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武州幡羅郡原郷村の歴史 6

六、江戸時代 原之郷村の人口と産業

 江戸時代の原郷村の人口は、家の数でいふと、元禄のころに一六八軒、文化元年(1804)に一一七軒、文政五年(1822)に一〇六軒、天保九年(1838)に八九軒と、減少する一方であった。原郷村は深谷宿に近いこともあり、農業以外の様々の仕事があり、ほとんどが兼業農家だった。それらの人々が農業以外の仕事を専業とするようになって深谷宿などへ移住していったことも多かったようである。あるいは江戸へ出て行った者もあった。明治五年には一二五軒に復したが、その時期は東京の人口は激減した時期であるといふ。

 深谷宿の御伝馬

 五街道の一つ中山道の宿場には、江戸時代初期に御伝馬の制度が敷かれ、幕府の公用で旅をする役人の荷物輸送などのために、各宿場には馬五十匹と人足五十人を常備することが賦課された。深谷宿も同様である。賦課といふのは年貢の賦課と同じような意味である。天保のころの深谷宿と原郷村の石高を比較すると
 深谷宿  二二四石余 五二八軒
 原郷村 一一一二石余  八九軒
 深谷宿は、家数は原郷村の五倍以上あるのに、石高は約五分の一なので、年貢も五分の一で済む。けれど年貢とは別に、五十人五十匹の負担が深谷宿に課せられてゐたわけである。
 深谷宿ではこの五十匹五十人は、実際は深谷宿内の各町内毎に分担された。寛政四年(1792)の深谷宿の文書によると、宿中央の中通り四町で四十一人四十匹。東の稲荷町で七人六匹、西の新田町で四匹、といふ分担である。そして各町では、町内で専門の馬子を雇ふのではなく、周辺の四つの村に業務委託した。その費用は宿ないし町内の負担である。四村からは、その分担割合は、人数馬数ではなく「深谷宿加宿高」として石高で表されてゐる。(原之郷村の実高はこの三一四石を差し引いた六九八石余である)。
 原之郷村 三一四石、
 国済寺村 二六九石余
 西島村  五九七石余
 沖宿村   六一石
 四村の合計一二四二石余となる。五十人五十匹で一二四二石余なので、一人と一匹では、二五石弱になる。稲作の多い専業農家の平均的な石高が一軒一〇石といはれるが、二五石では二倍半の石高になる。一人と一匹が働くと、専業農家の二倍半の現金収入があったと思はれる。しかし馬の飼育には大変な費用がかかる。馬は餌だけでも一匹で人間数人分の穀物を食べるといふ。宿駅間の駄賃の料金表によれば、馬の駄賃は馬子の人足料の二倍かかるので、飼育代もかかるであらう。実所得は二五石ではなく、専業農家並みの一〇石程度といふことなのだらう。
 深谷宿加宿高一二四二石余の内、原之郷村は三一四石なので、全体のほぼ四分の一である。五十人の四分の一では、十二〜三人といふことになるが、実際に原郷村で御伝馬に携はった家は、記録ではもっと多かった。村内の農家の兼業として請け負ふのであるから、農業と御伝馬とで半々くらいの仕事量となれば、人数も二倍必要になる。多い時期で三十軒以上の人が、この仕事のために深谷宿から中山道を荷を背負はせた馬を引いて往復した。
 原郷村の御伝馬役のリーダーは、文化元年(1804)の割当表では、筆頭に名前のある七左衛門であらう。この家は今も「馬喰ん家」と呼ばれることがある。この仕事は一種の公務でもあり。村全体では三一四石と評価される仕事量なので、一つの産業としても村にとっては重要なものとなってゐた。
 御伝馬役兼業農家の中には、その後、専業化して深谷宿へ移住していったものも多かった。人によってはそのほうが気楽な場合もあるだらう。この仕事は、病気になると代理を立てなければならない。慶応三年(1867)の東大沼村の文書によると、深谷宿の男で、延べ百十七人分の代理を依頼した者があり、手間賃五十一貫六百文を支払った。一人一日分の手間賃は四四〇文の計算になる。慶応の頃のこの日当は、あまり高いとはいへない。しかし馬の手当は別であり、本人の馬を使用したなら、馬の手当てはそっくり本人に入る。人足賃より馬の手当のほうが多かったことは既に述べた。慶応のころになると、こうした労働は多くが専業化した人たちの仕事になってゐたようだ。

 助郷(すけごう)の奉仕

 江戸時代には、交通量も増え、宿場の五十人五十匹では不足がちになり、その分を宿場近くの村々からの奉仕でまかなふといふ、助郷(すけごう)の制も敷かれた。助郷は、基本的には税と同様の賦役であり、奉仕である。文化元年の原郷村の割当表によると、平均でおよそ月に一回程度、どの家も一人が出て深谷から熊谷ないし本庄間を一往復した。助郷は農繁期でも割り当てられるとか、割り当ては提供される馬の力量を予想して調整するため絵に描いた通りにはいかないとか、さまざまな問題が出た。
 割当ての数量は、村々へは村の石高に比例して割当てられ、石高割りといった。石高は田園地帯は高く、畑作地帯は低い。石高の低い畑作地帯でも、商品作物が多く現金収入の多い村もあれば、そうでない村もある。村の中でも、家々の石高割りで割り当てられたとの説があるが、どうだらうか。商人や職人の家は田畑を多く持たないので石高が低いが、現金収入は人並みである。したがって原郷村では一律同量負担であったが、そのような村も多からう。一律負担の場合、村役人などの土地持ちの家の負担が相対的に軽くなるが、役人手当を低く押さへれば不平等といふことはない。
 さて、御伝馬も助郷も、幕府の公用での陸上輸送である。それとは別に、民間の交通輸送量も、飛躍的に増えていったので、宿場の賑はひも相当なものだったらしい。陸上を運ぶよりも、中瀬河岸などからの船便のほうが料金が安く、これも繁昌したらしい。
 助郷は、村によっては、村全体の負担を金銭による代納で済ませる村も増えていった。これについては幕府から禁令が出ていたが、何故か通ってしまってゐた。一村がそのようなことをすると、他の大多数の村々の助郷負担が増えるが、増えた分は、組合から逆に金銭が支給されるようになる。金額については、実際の荷物の量や、そのときの天候など、さまざまの要素を考慮するのかどうか、史料はないが、それをめぐるトラブルの実例はあった。
 深谷宿では慶応元年(1865)に助郷は全て金納制に移行した。そして人馬を提供した個人に対して料金を支払うようになったようだ。明治五年(1872)には御伝馬も助郷もともに廃止され、中山道には馬車が走るようになった。
 御伝馬の仕事は、当初は、原郷村にとって重要な産業だった。しかしゆるやかに衰退してゆく産業だった。原郷の人口の減少の意味はそこにもあるのかもしれない。一方、川船などの水上交通で栄えた地域は、急激に栄え、明治時代の鉄道によって急激に衰えて行ったといふ。

 経済性より雇用優先

 御伝馬や助郷の仕事は、馬の背に荷を積んで長い道を人が引いて行くのである。幕府は江戸時代を通じて馬車の使用を認めなかった。大八車でさえ限られた地域内だけのものであった。馬車を認めれば大勢の馬子が職を失ふ。経済的合理性よりも雇用の安定を最優先したのが幕府の政策であった。

 写真は馬車の跡のある中山道原郷並木付近。大正時代頃

 さまざまな職業の兼業農家

 原郷村には、他にもさまざまの職業があった。すべて農家の兼業だったので、記録には残りにくいのだが、明治五(1872)年の『商工職調べ』によると、次のような職業があった。()内は軒数。

 鋳掛職、油絞り、髪結職、馬鍬職(二)、鍬物職、質屋(三)、酒造濁酒(二)、附木屋(二)、桶職(二)、材木屋(四)、差物職、建具職(三)、屋根職(三)、鍛冶職、籠屋職、小間物、穀屋、他の十軒は不明だが、居酒屋が三〜四軒。

 以上の商工職の合計は四十軒になるが、ほかにも、修験(四)、手習塾などの仕事もあり、すべて農家の兼業だった。中世史を専門とする歴史学者によると、日本では農耕民だけでなく意外に商工民が多かったといふが、江戸時代の村の史料を見た限りでは、商工業はほとんど農家の兼業であり、商工民もまた農業を兼業してゐたようなところがある。
 畑には綿がよく栽培され、糸をつむいで機を織るのは、女性たちの仕事だった。養蚕は慶応のころには記録がある。しかし養蚕の実態は、多くの村々では伏せられたような隠し産業のような実態だったらしく、はるかに古くから行はれてゐたのが実情だらう。江戸時代の養蚕は、桑の栽培に始まり、蚕の飼育から、糸を紡いで、機を織り、織物製品として販売するまでの一切を、農家の兼業として行ってゐた。そのほか、農家の藁細工なども当然あった。
 さまざまな職業の人たちの中から、専業化して深谷宿などへ移住していった人も多かった。よくいはれる日本人の器用さといふのは、村々において古くから手内職や手工業などが兼業として広く普及してゐたことによって蓄積されていったものと見るべきである。日本では「ものづくり」である手工業は、村々に起こり、専業化して都市部へ流出した。都市へ出た専業職人は、次の時代には、近代的な工業化によって打撃を蒙るようになっていくのであるが……。

(2013年11月2日)