楡山神社ホームページ 郷土資料

武州幡羅郡原郷村の歴史 3


図は大正時代の楡山神社境内俯瞰図(江森天寿絵)

 三、楡山神社の「里人不入の地」

 楡山神社のいはれ

 楡山神社は、今から千百年前の平安時代初めに国の法令の細則を定めた『延喜式』の「神名帳」に載せられた古社で、毎年朝廷からの幣帛の奉納があった北武蔵有数の神社であった。延喜式内社といふ。
 江戸時代になると、地方によっては延喜式に載る古社の所在が不明になってしまった例も少なくなかったが、境内に楡の古木の群生する原郷の地は疑問の余地のないものだった。
 明治五年秋、新政府の役人の一行が、妻沼方面から原郷の楡山神社の地に至り、その後深谷や熊谷方面を視察した。これらの地域を「入間県八大区」と定め、代表する神社一社を「郷社」に選定するための視察だったようだ。楡と杉の古木に覆われ、清らかな水を湛えたた楡山神社は、翌明治五年、入間県八大区郷社とされた(のち県社)。

 「里人不入の地」とは

 こうした神の森といふべき神々しい神域の、その奥へは、氏子といへども、みだりに入り込むべきものではない。森林である以上その維持管理のための対処は必要だが、下草を刈り、潅木を伐採し、それらを資源とする以外は、里人は入ってはいけない場所であった。そういったことは原郷以外の地域でも、程度の差はあれ、類似の伝へはあちこちで聞く。
 昭和五年に刊行された『大里郡神社誌』に、楡山神社には「古(いにし)へ本社の後方に一の塚あり。塚には洞口ありて、里人その周囲を不入の地となし、これを犯せる者 災害にかかるといふ」とある。

 こうした「里人不入」の意味は、明治以後には別の意味も加はったようだ。
 「一、湧き水の郷」のページの地図を見ると、境内地の主要部分が、三三六番地と三三七番地に分れてゐる。社殿は東側の三三六番地の西端に建てっれてゐる。西側の三三七番地は、明治の初めに上地(あげち)といって強制的に国有林に編入されたときに境内から分筆された土地である。新政府の国家財産の確保や材木の調達が目的といはれ、全国で同様のことが行はれた。ごく普通の村の入会地を国有林にされてしまったところも東日本では少なくない。国有林には、村人の立入りが禁止されたのである。
 三三七番地の土地は、大正時代に買ひ戻しして、境内地に復した。戻ったときは、南端の榎などの一部の木を除いて、杉などの大木はおほかた伐採されたあとだった。左の昭和三年の写真を見れば、社殿背後の森が当時は貧弱であったことがわかる。「塚」については、昭和末期の古老の話によっても、確かなことはわからない。小さな塚なので、国有林伐採のときに崩された可能性もある。

(2013年11月2日)