落尻数ヶ所、当村上にて不残落合、丈方川と相成」
 上唐沢川と下唐沢川のほかに「中唐沢川」といふのもあったらしい。本庄宿裏や岡部村裏からの堀は、菱川につながるもののことだらうが、戦前までは菱川は今の福川より南に流れがあったらしい。

 丈方川の想定図

 さて、同じ図を見ると、台地部分が薄墨色で描か れてゐるのだが、幾つもの川を集めた丈方川が、台地の縁にぴったり寄り添うように原郷地内を流れてゐるのが、やや不自然にも見える。
 国土地理院の地図で付近の海抜を調べ、自然の摂理で水は低い方へ流れるとすると、丈方川は点線の位置を流れるのが最も自然である。時代によってあちこちをさまよったものとは思ふが、江戸時代の洪水の記録を始め、時代によってさまざまの手が加はった川であることは諸書に見える。
 点線の流れは、今の大字明戸南部から小字諏訪新田を通過する。明戸は元はアクトと読んだが、柳田國男『地名の研究』によれば、アケト・アクトの地名は、川べりの低地で、特に川俣近くのところに多く、元は川だった土地などもあるといふ。「明」の字を使ふところは新開地に多いともいふ。
 同じ図を見てもう一つ気づくことは、別府沼から東北方向に流れる川があり、根岸沼も同様であることだ。別府沼の西にも細い流れがあり、東方の台地下の湧き水が流れこんだ。根岸沼から東北の流れは、近世以後は丈方川の一部であるが、丈方川の流域変更の以前から、根岸沼の水は東北方向へ流れてゐたと思はれ、別府沼とそこからの東北方向への流れとよく似てゐる。

 以上を書き上げて後、国土地理院の昭和7年の地図を見ることができた。そこには、はっきりと根岸沼から大字東方字沼辺に至る細い沼が、台地沿ひに描かれてゐる。形は別府沼によく似、名称は不明だが、ここでは根岸沼と呼ぶことにする。この根岸沼の東端は、東方城跡のすぐ北である。ここまでは想像通りだった。
 楡山神社の北から東南東へ流れてゐた城北川(丈方川)は、東方城の北で向きを北北西に変へて、宮ヶ谷戸集落の中心へ向かって流れてゐた。宮ヶ谷戸集落の手前から北北東へ、更に東南東へ向きを変へ、その先は今の福川とほぼ変らぬ位置である。根岸沼の水は、どこかで城北川とつながってゐたものと思はれる。
 東方城の北と、下流の宮ヶ谷戸手前では、下流のほうが位置は西になる。これは想像してゐなかった。宮ヶ谷戸には、館の周囲に堀をめぐらした「堀ノ内」と呼ばれる土豪があったといふ話だが、この地図で見れば城北川から堀の水を引くのはたやすいことである。
 とはいへ、原郷と東方の境界付近の城北川の流れは、人工的なものを感じる。その要には東方城がある。
 思ふに、城北川の変更は、戦国時代、東方城への舟の流通のためではなかったかと想像される。上流の深谷城から東北には皿沼城がある。上下唐沢川が合流した地点で直角方向に流れを変へるのも不自然であり、2つの川の水はいったん大きな沼に溜まってゐたのではなからうか。おそらくそれは「皿沼」といふ沼で、下流域の水量調整のための流水地でもあった。皿沼は皿のように円形の沼だったらうが、城北川の下流につながる根岸沼は、台地の岸に連なる細長い形であり、東方城の搦手に当たる。三つの城は、船で交通できる関係にあったと想像される。

 備前堀用水と原郷村

 江戸時代の原郷村の用水は、おもに湧水と丈方川の水だった。前出の文政の絵図面では、丈方川の三ヶ所に、上敷免方面から、備前堀用水の排水が落ち込んでゐる。
 同じ文政の頃の『新編武蔵風土記稿』などには、原郷村の用水は備前堀だったとだけ書かれてゐるので、当時の文政五年(1822)の調査で原郷村から幕府へ提出した文書の控を確認すると、確かに「用水通の儀は先々より備前堀 流末用ひ来り申候」と書かれてゐる。備前堀からの「流末」が入り込んでゐることに、間違ひはない。しかし実際は絵図面でわかる通り湧水と丈方川の水でじゅうぶんなのである。他村からの流末や排水(悪水ともいふ)を利用してゐるといふのは、一種の謙遜表現で、村を豊かに見せないため、年貢等の負担を増やされなくすため、お上に差し出す文書では慣用的な表現になってゐるともいへる。
 文政十年の備前堀用水組合の文書によれば、原郷村はこの用水組合に加入してゐないことは明らかである。丈方川は、備前堀の排水を受け入れてゐるだけであるからなのだらう。

(2013年11月2日)

(余談)「ちかた」の神

 大字明戸の東には、上増田・本田ヶ谷・下増田(熊谷市)の集落が続いてゐる。本田ヶ谷の集落は江戸時代の初めには一キロ以上南にあったと伝へられるので、元は上増田と下増田はぴたり続いてゐたようだ。
 上増田には増田氏館跡があり、館の周囲の堀の水は、丈方川から引いたものだらう。館跡の東には諏訪山神社があるが、少し東の上下増田の境には近殿神社がある。これは「ちかと-の-神社」と区切って読むと、上州大胡城の鎮守・大胡神社の旧称 近戸(ちかと)大明神の名と通じる。上州では武家の館や城を守る社の名であることが多く、上下増田でも増田氏との関連が推測される。柳田國男によれば近戸の神とは、城の搦手(からめて)などに祀られる神だといふ。搦手とは城の背後や脇のあたりで、舟着き場のあることが多い。
「ちかと明神」は武州北部では「ちかた明神」の名で、上杉氏の深谷城の東や、熊谷寺(熊谷直実館跡)の東などに祀られ、久喜市の古河公方足利政氏の館近くの「千勝(ちかつ)神社」も館の鎮護の神であったようだ。旧川本町の畠山重忠館の北東の荒川対岸の田中にも「ちかた」といふ社がある。これらの神社には、川べりの船着場の土地といふ共通点はあるが、御祭神等の共通性は少ない。「ちかた」は直接に神の名といふことではなく、地形や地名の呼び名なのだらう。
 ちなみに「ちか」は古語やアイヌ語では、鶴や白鳥などの大型の白い渡り鳥のことをいひ、その飛来地が「ちかと」、転じてそうした場所に設けた船着場(中世の淀川の近都牧など)の意味から、地名となった例(秩父市近戸など)も少なくない。