楡山神社ホームページ 郷土資料

武州幡羅郡原郷村の歴史 5

 五、木之本古墳群

 享和四年(1804)の原郷村の木之本付近の絵図面を見ると、今は存在しないいくつかの塚が描かれてゐる。今にいふ「木之本古墳群」の一部だったものと見られる。
 「木之本」は原郷の小字の名であるが、なぜか原郷西部から東方に至る広範囲の古墳群を、そう呼ぶようになった。古墳群中の最大級のもの3つが古墳群の中央の木之本に所在したためと思はれる。
 現存する木之本古墳のうちの最大のものは、「1号墳」と言ったと思ふが、地元では通称「妙見山」と呼ばれ、幕末の弘化四年に塚の上に、妙見星神が勧請されたことに由来する名前である。この妙見星神は、石璽の形状で土台には亀に似た玄武像がかたどられ、大正初年に鎮守楡山神社境内に移転され、「知々夫神社」の名で祀られてゐる。妙見星神は、江戸時代に妙見宮の別称もあった秩父郡の秩父神社から勧請されたものであり、北極星や北斗七星の信仰が加はったものといふ。「北」を意味するのが玄武像である。俗に幕末期に流行した眼病に利益ありともいはれた。
 じつは1号古墳(妙見山)よりも大きな古墳が2つ、昭和二十年代まで木之本の東部に存在した。

 浅間山と天神山

 その妙見山より大きかったのが、「浅間山(仙元山)」と「天神山」で、ここには富士浅間神社と天神社が祀られてゐたが、二つが合祀されて大正初年に楡山神社に移転されて末社の天満天神社となってゐる。
 天神山は享和の絵図面でも確認できる。西から短い参道がある。天神社の祭礼は当時から明治のころまで盛んだった記録があり、木之本曲輪の小鎮守のように意識されてゐた。場所は絵図面から推定すれば原郷一九一九番地あたりである。
 享和の絵図面では浅間山の名はない。浅間山の名は、明治維新直後からの富士講が盛んになった時期に、富士浅間神社が祀られたことによる名称である。天神山と同じ山を別の名前で呼ぶようになったのかとも思ったが、そうではなく、隣接して存在した山である。天神山の東の、原郷一九四五番地が浅間山のあった場所である。参道は南へ細長く伸び、この道は今も現存し、今は歯科医院の西の細い市道のことである。
 富士講は明治初期が最盛期で、深谷宿の東入口の常夜燈なども、原郷ほか近隣の富士講中の人たちによって建てられた。当時の富士講は、村々の名主や村役人なども深く関り、多くの民衆が参加して、そのエネルギーは明治二十二年の町村合併以後、大字の鎮守社の建物整備などに向けられていった感がある。
 そうした富士講の時代を経て、浅間山ばかりが知られ、二つまとめて浅間山と呼ぶようになったのかどうか、天神山の名は忘れられていった。
 しかし享和の絵図面には、天神山の東の山の名がない。当時は逆に、二つまとめて天神山と言った可能性もある。
 いづれにせよ、一番大きかった古墳が浅間山だったことは、多くの証言によって明らかである。中にはひょうたん型の山だったとか、前方後円墳のようだったとか言ふ人があるのは、浅間山と天神山が接するように並んでゐたためと思はれる。
 浅間山、天神山、妙見山の3つの大きな古墳が、木之本古墳群の中心に存在したわけである。

 木之本西部の古墳

 木之本の西部、常磐町との境界近くの北通線寄りに現存するオトカ塚(4号墳)には、今も稲荷様が祀られてゐる。享和の絵図面には、崩し字で「於登不加山」と書かれ、「おとふか山」と読める。栃木県足利市にも「おとか山古墳」があり、やはり稲荷様が祀られてゐるが、オトーカは「お稲荷」の音読みであるらしい。
 絵図面には「おとふか山」の南南西、数メートルの場所に小さい塚が描かれてゐる。さらに数十メートル南南西にも二つの塚がある(図版参照)。これらの塚はほぼ円形に描かれる。他に細長い三日月型の土地があり、「てはか」と書かれてゐるのかと思って良く見たら「馬はか」であらう。これは農耕馬の墓であって、古墳ではないのだらう。この付近を最近の教育委員会は「常盤町東部遺跡」と呼んだらしい。
 木之本西部のその塚から真東の方向がY家なのだが、屋敷の東にも小さな塚があり、「三角山」と書かれ、そばに井戸があった。今はどちらもない。
 江戸時代にはこの三角山と井戸のある一画には、地頭所や代官のお触れを掲示する高札場があり、木之本の中心地だったようだ。この井戸が、第一章で述べた木之本の湧き水の元だったかどうかは確証はない。

享和の絵図面の一部。右上と右下に「塚」がある。

 享保の新田開発と木之本古墳

 江戸中期の享保年間の「享保の改革」で新田開発が奨励されたころ、原之郷村でも山林を開発して畑を増やした。そのときの検地帳(中野地頭所の分)が、保存されてゐる。それを見ると、上からの割当てをなんとかこなすだけのような畑の造成であった。関東平野の平地の多くは江戸初期に既にじゅうぶん開発され尽くしてをり、当地でも新田開発の可能な土地はいたって少ないものであった。非常に無理のある政策だったわけである。
 原郷には、愛宕林を除けば、伐採可能な山林はわづかしか存在しなかった。そこで新規開発の畑のうち九割は、一軒一軒の屋敷林の一部を伐採して造成したことになってゐる。その他には一畝(三十坪)前後の狭い山林を数多く畑にしたものがある。この狭い山林とは、古墳のぎりぎりのところまで開墾したものではないかとも思へる。
 しかし屋敷林などは、全くなくなってしまっても生活に困るものであった。冬の季節風除けや、薪などの供給源として欠かせないものである。そこで、表向きは開墾したことにしてお上に届け出て、実際は今まで通り屋敷林のままだったという実例もあった。
(その実例といふのは、三百年後の土地相続に関連して判明した。既に市の市街化区域に制定され、山林なら固定資産税は宅地並みだが、畑なら納税猶予と称し畑を一定年限維持することを条件に税は大幅減額となる。その年限に際して実際は山林であったことに気づいて畑として開墾したといふ例である。その山林は五十年前に伐採したことがあり、三百年を越える大木ばかりだったので、享保以前からの山林だったことは間違ひない。)
 最後に「深谷市埋蔵文化発掘調査報告書」等に見られる「遺跡名」と実際の所在地との対照表を掲げておく。
(2013年11月2日)

一覧表(準備中)
 どうもこの「遺跡名」は、実際の所在を大変わかりにくくしてゐる。「根岸遺跡」の多くは木之本であり、「常盤町東」も木之本、「八日市」とあるは城西の北の蟹原、「宮ヶ谷戸3次」もほとんど原郷地内である。
 「社前」といふ小名は昭和初期の地図には確かに見られるのだが、明治のころ、八日市から東八日市と社前を分割して記載した小名であり、地元ではあまり使はれなかった地名ではないか。同じ時期に原新田を新坪と言ひ換へて記載されたが、これも同様だった。江戸時代は「原新田」で通してゐる。
 発掘された遺跡の多くは、道路や宿舎などの土木工事の際に発見されたものであって、古い集落の中心部分が発掘されることはほとんどない。周辺部分のみの遺跡といふことである。


深谷市教育委員会2009年報告書の木之本付近の遺跡図。
「24」のエリアが「常磐町東遺跡」、右上エリアが「根岸」遺跡。中央の未発掘エリアが木之本集落の中心部。丸付数字は古墳番号、浅・天は浅間山・天神山で、△は三角山。黒丸3つのうち上のものがオトカ塚。