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幡羅郷土史ブログ

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武蔵国幡羅郡の範囲と人口

武蔵国幡羅郡の奈良平安時代の人口を推定してみよう。

参考 wikipedia 近代以前の日本の人口統計
ここに記載の鬼頭宏氏による武蔵国の人口から、和名抄の郷数割(6.7%、8/119)で計算すると、
 奈良時代 武蔵国:130,700人 幡羅郡:8750人余
 900年ごろ武蔵国:257,900人 幡羅郡:17200人余。

これは大変な数の人口である。

江戸時代の人口と比較してみよう。天保期の幡羅郡の範囲の戸数を調べて見ると、小村2村が不明だが、55村で3657戸。不明分を考慮しておよそ3700戸。1戸5人として、18500人となる。(このデータは新編埼玉県史付録の冊子をOCRして、配布目的でよく校正したつもりのもので、CSVエディタのマクロで計算した。)

既に平安初期に、江戸時代とあまり変らないといっていいほどの人口に達している(!?)。
江戸時代には原野はほぼ皆無のこの狭い(*)地域で、土地は開墾し尽くして、やっと18500人を養っている地域である。
平安初期に17200人とは、何かの間違いなのだろうか。

さらに当時は、南の大里郡との郡境に荒川が流れていたとされるので、郡境に広大な河原が広がっていたことを想定すると、幡羅郡の面積はさらに狭くなる。人口密度は江戸時代よりも大きかったともなりかねない。
幡羅郡は、古墳時代以前から人口密度の多い地域と思われるので(土着勢力が多いのだろう)、他の地域のように奈良時代から平安時代にかけて2倍には増えないという想定もできるが、わからない。
同じ鬼頭氏のデータで、1600年(江戸の町ができる前)ごろの武蔵国は708,500人。700年前からほぼ3倍に増えているのに、幡羅郡は700年前に人口頭打ちということになってしまう。
 900年ごろ武蔵国:257,900人 幡羅郡:17200人余。
 1600年頃 武蔵国:708,500人 幡羅郡:18500人(天保期)


やはり奈良平安時代の幡羅郡は、範囲を広げて考えなければ、話にならないことがわかる。

吉田東伍によれば、当時の幡羅郡は広範囲であり、
江戸時代の榛沢郡域である今の深谷市の旧深谷町、藤沢地区、武川地区を含め、
埼玉郡域である、今の熊谷市の中条地区、旧成田村、などを含めるべきとしている。妥当であろう。成田氏は「幡羅の大殿」と呼ばれている。この「幡羅」はハタラと読まれたろうと吉田東伍はいう。
もしも吉田東伍の時代に、鬼頭宏氏の方法があったならば、吉田東伍説への評価は違ったはずである。
郡域変更について想像できることは、東側では、埼玉の国造勢力の衰退に前後していくつかの郷(下秦上秦等)が郡を移動し、後世に成田氏の埼玉進出とともに元に復したのかもしれないとか、西側では、後世に児玉榛沢方面の武将が進出してその郡域を広げたかもしれない、ということもあるだろうか。

余談だが、これだけの人口密集地帯には、「渡来人」のための居住スペースを多く提供するのは難しいのではないだろうか。他に人口の少ない地域は数えきれぬほどあるであろう。
世界史的には十分中世の時代である。律令制は外国との交流や文化面等の面では評価できるが、政治的には台頭する地方(中世的世界)を押さえようとする反動という側面もあるのではないか。

※ * 江戸時代の幡羅郡の広さは、昭和30年に人口5万人ほど(深谷町2万、他3万)で成立したときの深谷市より2〜3割程度大きいだけの広さである。

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