神棚の祭

御不幸が生じたとき(忌中について)


 A 現代の忌中の考へ方


 家族や近しい身内などが亡くなったときは、しばらくの期間は、亡くなった人の霊をまつること(供養)に専念し、神さまへのお参りは遠慮し、その他の禁忌を守って慎ましい生活をします。それは世界のどの民族にもある慣習のようです。
 特別の悲しみの期間であり、悲しみから抜け出すための期間でもあります。そして慎ましい生活の中で、先祖から代々受け継がねばならない大事なものをしっかり受けとめなければならない期間でもあります。
 この期間は、50日ないし49日とするのが日本では一般的です。この期間を忌中ともいひます。
 自宅の神棚には、半紙を注連縄の位置あたりから縦長に垂れるように、半紙の上端を貼り付けます。これは、御不幸が神さまに及ばないようにするためで、神棚の祭もしばらくは中止します。また神社の参拝も遠慮することが多いようで、お祝行事への出席も同様です。

 場合によっては地域行事などへの参加も遠慮することがありますが、しかしそれは地域社会からの喪家の負担を減らす配慮であり、周囲のお世話になるといふことですから、自分だけで長い期間を決めるべきではありません。
 今でも漁師たちは不幸があった7日後には海に出て、船の神である船玉様(ふなだまさま)を祭る例があります。ただし神社への参拝は49日過ぎです。7日程度の有給休暇を認める企業もあるようで、古い商店などで7日間を休業する例もあります。現代では7日間の休職は不可能な場合が多いようですが、より深い慎みの期間として参考とすべき日数ではあります。

 50日の期間中に、大神宮さまや鎮守さまのおふだが配布されたときは、袋や紙に包まれたまま、神棚の脇に安置しておき、50日が過ぎてから神棚に祭ります。御不幸だからと、おふだを断った場合は、50日が過ぎてから神社などに出かけておふだを受けることになりますが、そのような組織体制が整ってゐる神社はごく小数しかありませんので、地域で一般配布になったときに受けておくのが良いわけです。大神宮さまを始めおふだは1年間お世話になるものですから、たまたま配られた日が忌中の期間だからといって1年間祭らなくても良いといふものではありません。

 50日が過ぎると、「忌明(いみあ)け」といひ、神棚をはじめ、神さまの祭りや参拝を再開します。それでも数ヶ月ないし1年間ほどは何らかの慎ましい生活を心がけるもので、これを喪中ともいひます。墓碑などを立てるのは一年後とする地域も多く、遺産処分や派手な遊行はなるべく避けるべきです。
 近年12月になると「喪中につき年末年始の御挨拶を御遠慮……」といふ葉書をよく見かけますが、これはごく最近の流行ですので、真似する必要はありません。(※注)

 忌中の期間50日が一般的であると述べましたが、家族でない親類などは短い期間とします。その期間は、血縁の遠くなるに従って短くなり、一親等を50日として親等が1つ増えるごとに期間をほぼ半減するのが一般的です。つまり2親等の祖父母・兄弟のとき1/2、3親等の伯父叔母のとき1/4、などとなりますが、同居家族の祖父母兄弟の場合に限っては全て50日とします。

 原則として50日間は神社にお参りできないからといって、神職の家にも近づけないわけではありません。相談事などについて気軽に尋ねて良いのです。
 50日以内にやむをえない理由で遠出せねばならないときやその他のことで、安全祈願を神社で行なふ場合があります。これは神社参拝になりますが、その鎮守様での決りに従ってお参りすることになります。

 いはゆる喪中葉書は近年のものですが、ある程度慣習となりつつあるのも事実です。その際、何親等までの範囲の不幸の場合に出すべきか、と迷ふ人が少なくありません。兄弟が亡くなったといっても葉書を受け取る相手がその兄弟を知らないのでは余計な心配をかけてしまふからです。年賀状そのものが単なる儀礼となって縁遠い人にまで出すようになった現在、そういった人たちにまで喪中はがきを出すべきなのかといふ問題もあります。
 そのようなときの一つの目安として、「忌中の期間が50日のとき喪中の期間は1年」といふ昔の決まりが参考になると思ひます。年賀状は1年1回のものですから、喪中が1年のとき、つまり家族や親子だけのときに、喪中ハガキを出すといふものです。そのようにしてゐる人も少なくありません。
 出す相手の範囲についても、家族が亡くなったことを喪中葉書で初めて知ることになるような相手には出すべきではないといふ考へもあります。
 出さない場合には、1月のなかばごろになって寒中見舞の葉書を出して、年賀状を出さなかった理由と非礼のお詫びを書くといった人もあるようです。


時代の忌中とケガレの問題


 B 忌中の古い時代の考へ方


「7日間の休業」の例を述べましたが、昔は7日ほどはすべての外出を取りやめにして自宅に引き籠もることが普通だったようです。身分によっては更にその期間が長く、昔の京都のお公家(くげ)さんなどは一年間も公務を謹慎したといひます。
 喪に服する者が7歳以下の子どもの場合、今でも期間を短くする例が見られます。また7歳以下の子どもが亡くなった場合も、周囲の忌中の期間は短く、五十日(四十九日)までしか祭(供養)は行ないませんでした。「7歳までは神のうち」と言ひ、充分この世の人間になりきってゐない幼児は、長い期間の祭は行はないほうが、早く別のものに生まれ変はれることができるのだ、といふ考へ方です。
 家族なら一親等以外でも皆50日の期間とすることについてですが、これは、不幸(死の穢れ)が一定の範囲に伝染するといふ古い考へ方によるものといへます。自宅に謹慎するのは穢れを伝染させないためで、また赤の他人でも死の場に立ち会ったりその家を訪れたりすることによって忌中の身とされたようです。逆に家族の身でも死に立ち会はなければ謹慎期間はなかったといひます。

 C 穢れの問題


 「死は(けが)れである」といひますが、では、穢れとは何かといふことについては、なかなか難しい問題です。
 穢れは災ひに似たものではありますが、伝染し、また持続的でもあり、一定期間を経ての自然消滅を待つしかないようなところもあります。
 ケガレの語源を「気枯れ」とする説があります。魂の衰へた危険な状態の意味といひます。
 あるいは神の神聖性を強調するための対極概念のようなもの。忌むべき対象、聖別すべき対象として観念されたもののようでもあります。
 俗に白不浄、黒不浄、赤不浄の三つがあるといひます。赤不浄は女性の生理のことですが、古事記の宮簀姫の話ではそれは不浄とはされず、後世の血を忌むといふ意識から出たもののようです。初潮のとき赤飯を炊いて祝ふ風習には、不浄の意識はありません。民俗学では「神の嫁」であるしるしとして喜ぶべきものとされてきたといひます。
 出生(出産)のときの穢れといふのもあります。出産のときの血を忌んだからとの説明もありますが、古い意味はそうではないようです。出産の前後に一定期間、母子が神を避ける習慣が全国的にありました。神から授かった子であることへの感謝とともに、未だ充分こちらの人間になりきってゐないことから、いつでも再び神々の世界へ帰ってしまひかねないとの意識があったため、神に近づくことを避けたようです。
 に際しても人はこの世への未練を残さずに旅立たねばなりません。旅立つ人も送る人も未練の残ってゐる期間が、神を避ける期間に相当してゐるわけです。
 生とは幸であり死とは不幸である、という一方的な考へ方に支配されない時代では、人のからだにその霊魂が付くときと離れるときに、なかなか付かない、なかなか行く先が見つからない状態の期間があり、これをケガレと呼ぶなら、ケガレとは「気離れ」のことだと言へます。魂が遊離してしまっている状態のことです。ケガレを除くために行ふ物忌とは、まさに魂が安定して着くようにするための鎮魂のことであったわけです。