楡山神社概要

  (大正七年)

緒言

 我楡山神社は、旧武蔵国幡羅郡の総鎮守なり。古へは、数多の御神領と氏子とを有せられしかど、時代の変遷と共に専属の社家を失ひ、御領地悉く散逸し、更に別当職家の火災によりて、古記録什器殆ど亡失したり。近世天台宗寺僧の監修に委し、からうじて其跡影を留めたるに過ぎざりき。偶々維新の王政復古成り、祭政一致の盛事に際会するや、明治五年時の地方官憲をして深く探らしむる所あり。郷社定則の規制に拠りて、幡羅、榛沢、大里、男衾四郡の郷社(※)と定められ、即ち郷邑の総氏神たるの資格を付与せられたることは、神社明細帳に明記する所なり。当時郷内自余の神社は、凡て付属社として当社の配下に属したり。然るに此の栄典は幾許もなくして中止せらるるの状態を現出し来りしは、各部落鎮守は随意に独立、村社又は無格社の申立てを成せるが故に、総鎮守と村鎮守との氏子関係を区別するが如き偏重を呈し、明治十二年以後公簿に於て全く区分せらるるに至りしを以てなり。之れ実に遺憾とする所にして、又恐懼に堪へざる所なり。今や大正維新の光華は、燦として敬神思想の勃興を促し、神社史の研究又大に観るべきあり。
※入間県八大区郷社のこと。八大区には正確には旧男衾郡は含まれず、荒川以北、利根川以南のことだった。
 されば当社も、時代の進運にともなひ、近く旧記伝説を尋ね、先づ一社の相伝たりし年越祭を再興したり。然るに古来の御広徳は忽ちにして復古し、講社の結集に応ずるもの四百講、之れが、崇敬者たる講員約四千人に上るを得たり。又最近に至り、御大典記念事業として奉賛会を設置するや、是又一両年の短時日に於て、入会義納金を奉納し来るもの七百余人の多数に及べり。其他各般に亘る神社経営の事業皆克く軌範を垂れつつあるなり。又以て本社歴史上の一進化たると同時に、敬神観念に富める氏子崇敬者の帰嚮せる反映と云はざるべからず。此に於て当社は、神社の現在を記述して、大方に頒ち、其労に酬いんとするや切なり。而も史料に乏しきは前段述べたるが如し。依て近時収蒐し得たる二三の史料に拠りて概説を試み、、他日学者の考覈を待たんと欲す。
 大正七年五月
                       社司  柳瀬禎治 識

御祭神

 当社は伊邪那美命を奉斎す

御創立と鎮座地

 当社の御創立は、旧社家廃滅して社記・社伝等悉く散逸し、是を知るに由なしと雖ども、口碑には人皇五代孝昭天皇の御宇御鎮座なりと伝ふ。当社社伝を根拠として書きしと云へる「武乾記」(安永元年、榛沢郡岡部領大塚村、根岸伊兵衛編纂、武蔵西北部の史実を蒐めたる著書)に依れば、往古幡羅太郎道宗の再興する所にして、其以前のこと詳らかならず云々と記せり。幡羅太郎は其の父を宗道と称し、騎西郡司なり。宗道の父を忠基と云ひ、武蔵守に任ず。忠基の父を右将軍義孝と云ふ。義孝の父を太政大臣藤原伊尹なりと云へる記事、「鎌倉武鑑」に見ゆ。御神域の西南部のに方りて古城跡(今は民有宅地)あり。併せ考ふべし。
 御鎮座地は、埼玉県大里郡幡羅村大字原郷字八日市なり。こは、「大日本史」神祗志、神社覈録 「新編武蔵風土記」北武蔵名跡志武蔵国四十四座道法命附等之を記せり。「埼玉県神社明細帳]に依れば、「当地を古へ幡羅郷と云ひしを、近世漢字を転用して原郷と改めしと口碑に伝ふ云々」と云へり。蓋し「和名鈔」郡郷部 に載する、武蔵国八郷の中の幡羅なるべし。御鎮座地は幡羅郡の西南端に位し、御社殿の構造東北に面し給へること一郡を守護し給へる御造営沿革なりとの伝もあり。
 杜の下に一小流あり、城北川と云ふ。其の沿岸古へ利根川流域の一部をなし、舟楫往来の地なりしを想はるるは、この地今尚権現堂河岸の古称を存せり。この川の北岸を字鳥居ヶ谷戸と云ふ。耕地を開鑿するときは地下に古代祭器多く埋没しあれば、古へ神域の一部なりしなるべし。周囲の地名、西部を城西と称し、前方を社前又は権現前と云ふ。

御社名の起源

 御社名の起りは、本県「神社明細帳」に載せるが如く、御鎮座当時より御神域一帯に楡樹多かりしより、尊称し奉りたること論なきなり。楡山は、爾礼夜萬と訓むべきこと「覈録」に見ゆ。植物学より云へば、最も古く本邦に繁殖せる樹木にして、欅、椋等の部類は凡て楡科の植物なりと云ふ。近県に此の樹木至って少なく、日光山と秩父山に生存せる外は余り多く見受くることなしと。然るに、当御神域並びに其の周囲の地には、古来楡樹多く繁茂し、今尚住宅の用材器具等に使用せられ、維新の際乱伐せられしも未だ多く存せり。
 御神木と称し、往古より保護せられ来りし古楡一本あり。目通一丈余を廻らし、樹齢実に一千年以上を閲すべし。
 御社名を中興幡羅大神、又は熊野三社大権現と称せしことあり。一は幡羅郡の総鎮守にして、往古幡羅太郎の再興なりと云へる社伝ありしに依り、一は旧社家の没落と共に天台宗寺院の管理する所となりしより、所謂熊野崇拝時代よりの尊称なるべしと云ふ。

御社格

 当社は、「延喜式」神名帳 に武蔵国幡羅郡四座並に楡山神社と出でたる古社にして、旧来幡羅郡總社と云ひ、「神社明細帳」にも然か記し、又境内に保存する古き石の社号にも、「武蔵国幡羅郡總社延喜式内楡山神社」と彫めり。されば幡羅郡總鎮守とも云へり。「大日本神祗志」「新編武蔵風土記」「武乾記」等、皆之を記す。明治五年、旧入間県に於いて幡羅、榛沢、大里、男衾四郡の郷社に制定せられしこと「明細帳」に明記せり。

祭神の御事歴

 御祭神、伊邪那美命は、夫(セ)の神伊邪那岐命と共に力をアハセテ、この国土を修理固成し給ひ、大八州国を経営したまひて、山川草木を始めあらゆるものを掌り給ふ神々を生み給ひ、又皇室の御先祖にます天照大御神を始めまつり、月読命、素盞鳴命を生まし給ふ。実に我国家肇造の元首に存しますことは、神典のよく伝ふる所なり。国土経営に大勲徳を垂れ給ひて、晩年に及び、愛子火産霊神(ホムスビノカミ)(迦具土神(カグツチノカミ))を生み給ふによりて、御陰焦かれて神避り給ひしこと、是また記紀の伝ふるところなるが、『延喜式』に載する『鎮火祭の祝詞』の伝に依れば、「神伊佐奈岐、伊佐奈美之命、妹背二柱嫁継ぎ給ひて、 国の八十国島の八十島を生給ひ、八百万の神等を生給ひて、麻奈弟子(マナオトコ)(可愛ゆき末子の義)に火産霊神を生給ひて、美保止焼かえて石隠りまして、夜は七夜、昼は七日、吾をな見給ひそ吾がな背の命と申給ひて、此の七日には足らずて隠坐事奇しとてみそなはす時に、火を生み給ひて御保止焼かえましき。かかるときに、吾がな背の命の吾を見給ふなと申を、吾を見あたはし給ひつと申給ひて、吾がな背の命は上津国を知し食すべし、吾は下津国を知し食さんと申して、石隠り給ひて、黄泉つひら坂に至りまして、思ほしめさく、吾がな背の命の知し食す上津国に、心悪しき子を生み置きて来ぬと宣ひて、返坐して更に子を生み給ふ、水神、匏、川菜、埴山姫、四種の物を生み給ひて、この心悪しき子の心荒びそば、水神、匏、埴山姫、川菜を持ちて鎮め奉れと事教へ悟し給ひき云々」と見えたり。鎮火の御事蹟と関係深かりしこと申すもかしこし。
 当社摂社に愛宕神社あり(祭神火産霊神、即ち迦具土神に坐す)。年中行事に鎮火祭を行なふこと又故なきにあらず。

武門の崇敬

 当社と武家との交渉は、「武乾記」に其の由を詳記せり。曰く「原郷村は往古幡羅太郎道宗と云ひし武士の住せし所なり 太郎道宗は成田玉井別府奈良等の先祖なるべし 熊野大神は伊弉岐伊弉波尊合社也 楡山大神幡羅大神とも称せしなり 延喜式神名帳にも載する所なり 社内に楡の樹大木多く繁茂し実に古代の大社なるべし 今幡羅郡の總鎮守なり
 社伝の伝へに依れば往古幡羅太郎再興せしと云ふ 其以前のことは詳らかならずと云ふ
 古は社家もありしが絶家したり 総て当社の北に神田数十町もありが今は少なくあるべし 康平年間源義家奥州征伐の時成田大夫助高供奉当社に立寄戦勝を祈願し奉ると云 従って其の後も幡羅太郎の末孫度々の御信願ありしと云ふ 社伝の伝ふる所を記し置く 云々」と載せ、
 「鎌倉武鑑」には「成田助忠が祖師輔公は九条の右左相と称して賢者の聞えあり 其子太政大臣伊尹公は源徳公と謐す 其の子右少将義孝 義孝の子を忠基と云ふ 武蔵守になりて東国へ下向す 忠基任国の一子をもうく 宗道と云ふ 是れよりして武蔵に存宗道は騎西の郡司と云ふ 其の孫道宗は幡羅太郎と号す 助忠が祖父助高は成田大夫と云ふ 云々」と記せるに考ふれば、古来幡羅郡の総鎮守の関係より、代々成田家の崇敬したること明かなりとす。現今の社務所は元と別当東学院を修造したるものにして、屋根瓦等に  の成田家家紋を存せるを見るも、其の事蹟の一般を知るを得べし。

氏子区域の変遷

 当社は、武蔵国幡羅郡の総鎮守なりしことは、諸書に見ゆる所の如し。明治五年、郷社定則の制に依り、当時入間県第八大区(三町百七ヵ村)の産土神と定め、郷社に別格せられ、区内自余の神社は凡て当社の付属として、部落鎮守の氏子と当郷社の氏子とは、共に
同一義務を負ひ来りしが、爾来各部落神社はいつしか村社無格社申立てをなし独立することとなりしより、更に明治十二年、神社明細帳の制定となり、現在の区域・大字原郷のみに限定せらるることとなれるは、神社の面目上極めて遺憾とする所なり。

年中行事

 歳旦祭、    一月 一日(中) ※※戦後は中絶
○元始祭、    一月 三日(中)
○年越祭、    節分当日 (中)
○祈年祭、    二月十九日(大) ※戦後は3月3日
 紀元節祭、   二月十一日(中) ※※
 風神祭、    二月十一日(小) ※※
○鎮火祭、    三月 三日(小)
 春季皇霊祭遥拝 三月春分の日(式)※※
 神武天皇遥拝、 四月 三日(式) ※※
○愛宕祭     四月 三日(中) ※戦後は4月15日
○末社八阪祭、  七月二十日(小) ※戦後は7月28日
○疫神斎、    七月中良日(小) ※戦後は7月28日
○道饗祭     七月中良日(小) ※戦後は7月28日
 明治天皇祭遥拝 七月三十日(式) ※※
 天長節祭、   八月三十一日(中)※※
 秋季皇霊祭遥拝 九月秋分の日(式)※※
 神嘗祭遥拝、  十月十七日(式) ※※
○例祭、    十一月 一日(大) ※戦後は10月20日
 新嘗祭、   十一月二十四日(大)※※
○大祓、    十二月三十一日(式)
 月次祭、    毎月一日(小)  ※※

 右の中、最も盛況を極むるは、毎年節分の日行はるる年越祭なりとす。徳川時代には権現様の豆蒔など称せられ、盛大なりと云ひしが、中絶し居たるを現今再興したるものなり。当日は福迎の神事ありて、構社員の参拝を始め、境内に群集する賽客実に数万を以て数ふべし。

御社殿と工作物

○御本殿 春日型 総彫縋唐羽風 向拝付き、欅桧楡材、屋根銅板葺き、間口六尺、奥行
十一尺、造営不祥。但し明治以前は屋根桧皮葺きにして千木と鰹木を戴き、向拝柱其の他に葵の紋金具を付せりと云ふ。
○御拝殿 入母屋造 杉欅材 屋根瓦葺き 間口六間 奥行三間半 明治四十三年御再建 但し御用材は明治初年旧入間県第八大区三町百七ヵ村中の寄進なり。
○透塀 杉材 屋根瓦葺き 梁間三尺 延長二十二間 御造営同上。
○渡殿 杉材 屋根唐羽風鉄板葺き 左右勾欄付き 梁間七尺 桁行十八尺 大正三年造営。
○左右神門 入母屋造 杉欅材 屋根瓦葺き 間口二間半 奥行一間二尺 明治五年修造
○社務所 方形造 起羽風玄関付き 杉材 屋根瓦葺き 間口六間二尺 奥行四間 明治十年修造 但し元別当東学院御堂を改修したるものなり
○手水舎 左右切妻造 杉材 屋根瓦葺き 間口六尺 奥行五尺 明治三十四年建築
○参集所 左右切妻造 杉材 屋根瓦葺き 間口四間二尺 奥行三間 大正元年建築
○籏竿置場 杉材 屋根瓦葺き 梁間三尺 延長八間 元治元年建築
○鳥居 欅材明神形一基、杉材明神形一基、欅材稲荷形一基、同材稲荷形一基。
○石灯篭 小松石神前形一対、花崗岩春日形一対、小松石神前形一対。
○手水石碓氷真石一、小松石長方形一。
○旗竿 神山石一対、花崗岩一対。
○社号標 石材二基。

摂末社と合祀移転

(本文略、別表参照)

別表・摂末社と合祀移転   (大正元年年八月三十一日 移転・合祀す)

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|末社名(現)|御祭神     |旧神社名   |旧所在地(小字)       |
+----------+----------------+--------------+------------------------------+
|八阪神社 |須佐之男命   |八坂神社   |根岸             |
|伊奈利神社|豊受毘売命   |伊奈利神社  |木之本、天神社の境内社    |
|     |        |富士守稲荷神社|木之本、富士浅間神社の境内社 |
|     |        |伊奈利神社  |中原             |
|     |大地主命    |地神社    |城西、手長神社の境内社    |
|     |埴山毘ロ羊命   | 〃     |               |
|天満天神社|菅原道真公   |天満天神社  |木之本            |
|     |        |天満天神社  |根岸、荒神社の境内社     |
|     |市杵島毘売命  |市杵島神社  |根岸             |
|     |木花佐久夜毘ロ羊命|富士浅間神社 |木之本            |
|     |岩長比売命   |小御嶽神社  |木之本、富士浅間神社の境内社 |
|手長神社 |天手長男命   |手長神社   |木之本、天満天神社の境内社  |
|     |        |手長神社   |根岸、荒神社の境内社     |
|     |        |手長神社   |新坪、大雷神社の境内社    |
|     |        |手長神社   |城西             |
|大物主神社|三輪大物主命  |大物主神社  |東原             |
|     |        |金刀比羅神社 |(従来郷社の境内社)     |
|     |少彦名命    |怡母神社   |(従来郷社の境内社)     |
|塞神社  |久那戸神    |塞神社    |木之本、富士浅間神社の境内社 |
|     |八衢比古神   |道祖神社   |中原、伊那利神社の境内社   |
|     |八衢毘ロ羊神   | 〃     |               |
|知々夫神社|八意思兼神   |知々夫神社  |根岸             |
|     |知々夫彦命   | 〃     |               |
|荒神社  |火産霊命    |荒神社    | 根岸より境内神社の諏訪神社と|
|     |奥津比古命   | 〃     | 春日神社を合祀の上、移転  |
|     |奥津比売命   | 〃     |               |
|     |御穂須々美命  |諏訪神社   |               |
|     |天津児屋根命  |春日神社   |               |
|     |斎主命     | 〃     |               |
|     |武甕槌     | 〃     |               |
|     |比売命     | 〃     |               |
|大雷神社 |大雷神     |大雷神社   |新坪(原新田)        |
|     |伊邪那岐命   |三峯神社   |根岸             |
|     |伊邪那美命   | 〃     |               |
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 当社境外字木之本摂社・愛宕神社(火産霊命)あり。旧来の社殿本社と構造同一型なりしが、炎上になり、現今入母屋造に改む。

参考 明治時代の各末社の配置

楡山神社 (八日市)       金刀比羅神社、怡母神社
愛宕神社 (木之本)  
富士浅間神社(木之本 浅間山古墳)小御嶽神社 富士守稲荷神社 塞神社
天満天神社(木之本 浅間山古墳) 伊奈利神社 手長神社
知々夫神社(根岸 妙見山古墳)
三峯神社 (根岸)
荒神社  (根岸)        諏訪神社 春日神社 天満天神社 手長神社
市杵島神社(根岸)
八坂神社 (根岸)
大雷神社 (新坪)        手長神社  
大物主神社(東原)
伊奈利神社(中原)        道祖神社
手長神社 (城西)        地神社

宝物と貴重品

○神鏡一、青銅径一尺一寸一分 鋳文天下一田中伊賀守藤原吉次作
◎岩笛一、海産天然石 長円形 淡黒色 囲一尺五寸 長一尺一寸 重量一貫五百匁
◎岩鈴一、天然焼石 囲一尺七寸 重量六百匁
○神鏡一、青銅 径一尺 鋳文津田薩摩守家長作
○短刀一、粟田口藤四郎国清作
○短刀一、安成二年陽幕下士細川源正作
◎鳥居扁額一、楡材 縦三尺二寸 横一尺八寸 佐々木文山筆 熊野三社大権現と記す
○古代祭器数個、字鳥居ヶ谷戸地下より発掘品
◎雅楽器三管三皷、金色巻絵及金具に葵の紋を付す
○明治三十七八年戦利兵器 同四十年寺内陸軍大臣より奉納、十五珊弾丸一、六珊半弾丸一、連発歩兵銃一
○方匙一、片鶴嘴一、同奉納記一巻
◎幣帛供進使祝詞十数通
  ※○印は現在不明

神社の経営事業と氏子崇敬者の敬神事蹟の一般

其の一 御神苑の設置

 当社は、現境内地に南接する所有地・四百八十八坪を神苑地となせり。設計指導者は、村内美術家・江森天壽画伯なり。献木者は氏子及び崇敬者にして、其の数二百六十五人に及ぶ。樹木は他日加工せずして天然の風致を保つべき種類を選み、奉納者の氏名は献木台帳に載せ、永久神社に保存することとせり。

其の二 社老の嘱託

 当社は氏子崇敬者中、神社経営上とくに功績ある者に対し、氏子総代会の決議を経て、社老を嘱託するの制を定めたり。社老は、所謂氏子の元老を意味し、神社の重要事務に意見を求むる事、及び御祭事等の場合に相当の待遇を為すものにして、現今五名の嘱託者あり。

其の三 斎女の奉仕

 当社は、敬神尊祖の精神を普及し、国民道徳の培養に資するの趣旨に基づき、斎女奉仕の制を設けたり。其の方法は、氏子崇敬者中、品行方正の少女(年齢十二三歳位、月経時に至らざるもの)を以て、祭式作法を練習せしめ、大祭の当日、祭員の助員として供饌の手長を奉仕せしむるにあり。服装は白衣、緋裳、洗髪とし、斎戒正規の如し。現今奉仕者六名あり。神社は左の趣旨に依り誘導を怠らず。

斎女奉仕の趣旨

 女子が祭祀を奉仕する事は、古来歴史上の事実である。昔は女子が神に仕奉りしものが極めて多かったにも拘らず、今は巫子を除くの外は絶えてないようになったのは、誠に遺憾のことである。中世異教を信ずるもの多く、彼の女は三界に家なしとか、女は穢れもの
だとかいひ触らし、女子又深く之を迷信し、自ら神仏に遠ざかる様になったのである。然るに我が皇国の古風は、決して女を卑しむるが如きことはない。男女を問はず国家に偉勲ありしものは、多く神社の御祭神として祀られてをるのみならず、祭祀奉仕の上に観るも、かの伊勢の斎宮、加茂の斎院を始めて、諸社其の例少なくない。貞観年中には国法を以て女子を禰宜に採用した事実さへあるといふて居る。
 斎宮の起こりは、皇女豊鍬入姫命より始まり、人皇五代崇神天皇の朝より代々継続しつつありしが、醍醐の朝以後、戦乱の為め中絶したるは惜しむべきことである。式の祝詞にも、大御巫の辞竟奉る皇神云々と書かれ、神祗官八神殿に仕へ奉る「ミコ」即ち若き女の神事に堪能なるものを以て充てたる如く。又古事記岩屋戸の段に天宇受売命が大御神の大御心の和楽に為に仕へ奉りしなど。藤原氏が祖神春日神社を祀るに 其の息女をイツキメ斎女として奉仕せしめたることなど、数へ来ればなかなかに多く、現今に於いても、宮中大奥には凡て女官を奉仕せしむる制を存せられ、宮中祭指令の附式に依れば、賢所御親祭又は例年の新嘗祭などには、女官の神饌行立の御儀などありて、供御の御饌は大概女官仕へ奉ると聞く。現つ御神即ち雲上の御行事既に然り。況んや、皇室国家の御藩屏とも申し奉るべき神社にありては、深く思をここに致し、万事宮中の御行事に倣ひ奉るべきこそ、至当のことと思ふ。宮中に於ける掌典部の職員が、やがて一般神社の神官神職であるならば、宮中に於いて奉仕する女官と同じ意味に於いて各神社に斎女奉仕せしめて差支なきのみならず、むしろ進んでは一社の祭主たるべき資格を付与し得ざる場合ありとも、せめて
祭員として奉仕し得る制度を設くべきものありと思ふのである。
 平田先生は、祭は待つ(奉侍)である、月待ち日待ちといふが如く招待の意であるといはれ、所謂一年に一回仕奉大御祭には、氏子等が心尽くしの饌物を捧げて神明を御饗応申上ぐるならば、そが、氏子等の子女をして誠意御歓待申し上ぐることの理義に適するのみならず、国民道徳の涵養上、極めて有効の事となるのである。事態は既に上古に於いて然り、況んや、王政復古の今日、之を研究し考覈し、建国の美風を保存すべきことと思ふのである。
 斎女の奉仕は、叙上の事由によりて設くるのである。幾千年来国家彜倫の表徴所として、専ら奉公の誠意を捧げ来りし産土神である故に、何れの里々にも必ず御祭事掛の年番又は幹事などありて、年々氏子中より抽籖を以て定まり、四時の祭事懈怠なく継続執行せられてをる。斯の如き国風、即ちこの終始一貫したる敬神的国民の志想が陋として抜くべからざる先天的信念を以て皇基を護り強国にするのであるならば、畏き御代の弥栄えに栄え行くまにまに愈々普及せねばならず、又個人としては、済家の標準とせねばならぬと信ずるのである。

其の四 軍人会と青年団との連絡

 当社は、参集所を以て軍人会と青年団の集会すべき事務所に充てつつあり。御祭事の場合又は農休日等には、ここに集合するを常とせるを以て、知らず識らず尊き神祗観念を涵養し、秩序を整へ、本末を明らかにするの良風を訓致せり。又通俗文庫等の設備ありて青年の修養に資せり。殊に軍人会にありては、班旗の制定、其の他会の重要事件は必ず之を神明に報告し、入営帰郷報告祭等、普通行はるる事業以外に、当社御神苑内に氏子内戦病
死者招魂祠を建てて、春秋二期皇霊祭当日を期し招魂祭を営みつつあり。そが式の次第等に至りては、大概靖国神社の制度に準じ、軍人会の役員は、恰も氏子総代の心を以て奉仕し居れり。
 又当社に於いて、近く許可を得たる国有林境内編入の土地に対し、之と民有林との境界に火防設備の築堤を為さんとするに当たり、両団体員は、共同動作を以て之が労役を寄進せられたるの美挙あり。

其の五 勤倹組合の設置

 本組合は当社を中心として起こり、其の組織は氏子崇敬者中の有志を以てせり。名称は楡山勤倹労働貯金組合と称し、事務所を参集所内に置く。設立の動機は、明治四十三年当社御拝殿再建に際し、工事中未曽有の大洪水の惨害に遭遇し、工事を中止するの状態にありしが、至誠なる氏子等は、日常の家計を節約しても建築を遂行せんことを欲し、企画数日ならずして、会員百五十名以上を有する精神的団体を見るに至りしなり。規約の実行は之を神明に誓ひ、貯金の通帳は組合員たる社司是を保管し、家計上有為の資に充つるの方法を執れり。現時之より生ずる効果は決して少なしとせず、既往十ヵ年に於ける氏子等、経済状態も亦漸次向上の域にあり。

其の六 初穂組合の設定

 明治四十二年、 大里郡役所にては、 敬神尊祖の精神を涵養し、神社維持保存上欠くべからざる基本財産の蓄積に至便を与ふる方策として、郡内神社に初穂組合を設置せるを唱
導せられしが、当社は直ちにこの挙に応じて、設立以来毎年度予定の献穀及び積立を続行し居れり。

其の七 郡費補助の請願

 当社は、本郡内四郷社と共に、大正四年一月大里郡会に対し郡費補助の請願をしたり。四年度は延期せられ五年度より一社金三十円宛基本金積立の内へ交付せらるることとなれり。由来本県に於いては、一町村一社限りの町村を除くの外は、地方団体より幣饌料以外に神社費を供進せられし例なく、全く本郡を以て嚆矢となす。当該郡長・島崎広太郎氏、並に郡会議長・小池甲子次郎氏外郡会議員、及び現郡長・市川春太郎氏、持田議長等、諸氏の労を多とするものなり。

其の八 国有林境内編入

 当社境内地の後方、社殿を離るること僅かに数間、国有林二反六畝あり。この地、もと地頭中野氏の所領たりしが、維新の際、中野氏は離散して行方不明となりしより、其侭上地処分を受くるに至りし土地なりき。当社の為には実に必要欠くべからざる山林にして、万一にも民有林となる場合には全く境内地の林相を破壊せらるる処ある重要の箇所なりしに依り、神社に於いては極力境内編入の儀を唱へ、明治四十三年、御拝殿再建に際し、地種の組み替へを其の筋に出願したり。(中略)大正六年十一月二十二日附指令、学収第一二〇一号の一三を以て目出度く神社に無償編入の指令を得たり、之時代の進運にともなひ国史現存の古社を保存せしむるの処置なりしこと論なけれども、(後略)

其の九 奉賛会の設置

 当社は、御即位大礼奉祝記念として、神社の基本財産を佐ける趣旨を以て、奉賛会を組織せり。会員は氏子崇敬者にして、其の勧誘区域は旧氏子関係なる郡内四町二十一ヶ村に及び、其の筋の許可を得たり。勧募員は氏子総代と社老、其の任に当たり、氏子内は当年番幹事に募集委員を委嘱し、爾来各年度の徴収は年番幹事の事業として決議実行しつつあり。成績極めて良好にして、着手後二ヵ年に応募したる会員数左の如し。
 町村数 四、  大字数 二一
 永代会員(五〇円以上)  一二
 名誉会員(二〇円以上)  二四
 篤志会員(一〇円以上)  七九
 特別会員( 五円以上) 一三八
 正会員 ( 一円以上) 四六九
  計          七二二
 ここに本会の事業に関し、特に尽力せられたる諸氏の芳名を記し、聊か謝意を表することとせり。
(以下芳名簿は略)

 以上、当社施設事業の重なるものにして、其の他神前結婚、高齢者優遇、明治神宮楡樹献木等あり。又指導機関としては明治初年以来神道楡山支局、埼玉県神職取締楡山分所、仝幡羅分所、埼玉県神職会大里郡支会第三区等の事務所を置き、専斯道啓発に尽くす所あり。擱筆に臨み感慨無量なるは、最近僅かに十数年来の勃興すら既に現在の進歩あり。是れを既往廃頽不振の状況に比較すれば、如何に時勢の趨運とは云ひながら、恐懼の次第にてはあらざりしか。ねがはくは志あるもの来って、古社の面目を保つ上に更に一段の援を吝む莫れ。

楡山神社概要畢

(奥付)

 大正七年七月十二日 (非売品)
 編纂所 埼玉県大里郡幡羅村 郷社楡山神社社務所
 印刷所 埼玉県大里郡深谷町 深谷活版所