国会図書館デジタルコレクション

「国会図書館デジタルコレクション」において、
埼玉県北部の関係の書籍では、次のものが閲覧できることがわかった。

大里郡神社誌 昭和5
深谷町誌 昭和12
新編武蔵風土記稿 幡羅榛沢郡 明治17
新編武蔵風土記稿 大里男衾郡
新編武蔵風土記稿 那賀児玉加美郡
東京市史稿. 市街篇第六附録 昭和3
北武蔵名跡志 富田永世 編 大正5
北武蔵考 富田永世[他] 写本

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村の境界

(2月に載せたものを5月に改めた)

昭文社の「深谷市」の地図を入手したところ、平成元年の発行だった。昭和末期の宅地開発より以前のものが欲しかったのだが、それでも少し古い時代の名残りを見つけることができる。
現在は道路などが大字の境界となることが多く、境界線は直線的なのである。しかしこの地図では、境界線が複雑な曲線のところがかなりあり、上増田と蓮沼の境界もその一つである。
上増田2

今の上増田の範囲はGoogleMapでは、道路沿い、または福川(旧丈方川)沿いである。次の図の通り。
上増田

上増田の南の宮ヶ谷戸では、昭文社の地図では東南部が曲線になっているが、これも今は道路に密着した直線である。この曲線は、戦後の河川改修以前は、丈方川(今の福川)の流路だったことは判明している。
上増田と蓮沼の境界も、川の跡であろうか?
今昔マップ」を見てみよう。明治時代の地図である。
菱沼

宮ヶ谷戸の東南部の境界には、前述のように、川があるのを確認できる。
上増田と蓮沼の境界には、細長い沼がある。これに接する蓮沼の小字の名は「菱沼」(別の地図による)であるが、沼の名でもあろうか。ヒシヌマとハスヌマは音韻交替のようにもみえるが、詳細は不明。
さて、この沼の水源は何であろうか。雨水だけではなく、伏流水などが湧いて出たものとも思える。細長い沼の東は沢となって丈方川に落ちていたようでもあり、元は丈方川の支流ということになる。上流もあったとすれば、小山川からの分岐かもしれないが、上増田と蓮沼の境界の西は、新井、上敷免の2村と明戸との境界になり、境界線の先は西島の上唐沢と下唐沢の合流点あたりになるが、となると丈方川の派流ということになるが、傍証になる別の史料があるかというと、ない。

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古文書倶楽部からインポート

古文書倶楽部という小ブログの2016〜2018年の記事 29件を、
本年4月1日〜29日の日付でインポートした。
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「年貢率の推定」の話

【古文書倶楽部2018-5】
『史料が語る江戸期の社会実相一〇〇話』(つくばね舎)
日本風俗史学会、編(芳賀登らの編)。
示唆に富む内容の多い本と思われるが、100話のうち、つっこみ所の多い項目も多そうだ。

 「年貢率の推定」という項目。
この一文の主題は、石盛(下田一反なら1.1石程度)とは、実際の収穫量ではないこと。実際の収穫はもっと多く、収穫量から四公六民で計算すれば、実際の年貢率がわかる。(その計算結果は収穫量の10%台)
という点にあり、このことについては、もっともだと思う。

 しかし詳細な内容には問題がある。
 実際の収穫量については、「佐藤常雄『貧農史観を見直す』によれば、江戸中期から明治前期までの平均は、一反あたり四石三斗八升になるという」、と書かれる。
 この数字、約4石4斗は、俵にして11俵であるので、驚いた。昭和の末でも7?8俵が普通であり、11俵も獲れるはずがない。
 そこで引用元の本を開いてみると、玄米ではなく、脱穀前の籾の量のことだった。石盛は玄米が単位なので、籾の量と比較してもしかたがない。どうも先生方の中には、農業の実際がわかってない方がいらっしゃるようだ。
 稲籾は、脱穀して玄米にすると、重量では70%ほどになってしまうそうだが、石とは体積の単位であり、体積ではもっと減る。くず米などもそこから除けば、普通は約50%、半分ほどになってしまうそうだ。Wikipediaにもそう書いてある。
 したがって、稲籾四石三斗八升は、玄米では約2石2斗ほどである。

 この一文では「上田の場合は四石三斗八升」と書かれるが、これは誤りであろう。引用元には田の種類の記載はない。(四石三斗八升という数字もなく、引用者が独自に平均値を計算したように見受けられる)
 上田ではなく、平均的な田と比較するのでなければならない。平均的な田とは、何か。文字の上では「中田」がそれらしく見える。しかしいくつかの村の年貢関係の文書を見た限りでは、最も耕作面積の多い田は、下田である。
 下田の石盛は1.1石とした例もあるそうだが、当村史料では1.05石。普通はちょうど1石と見る人が多いようだ。年貢はそのうちの40%なので4斗。4斗とは1俵のことである。。

 平均的な、田1反あたりの年貢はおよそ玄米1俵である
 実際の収穫量は、前述の通り、およそ約2石2斗、つまり5俵半
 年貢率は、1 ÷ 5.5 = 約18%。
 ただし領主の義務である水利費用の村負担分などが控除される。冬の裏作などの収入は含めずの計算である。したがって18より低い。
 佐藤常雄氏や石川英輔氏の本で、実際に年貢率を計算した人によると収入の7?8%という表現があったが、年貢の低い畑を含めた総収入に対する率では、そのくらいの数字にはなりうる。「計算した人」とは、不明。
 ちなみに、時代ごとに収穫量を比較する場合は、江戸時代の1反が実際はもっと広かったことも頭に入れなければならない。

 ところで、この一文で、畑の石盛について、上畑13、中畑11などと書かれるが、よくわからない。その数字では、中畑と下田が同等になるのだが、畑の年貢がそれほど高いとは思われない。当村史料(元禄13年)では、上畑が永97文、中畑が永87文である。天保時代の上州国定村では永140文ほどだったともいう。金納なので値上げはある。永100文とみても銭400文、およそ金1朱である。一方、米1石が金1両とすると、1俵は1分2朱余。畑の年貢は田の1/6程度になる。米1石が1両とは、小売価格であろうが、輸送費を考えるともっと低価格で換算するのかもしれない。
 年貢米は、輸送費用を誰が負担するのかという疑問がある。同じ旗本領でも江戸から遠い村と近い村とでは費用が異なるであろう。解説書に書かれないのは関心がないからだろうか。公平性のためには、領主側の負担のように思え、金納に換算するときは江戸での価格が基本になるだろう。
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化猫の次第

【古文書倶楽部2018-5】
『講座日本風俗史第一巻』(雄山閣)に掲載の「瓦版」を読んでみる。
(仮名遣ひ等を改めた)。

化猫の次第

音羽辺 化猫の次第
凡そ獣類の中にても寝食を同じうするは猫のみなれど、
又、年たけぬれば、わざはひをもなす事、古来よりためし多し。
爰に、音羽辺なる、さる御やしきにて、五月二十日頃の事とかや。
いづくよりかは、一疋の大猫来り、御愛子の枕近く立より、
はじめの程はたはむれ、くるひけるに、やがて耳逆だち、
口ひらき、眼するどににらみ、喰ひころさん斗りゆゑ、
何某公、是を追ひちらし、長刀にて追ひまはし、一太刀あびせけるに、
庭の松が枝にのぼり、血汐流れ候ゆゑ、其の生躰(正体)を見届けんとするに、
一向にかげかたち見えず、山の奥へ逃げさりしと見えけり。

……読んで見て、どうといふことはないのだが、
結局この化け猫は、危害を与へることもなく、聞く人に恐怖心を植ゑつけて、影も形も見えなくなった。
飼猫が人と寝食をともにすることは、この時代からあったことはわかる。
「実物大」といふのは、A5判見開き(A4)が、ほぼ「瓦版」の紙の大きさといふこと。
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村人どうしの文書を読むとき

【古文書倶楽部2017-11】
近世の村の古文書のうち、村人どうしの文書を読むときに、人物の特定などができると、「社会生活史」的な理解が深まる。
人物の特定とは、複数の文書に登場する同名の者が同じ人物かどうか、その親子関係、家族・親類関係、苗字、副業、資産や村役などである。今の誰それさんの先祖だということになる。

明治五年の新戸籍。その写しがあれば、「父○兵衛文化○年生れ」などと記載され、幕末の○兵衛との関係が想定でき、宗門人別帳を遡ってゆくこともできる。同名なら同一人物の可能性が高いが、親子2人の名が同じ場合もあり、その場合は親子か同一人物かである。印鑑は諱を彫ることが多く、印章が同じなら同一人物だ。
天保のころの農間渡世(副業)調べの記録と、明治の戸籍が同定できれば、明治の住所を見て、やはり街道脇だったかとわかる。幕末の弥左衛門と明治の弥惣八が同一人物らしいとか。重要な家は、墓誌を訪ねて先祖の名を確認できるし、現代に伝わる屋号も重要である。

連印帳などの並び順は、現代の回覧板の順番のように、無駄のない並びのものがある。事前に半分ほど家が特定できていれば、並び順を見てほとんどの家を特定できることもある。

寺の寄付の世話人や寺の総代などの役は、同じ苗字の中の代表者であることが多い。普通は本家と呼ばれる家が役につくが、本家が傾いたところは別の家がなり、一家総代(いっけそうだい)などともいう。寺の仕事は先祖供養が主なので、同苗ごとに代表一人を決めるのは合理的だ。寺や墓地に関する覚書には、苗字が書かれていることもある。
明治五年の戸籍以後は、神社関係の寄付名簿を辿れる。寄付名簿は石に彫ってあることもあり、金額の多い家はそれなりの家である。

それぞれの家系図のようなものもある程度は作れるようになるかもしれないが、
問題なのは、家がわかっていると、トラブルなどに関する古文書を、論文に添えて公表するのに躊躇してしまうことである。第三者に見てもらって、判断をゆだねる方法もある。
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風流都々一

【古文書倶楽部2017-7】
明治のごく初年のものと思われる「風流都々一」なるメモ書を読んでみた。
庶民文芸の一のようだ。遊里などでの特殊な用語の意味が難しい。


風流都々一

としのくれよりまたして おいて、ふらしてたのしむ春の雨
 (「ふる」は、女が「ふる」ことをかけるのだろう)

おまい梅ならわしゃ鴬よ 花が仲人で いんむすび
(関東では「え」を「い」と訛るので「いんむすび」とは「えんむすび」のことだろう)

ひらきかかりし あやめのつぼみ 水あげすまして 床の前
 (「水揚げ」は、遊里用語)

ゆこかかひろと若いしたちが しあんしながら格子前
 (行こか帰ろと若い衆たちが、思案しながら。格子は遊郭の格子窓。)

かわずあがれば柳の雫 ちょと ぬれたるいけのはし
 (蛙と「買わず」をかけるのだろう。「あがる」もたぶん遊里用語)

水にまかせたあやめでさいも すいた心で花がさく
 (「風まかせ」という言葉もあるが、気楽というより、自分の意志で動けない不自由さをいうようだ)

三国一夜の白さけ娘 うつくしいぞや不二の花
 (「白さけ」は「白酒」と何かをかけたものか、不明。藤と富士。富士山を「三国一」という、富士講流行の背景が見えるので、明治初期のものと見られる)

蚕さなかによめごのさわぎ もらわざなるまいねた子でも
 (「蚕が寝る」と表現するような、養蚕の上でのあまり良くない状態があるのかもしれない。)

八兵衛女としらずにしたら ぬいてびっくり蕗のとう
 (八兵衛は(特に下総船橋あたりの)下級遊女。「蕗のとう」は難しい)

八十八三に別れて松霧(霜?)唐崎の 日毎なみだに夜の雨
 (「唐崎の夜雨」は近江八景の一つ。上の句の読み方が不明。通常の七七七五ではないのかもしれない。「八十八夜の別れ霜、名残の霜」などの慣用句があるが……。)
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秩父札所案内絵図

【古文書倶楽部2017-6】



江戸時代の秩父札所案内絵図。
村の名や山の名はあるが、寺の名前はなく。一から三十四までの番号と距離のみ。
十五番の少林寺の北西に鳥居の絵があり「妙見宮」とあるのが秩父神社。神社の東に今は秩父鉄道の秩父駅がある。妙見宮の境内は当時相当に広かったが、明治初年に政府に上地された。
盆地の中央を貫く街道は、今の旧道で、「しなの くまがへ(くまがい)道」とある。
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江戸の「事業仕分け」

【古文書倶楽部2017-6】
これはちょうど鳩山政権のころのある古文書勉強会のテキストとして使ったとき、そんなタイトルをつけた。
その文書は、天保二年十月のもので、内容は、知行所各村の村役人らが、知行所の財政改革案、とりわけ人件費の削減について提案したもの。
保存文書は、かなり急いで写したとみえて、読みづらい文字だが、読んで見た。

  乍恐以口上書奉申上候
一 来辰年従五ヶ年間 御省略御仕法の趣
 逸々奉承?候?事
一 御家中御人払被仰付 御知行所村役人
共の内にて在府仕御用役御給人御侍等迄奉賄
御指配御給金頂戴不仕にて?知申儀存候
并御門番兼御仲間二人にて為御間合度存候但し
御給金は頂申度候事
一 御稽古御供の義は御侍にて兼帯仕候て相勤
 申義の事
一 御女中の義は御膳焚一人御茶の間一人にて
御間に合せ度奉存事
右の通り御仕法に被遊候へば御給金二十
二両二分 御扶持米五人扶持此?一ヶ年に
九石相減じ候様に奉存候 猶御尋の義
御座候はば口上にて乍恐可奉申上候 已上
 天保二卯年十月  御知行所
・役人
武(州 村々)
総(州 村々) 印

内容をまとめると、
一、旗本家で5か年をかけて財政改革に取り組む意向である
一、御家中の人払い、つまり家来や使用人の人員削減をする。
 村役人の中から上京して代ってその仕事に仕える者は給金は頂戴しない。
 御用役、御給人、御侍まで削減の対象に考えているらしい。
 門番を兼ねる仲間(ちゅうげん)は二人とし、給金は払う。
一、殿様や若様の武道の稽古には、お供は必要である(中小姓の仕事)。これは省略できない。
一、女中は二人、台所に一人、茶の間に一人。
(奥様付きの腰元は、私的なものでもあり、削減の対象外とも解釈できる)。
そして、このようにすれば、人件費二十二両一分、米九石が節約できる。
・・・というような内容であろう。

実際にはどう改革されたであろうか。
天保八年と十一年の旗本家賄帳なる文書があり、これは村役人が財政を切り盛りした詳細な支出報告である。
給金は、各人の年俸の半額が3月に支給され、残りを年末と秋9月の2回に分けて支給。そのうちの3月の支払い明細である。

 天保八年三月 御給金渡
三両二分 小笹守
三両   堀田惣左衛門
二両   御中小姓
一両二分 御膳焚
一両一分 御茶之間
一両   御腰元
五両二分 御仲間四人
一両   御乳母
〆金十八両三分也

 ※ 小笹と堀田は、「御用役、御給人」にあたる人である。
 次に、3年後の帳面。

天保十一年三月 御給金渡
三両二分 小笹守
二両   御中小姓
一両一分 御茶之間
一両   御腰元
一両二分 御膳焚
四両二朱 御仲間三人
〆金十三両一分二朱也

堀田惣左衛門(3両)がない。仲間一人(1両1分2朱)減、乳母(1両)はなし。

乳母は、たまたま必要でなくなったのかもしれないが、仲間は一人減っている。
用人一人(堀田)減は大きい。
地頭所からの通達文書を見ると、従来は二人の署名があったが、天保九年より、堀田の名は消えて、御賄方・御蔵元・小笹の3人連署となった。そのうち御賄方・御蔵元の2人は知行所村役人である。文書の通達先の村の役人が、この二役のうちに該当するときは、当然、通達主には名を連ねない。したがって村役人2人が必要となるわけだろう。
堀田は天保9年に職を解かれたことになるが、武士を解雇するのは大変なことかもしれない。しかし、天保8?9年に地頭所が商人から借金した證文が大量に名主家に存するので、その借金を村で肩代わりすることによって、村々の提案が承諾され、人件費削減は実行されたようだ。
(ちなみに仲間一人1両1分2朱は、年間では2両3分。村の名主家の奉公人でも3両は貰っている)

どの旗本家でもこのようなことになると、江戸の町には浪人があふれ、治安も悪くなる。
しかしこの改革は失敗に終った。
天保13年、給人格の一人が、年貢米を金納するための計算をして知行所全8ヶ村へ通知したときの金額にミスがあり、ある村から指摘された。その人は武士道に撤するかのように名主を辞し、その子も同様。もう一人の給人格の名主(わが先祖)も隠居して伜に家督を譲り、以後この役につくものが出なかった。
そして翌年から給人については二人に戻った。
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養蚕と機織りと、近世の神秘

【古文書倶楽部2017-6】
昨年10月、「借金するなら姉妹から」で書いたことは、何ということもないように見えるかもしれないが、重要なことだと思った。

名主が急な村用などのために借金をするとき、とりあえず親類をあたることが多いが、親類のうち姉妹の嫁ぎ先からの借金が多いのは、結婚の際の持参金の存在を傍証するものである、というような内容である。

最近、網野善彦・宮田登対談集『歴史の中で語られてこなかったこと』を再読し始めたら、
16世紀に来日したフロイスの記録によると、「日本では夫と妻が別々に財産を持っている。時には、妻は夫に高利で金を貸す」と書かれ、女性たちには養蚕や機織りの現金収入などがあり、女性独自の財産があったことは間違いないが、研究はこれからだとは、両氏の対談内容。

昨年10月のブログでは、持参金のことしか書かなかったが、養蚕や機織りの収入のことを付け加えなければならない。こうした現金収入は、今までは主婦のへそくりとして歴史家はほとんど無視してきたが、男性主体の表経済に匹敵するくらいの裏経済が存在したのではないかというのが両氏の認識である。手元の史料によっても、個人ではなく、一村に対して融資をするほどの高額のへそくりないし動産が一人の主婦にあったということがわかるわけである。

とはいえ、村の古文書から名主の親類関係を調べるのは、部外者が数日調べたくらいでは容易ではないかもしれない。今回の親類は、伊勢参宮の同行記録から親類と判明したものだった。

養蚕についてだが、宮本常一編纂の平凡社『日本残酷物語』を通読中に、江戸時代には日本の養蚕はかなりの生産高があったというくだりを読んだことがある。それによると、安政×年には○○だけの輸出量だったのだから、少なくとも安政×年以前には養蚕は相当に普及していたのだという程度のことしか書かれず、安政×年の資料しかないのだろうかと不審に思ったものである。しかし諸国生産高一覧のような資料は、本当にないのだろう。江戸時代の養蚕の生産高がわからないのは、年貢などの男性経済とは別次元のものに属するからということになる。

この対談集で、蚕が脱皮して美しい繭で自らを包みさらに脱皮してゆく姿は、少女から女性へ変身する姿の反映だとコメントしたのは宮田氏のほうだったと思うが、昔話で、機を織っている姿を見てはいけないという伝承は、経済的にも男は口出ししてはいけないことにつながるのかもしれない。
それらの禁忌は、水辺に棚を設けて、その上で神に着せる布を織りながら神の来訪を待つ棚機女(たなばたつめ)の、神話時代から続いていた聖なる話の一部なのかもしれない。

近世的家族の成立史の問題と、この女性論の問題。この二つだけは、どうにか見えてきたような気がする。
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