楡山神社ホームページ 郷土資料

武州幡羅郡原郷村の歴史 7

 七、村の境と道路

 原之郷村の西には榛沢郡西島村があり、この境界は幡羅郡と榛沢郡の郡境でもあった。文政の新編武蔵国風土記に、原郷村の小名に、木之本、根岸、原新田、八日市、薬師堂とあり、薬師堂とは今の城西(じょうにし)のことである。城西の西に接する集落は、今も薬師堂という旧西島村の小名が残ってゐる。薬師堂の名は深谷山瑠璃光寺に由来するものだらう。この郡境は北へ伸び、上敷免村と明戸村の村境でもあるが、そこでも二つの村に同じ名の集落が隣接してゐるらしい。瑠璃光寺のだいぶ南、小字稲荷周囲には「郡分け天神」と呼ばれた天神社があった。稲荷周囲とは今の稲荷神社の北の一帯であり、この天神社は、田谷の高台院前の一つ松の下の天神社が稲荷神社に移転合祀され、その天神社へ合祀されてゐる。  吉田東伍の地名辞書などに、国済寺の梵鐘(康応二年)に「幡羅郡深谷庄」の文字が刻まれたものがあり、「深谷」の一帯が幡羅郡に含まれてゐた時代があったといふ見方もある。唐沢川が郡境だったとの説もある。  明治22年の町村合併で幡羅村と深谷町が成立したとき、原郷村の一部が深谷町へ編入された記録があるが、ほんのごく一部であらう。江戸時代中期には深谷宿は今の深谷商業通りより東に広がってゐた。深谷宿の東の稲荷町は、江戸時代を通じて少しづつ東に広がってゐたようで、寛政のころの文書に、原郷村の土地で旅籠営業は認められないなどのトラブルもあったようだ。  原郷村の南部は国済寺村と接してゐる。中央の国済寺裏あたりから東は中山道が村境である。西は中山道より南側が村境で、中山道南の小字名は南原である。

 楡山神社

伊邪奈美命。延喜式内社。幡羅郡総社。明治五年入間県八大区郷社。大正十二年県社。
旧別当は正徳年中(1711〜16)より瑠璃光寺末の正徳院能泉寺。無住だったが天保八年(1837)に焼失し、後に徳沢家が継承した。修験の東学院(東木家)と大乗院(沢渡家)が補佐した。郷社となって後は、日向村の島田大衛、代村の里見延義、官幣中社金鑚神社宮司堀越弥三郎らが代々兼務し、明治二十四年より柳瀬彦作が社司となった。

根岸観音堂(会議所そば)
原新田阿弥陀堂(旧大雷神社そば)
木之本地蔵尊(妙見山南西の北通線南)
八日市大日堂
京法院
御嶽山供養塔

 原郷地域には寺はなく、おほむね瑠璃光寺と国済寺の檀家が多い。
 深谷山

瑠璃光寺

 深谷市稲荷町北薬師堂
本尊釈迦如来。大同二年(807)、あるいは承和二年(835)、慈覚大師の開山。天台宗。旧西島村。
 

国済寺

 深谷市国済寺
臨済宗南禅寺派。関東管領上杉憲顕がこの地に館を構え、康応二年(1390)にこの寺を創建。

(2013年11月2日 未完)


 江戸時代の 原郷村明細書上帳 より抜粋

武州幡羅郡原之郷村
一 江戸日本橋まで凡そ十九里
一 東は東方村  西は西嶋村
  南は国済寺村 北は明戸村
一 東西 九百十一間
  南北 九百間
一 田方 十八町歩 
  畑方 百十九町六反歩 

一 元禄十一年寅九月より三給
三七三石四斗六升九合   伊奈半右衛門代官所
 内三一四石 深谷宿出作
 残五九石四斗六升九合
     名主 仙太郎      家数 八軒
三六九石六斗九升六合三勺 中野三郎知行所
     名主 (柳瀬)彦右衛門  家数五〇軒
三六九石六斗九升六合三勺 内藤主馬知行所
     名主 (大沢)和三郎   家数四八軒
〆一一一二石八斗六升一合六勺 〆家数一〇六軒
(代官地頭名は天保期、家数は文政期)