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  深谷市上柴町東1丁目 諏訪神社 ホームページ

 御祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)美穂須須美命(みほすすみのみこと)
 氏子区域 上柴町東1〜5丁目、上柴町西1〜3丁目、幡羅町の一部

 由緒
 旧大字柴崎地区の鎮守である。
 戦国の世も終りを告げるころ、深谷城主上杉家の家臣、柴崎淡路介が、一族とともに深谷城の巽(東南)の方角に当るこの地に住んで、氏の守護神として諏訪社をまつったものといはれる。淡路介は慶長元年(1596)2月16日に没した。
 文禄元年(1592)11月、国済寺(深谷市国済寺)の末寺として、当地に月笑院が創建され、諏訪神社の別当となった。松平山月笑院といひ、松平山とは天正18年(1590)の打入り(豊臣徳川の関東平定)後に深谷城に入城して領主となった松平孫三郎にちなむものといふ。『新編武蔵風土記稿』にも「諏訪社、村の鎮守にして月笑院持」とある。
 当地で掘られた井戸の水は、深谷城へ運ばれて飲料水に供されたといふ。その水を運んだ道路は幅4間の広さで、神社の前から城の近くまでまっすぐに通じてゐた。現在の県道深谷東松山線だが、神社周辺は区画整理のためにその面影はない。古くから雨乞の祈祷がよく行はれ、それは獅子舞をともなふ地方独自のものだったやうだ。
 幕末までは「諏訪大明神」とも呼ばれた。明治7年村社申立、明治43年神饌幣帛料供進神社に指定。
 昭和六十年に拝殿を再建。以後、平成初頭にかけて、手水舎や新社務所、美しい玉垣などが、次々に新築された。

 祭礼
 10月17日の
例祭(例大祭)で舞はれてゐた獅子舞は、龍頭(りゅうがしら)をまとふものだったが、その龍頭は神社に保存されてゐる。
 社務所の襖には、氏子の合田芳弘画伯により三部構成の「諏訪神社上柴今昔襖絵」が描かれてゐる。江戸時代・昭和10年ごろ・昭和60年ごろの各時代の祭礼風景などを、古老の語り伝へなどをもとに生き生きと描いてゐる。
 祈年祭(3月27日)、勤労感謝祭(11月27日)
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 例大祭では、昭和25年ごろまで氏子による獅子舞が行なはれた。獅子舞は不作の年には行なはれなかったといふが、豊作の年にはより盛大に行なはれた。獅子舞は、まづ行事の始めに神降しの儀があり、当時の神職家(柴崎家)を出発して、寺や村の名士の家を巡り、境内に入って社前で夜半まで続いてのち、獅子頭神昇げの儀で納めとなった。古くは陰暦7月27日に行なはれた。
 獅子舞は、雄獅子・女獅子・法眼の三頭によるもので、獅子頭に「元文三年(1738)戊午年 柴崎加兵衛」と彫むものもある。曲目には、御幣掛り、女獅子ガクシ、橋掛り、雨掛りなどがあった。獅子舞に付随して「棒づかひ」の行事も行なはれた。
 当地では昭和50年ごろから上柴ニュータウンの都市開発が進み、のどかな農村風景が一新され、より広範な新旧の氏子によって維持されてゐる。