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武州幡羅郡原郷村の歴史 4

 四、愛宕林八町八反

 愛宕林の成り立ち

 明治のころまで、愛宕神社の北の一帯には、八町八反の広大な山林があったといふ。左ページは明治四十三年の斉藤半二郎による地図だが、愛宕神社を囲む濃い色の「国有林」の部分が四町二反なので、更にその周囲の灰色の部分の山林を含めると、実際は十数町歩になるのではないかと思はれる。ただし明治五年(1872)の『神社明細帳』に愛宕神社は「境内二二七坪」とあり、境内地と愛宕林とは、区別されてゐた。
 古い記録では、『大里郡神社誌』に「元禄十一年寅十一月村方書上帳に、愛宕宮一ヶ所氏子持除地林六町余、とあり」とある。この当時の『村方書上帳』は、現在はその存在が確認できないが、当時で六町余では明治のころの半分以下であったが、それでも広い森林である。
 村で森林を持つことは、人々の生活の上で必要なことだった。薪などの燃料のほか、寺社普請のための用材確保、民家の建築にもルールを定めて用ゐられたと思はれる。人間は森がないと生きられない。原郷のように村内に森林を持つのが良いが、持てなければ、東大沼村が萱場村に「古田山」を持ってゐたように、あるいは横瀬村が針ヶ谷村の山林を利用できたように、村の外に必要な山林資源を確保しておかなければならなかったようだ。原郷村には、根岸を中心に、鍛冶職、鋳掛職、馬鍬職、鍬物職などが五軒(明治初年の数)あったので、これらの産業のための燃料源も必要だった。

 さて、元禄のころに六町余だった愛宕林は、江戸時代中期以後、次第に増えていったことになる。
 文化元年(1804)の古文書に、「当村には前々より山林等は無御座場所に候」と書かれてゐる。山林がなかったといふのは、神社の森は除いてといふ意味なのだらう。そして同文書では次のようにいふ。


 明治四十三年斉藤半次郎作成地図
 「追々村方困窮相募、潰百姓五拾壱件出来、右に准じ人数相減、潰百姓の持田畑 手余り地に相成、作付難行届候得共、御年貢御引方等も無之、芝地にいたし差置候ては、御年貢村弁納多分相成、弥増難儀仕候間、無拠、右手余り地の分追々林に相仕立、薪等取少々づつ御年貢弁納の足合に仕来候得共、右躰にては当時の者ども難儀仕候。」

 元禄の検地以後百年の間に、村の家の数が五十一軒も減ってしまった。畑が余ってしまひ、芝地となって耕作放棄地とみなされないように、林に仕立て替へをして(入会地として)薪などを採って少しでも年貢負担が軽くなるように取り計らってもらったといふことが書かれてゐる。
 五十一軒も家が減ったのは、深谷宿へ移住したり江戸へ出て商売を始める者が多かったためと思はれる。江戸時代には江戸や宿場町の人口は著しく増大
したが、特に関東の在の村々の人口は、どこも減少傾向であったらしい。原之郷村の人口の減少は極端なところがあるが、これについては別の章で述べる。
 畑は山林となり、土地交換などで愛宕林の周辺に山林が集まるようにしていったのだと思はれる。そうして広がっていった愛宕林なのだが、この愛宕林をめぐっては、幕末の嘉永のころと、明治のころと、二つの訴訟事があった。

 幕末の訴訟

 嘉永六年(1853)の訴訟は、年一度の祭礼を任せてゐた深谷宿の大沼坊(宝珠園)といふ修験(山伏)が、村人に無断で山林を伐採したことに対し、村の名主以下全員で訴へた裁判である。名主は三人あったがこの時の名主総代は愛宕社に近い木之本の柳瀬家である。おほむね村側の勝訴となったようである。
 保存されてゐる文書を客観的に見ると、争点は、愛宕神社が村持か宝珠園持かといふ点になる。
 鎮守社の経営に関する「村持、寺持」などの用語は、明治以後は厳密に使はれるようになったのだが、当時は曖昧なものであった。明治以後の見方では、江戸時代の村鎮守の社のほとんどは村持(または総氏子持)であり、ごくまれに寺持とされるところがあるにすぎない。寺持とは、公的な存在であった寺の所有といふ意味である。宝珠園などの修験者は、私的な存在にすぎず、まして八町八反の村の入会地の所有者であるはずはない。先述の元禄の「村方書上帳」には「村持」と明記してある通りである。しかし、江戸時代の用語では厳密さを欠いてゐるので、祭祀を委任してゐるだけで「○○院持」などと書かれることがある。また「○○寺持」とあっても、祭祀を別当寺の配下の山伏に委任してゐるだけで実際は村持であることが多い。
 深谷宿の旅籠(はたご)屋などで売られてゐた刊行案内の刷り物などに「愛宕社 宝珠園持」などと書かれることもよくあった。文政の『新編武蔵風土記稿』にも「宝珠園持」と書かれる。その時の届けの控をみると、「宝珠院へ前々より預け置候」とだけある。祭祀を預けたといふことだらう。ところが天保九年(1838)に或る名主が発行した『村差出明細帳』に、「愛宕免御除地八町八反歩……宝珠院持」と書いたものがある。これも祭礼の受け持ちの意味のつもりだったのだらう。あるいはどこかの雛型の例文を見ながら、固有名詞と数字を入れ替へただけで書いてしまふことはよくある。ともかく。こうした諸文書の混乱から、愛宕林の問題は、裁判にまで至ってしまったようである。
 明治二年(1869)の『寺社書上帳』には、「祭祀深谷宿大沼坊玄好 惣氏子持に御座候」と正しく書かれるようになった。
 大沼坊は、原郷村文書によると、玄好の祖父の代から瑠璃光寺の紹介で祭祀を預けられた。深谷稲荷町稲荷神社の文書では文政年間から稲荷神社の祭祀を奉仕したとあるので、愛宕社と同じ頃であらう。
 江戸時代の文書で、鎮守社が「○○院持」といふのは言葉のアヤの問題である。「○○寺持」と書かれたものであっても、別当職を受け持ってゐるだけのことで、実際には村持であることがほとんどである。その内実についてはよくよく吟味しなければならない。

 明治の訴訟

 明治のころの訴訟については、原之郷村が国(新政府)を訴へた裁判だったが、これは村の敗訴となった。
 明治四年(1871)、愛宕林のうち四町歩余りが、新政府の上地令により、国有林に編入された。訴訟はこのことに対する異議申し立てであり、長期にわたる裁判の末の敗訴だった。
 明治新政府は、関東や東北地方には特に厳しく村の入会地などの山林を国有林に召し上げたといふ。一般の山林だけでなく神社の森の一部も国有林とされてしまった例も多い。秩父の町の三分の一は元は秩父神社(妙見宮)の土地だったともいふ。楡山神社の西奥の部分の山林も同様だった。
 国有林にすることを上地(あげち、又はジョウチ)といった。新政府の役人が一応は村々を廻って山林の由緒などを調査した上ではあったようである。
 上地といふ言葉は江戸時代にも使はれた言葉であり、旗本の財政難のため、旗本の知行地を幕府直轄領に組み替へることを上地(あげち)と言ってゐた。当時は幕府領に上地されても、入会地に対する村人の権限が変更されるわけではなかった。その点で、多くの村々で油断があったようである。明治の上地はそれとは全く異なり、国有林となった以上は村人の立ち入りも許されなくなるものだった。

 愛宕林のその後

 愛宕林については、上地された部分は、裁判の敗訴ののち、民間に払ひ下げとなった。村の人の名で愛宕林の土地を国から買ふことになったのである。他の村々でも山林の面積は小さいが同様のことがあった。愛宕林のおほかたの跡地は、人口も増えたこともあり、国の政策にしたがって村人によって開墾され、桑畑などに変はった。その一部は愛宕神社所有の畑となり、畑の小作料は愛宕神社と楡山神社の経費に当てられた。昭和に入り、旧愛宕林から西の一帯には、軍の造兵廠とされ弾薬工場などが点在して建てられた。戦後は農地解放により神社は畑を失ひ、やがて養蚕が廃れるころには桑畑もなくなって新興住宅地の常盤町ができていった。

(2013年11月2日)