大井の泉

『大井の泉』と題するエッセイ(丸谷才一『遊び時間2』に収録)で、岡野弘彦著『折口信夫の晩年』といふ本のことが語られてゐる。
すなはち「折口が死んでからの叙述が際立って立派である。殊に、玄関の神棚に祀ってあった男女の河童像の魂を抜いて、霊を放つくだりは、まことに美しい鎮魂の文章となってゐる」と書かれ、岡野氏の著作からの引用が13行ほどある。

その引用部の大意は、品川区大井出石の折口宅裏から品川の海へ続く地下水脈があり、途中3ヶ所から泉となって湧き出してゐるところがあり、一続きの水脈だとわかる。3ヵ所のうちの最も上流の泉へ、器に入った水を運び、水を泉へ注いで流したことが、抽象的であるが美しく表現された文である。

引用文とのつながりが、少しわかりにくかったのだが、『折口信夫の晩年』を確認してみると、器の水は、河童像の前に置いて念じて、河童像の魂を水へ遷したものだった。その水は泉に注がれ、地下水脈を通ってやがでは海へ至ることになる。
海へ至るのは、神として祀られ、主人の死によってその役割を終へた河童像の霊なのだが、河童像を祀ってゐた主人の霊の一部分も、海へと至るのであろうか。

太古からの泉について考へるとき、生活用水としての有り難さという視点からだけではなく、そのほか異界への信仰に関るものであったりするので、そのことを思ひ出せるようにしておかう。

2019.11.18 月曜日 | comments (0) | - | 編集

出土品 寛永通宝

寛永通宝
我が家の庭からの出土品である。
最初は、錆びやゴミ詰まりの状態のため、自然光や照明の下では、文字は全く判読不明だった。照明をさまざまな角度で当ててみたが、全くわからなかった。

パソコン用のイメージスキャナで、書類の紙のようにスキャナしてみると、間違いなく「寛永通寶」と読める。
これには驚きだった。

画像を良く見ると、下から光が当って、凸部のすぐ上に陰ができている。
スキャナは強い光を当てながら、レンズを通して撮影する(「読み取る」ともいう)仕組みだが、上から下へ向かってゆっくり取り込んでゆき、光が下、撮影レンズが上なので、上に陰ができるのだろう。
乱反射がほとんどないので、陰ははっきりと出るのだろう。

スキャナには、こういう使い方もあることがわかった。
この方法を応用できるものは、あるだろうか。

2019.09.27 金曜日 | comments (0) | - | 編集

市川市月の桃太郎と猿・犬・雉

幕末に武蔵国幡羅郡江原村(現深谷市江原)に生れた俳人、市川市月は、絵も描き、気の利いた物語なども書きそえた軸物が多数あり、その洒落心などが、地元では愛好されている。

昔話の桃太郎を描いた軸物では、猿、犬、雉の三匹の意味について、次のように書く。

三疋の禽獣は 悪はさる 魔はいぬ 災はきじと云の謎
心の鬼の亡る時は万の宝も掌の内にとり込し肆(いちぐら)に栄ん事疑ひなし

悪は去る(猿)、魔は往ぬ(犬)、災は来じ(雉)という謎かけだというのだが、
「来(き)じ」とは方言的な言い方である。「来(こ)ない」というべきところを関東地方では「きない」というが、そのいわば文語表現が「来(こ)じ」でなく「きじ」というわけである。したがってこの「きじ」と雉をかけるという発想は、そうした方言を使う地域の人でなければ思い付かない。市川氏本人が考えた洒落なのだろう。

肆(いちぐら)とは、市座のことで、市で商品を並べ置く所の意味らしいが、「栄ん事疑ひなし」というわけで、蔵の中の財宝も増えてゆくという、まことに縁起の良い話である。縁起の良い文や絵なので、この地方の人は、これを床の間に掛けて飾ることを好んだのだろう。
「いちぐら」の「いち」は市川氏の市でもあり、市川市月は地方で句会があれば主催者や賛同者として必ず名を連ねた人だった。
市川市月 桃太郎



話変って「猿」をふくんだ謎解きをもう一題。
ぬえ(鵺)という伝説上の怪獣があり、尾は蛇、手足は虎、頭は猿で、蛇(巳)・寅・申で「みとらざる」ともいう。親の死に際を看取ることができないという意味であり、家族に巳年生れ・寅年生れ・申年生れの三人が揃うと親の死に目に会えないという俗説になっている。
(ちなみに、鵺は、胴は狸で、声は虎鶫(とらつぐみ)に似ているらしい)

鵺を退治したといえば源頼政だが、もし平安時代の京都で「みとらざる」という言い方が成立していたとすれば(可能性は低いかもしれないが)、誰にも看取られずに死んだ者たちが化けて出たのが鵺なのではなかろうか。都では、行き倒れの多かった時代であったし、官人たちも親の臨終の場にいると死穢のために1年間は出仕できずに出世に遅れることになるので、人の死に目に遭うことを避けた時代である。

2019.08.31 土曜日 | comments (0) | - | 編集

別府沼

貴重な写真。
熊谷市西別府の別府沼。台地の北の縁の下がったところに道路があり、さらにその下に細長い沼がある。道路から西北西をのぞむ。沼の奥が湯殿神社。昭和40年(1965)ころ、豊かな水を湛えていた)
別府沼

沼の岸の道で遊ぶ子供たち(同上年ころ)
別府沼の岸

別府沼に群れる白鷺(昭和50年代頃か)
別府沼の白鷺

2019.08.20 火曜日 | comments (0) | - | 編集

地方の枕詞

枕詞とは、和歌の修辞法の一つであるが、「久方の 光」「烏羽玉(うばたま)の 黒髪」などというのもある。
その起源は上代以前のもので、地名を述べる前につけたのが始まりだろうとされる。「八雲立つ 出雲」「空みつ 大和」「衣手 常陸」など、それぞれの意味の詳細は諸説があるが、おおむね、土地や土地の神を称え鎮める、国褒めや鎮魂のための詞だったようだ。記紀万葉や風土記などでよく見られるが、風土記では常陸国や出雲国など一部しか伝わっていないのは残念である。

中世以後の文献で枕詞が多用されているものに、『倭姫命世記』がある。伊勢の皇大神宮の遷座・遷幸の経緯が書かれ、各地の地名に枕詞が冠せられている。神の鎮まる土地を賞讚する目的であるのだろう。著者は、伊勢の神宮の神官らしい。
その後は、枕詞は、歌人たちではなく、神官たちに好まれたといえるかもしれない。
さまざまな枕詞を収集するとしたら、地方の神官たちの書き残したものなどを当ると良いのかもしれない。

その一例として、明治11年の、旧武蔵国幡羅郡原之郷村の楡山神社の氏子が、伊勢参りと西国の旅に出るときの御朱印帳があり、同社祀官の書いた序文の中に、枕詞らしきものが、4ページで11例ほどある。そのうちの地名については3例。

かすみひく原之郷
 源氏物語で山の麓の高台の地を原と呼ぶ例があるらしく、山の麓近くなら霞棚引くということもあるだろうから、そこからきた修辞であろうか。実際の原之郷は、大きな扇状地の端の段丘のあるところである。

神風の伊勢
 これは、よく知られた枕詞である。

いづ鉾の讃岐
 普通は「玉藻よし讃岐」ということが多い。「いづ鉾の」の意味は不明。

2019.08.09 金曜日 | comments (0) | - | 編集

幡羅郡の範囲

musashi.jpg

奈良時代から平安初期の武蔵国で、最も人口密度が高かったのは、どの地域であろうか。
図は、武蔵国の21の郡を表し、各郡内の「郷」の数を数字で書入れたものである。
郷の数は、平安初期の和名抄によるもので。一つの郷は50戸程度から成るというのが定説なので、郷の数が多ければ、人口も多いことが想定される。
元の図は、府中市関連のサイトから拝借したものだが、これは明治初期の郡域の地図ではないかと思う。他には、昭和の市町村図から作成したものが多いようで(秩父郡が狭くなっているのでわかる)、それらよりは古いという理由で、参考にすることにした。

図で見ると、面積に比較して郷の数が多いのは、幡羅郡、次が那珂郡であろう。人口密度も同様になるはずである。幡羅郡は南北に利根川と荒川の河川流域を含むので、それを除けば面積は更に狭く、人口密度は更に高くなる。
人口密度が高いということは、都市のようでもあったことになるが、幡羅郡がそれに該当するかといえば、肯定的な材料はない。したがって、平安時代初期以前の幡羅郡は、この図より面積が広く、郷の分布もまばらだったとされなければならない。このことは、幡羅郡に大都市の存在が発見されない限り、動かし難い。

そうしたこともあり、吉田東伍の地名辞書では、幡羅郡の範囲を、後の埼玉郡や榛沢郡の領域の一部を含んだとしている。幡羅郡の8郷のうち、上秦郷と下秦郷は、後の埼玉郡域とし、この2つの郷は、ハタ郷という1つの郷から、再編されたものであろう。ハタ郷の郷名は、他の郡にも見られる名で、大和国高市郡波多郷(竹内宿禰後裔氏族の波多氏の本拠地)を始め多数あり、どの地でも2文字の漢字で表記したと考えて差支えないだろう。幡羅郡でも、字は不明だが波多、幡多などの2字で表記したはずである。
また、吉田東伍は、8郷のうち幡羅郷と霜見郷を、後世の幡羅郡から榛沢郡にかかるものとしている。幡羅郷の西は氾濫川の唐沢川までだろうから戸数の影響は少なかろう。霜見郷については、今回は触れない。
図で示した近世の郡域の範囲には、8郷ではなく、いわば2郷半を除いた5郷半くらいが、平安初期には存在したものと思われる。この数なら、極端に人口過密ということにはならないだろうが、それでも郡内にはまだ湿地帯などもあり、人口密度は高いほうだといえる。幡羅郡は、荒川の扇状地が幾重にも重なった地で、水源が抱負だったことから、古くから人口が多かったとしても不思議はない。
幡羅郡の東部が埼玉郡に編入されたのは、中世の成田氏の影響だろうと吉田東伍はいう。成田氏は「幡羅の大殿」とも呼ばれ、本拠地はハタ郷であったので、それにつられて幡羅をハタラと読むようになったのだろうともいう。
郡の西部については、深谷城や深谷宿の影響で榛沢郡となったところがあったのだろう。
8郷は平安時代初期の郷の数であって、奈良時代以前はわからない。

2019.07.09 火曜日 | comments (0) | - | 編集

子負(こふ)の原

その昔、神功皇后の新羅征伐のときの北九州での話には、「魚釣の石」や「淀姫」の話などがある(佐賀県の話)が、福岡県側の、「子負(こふ)の原」の鎮懐石の話も、よく知られている。
万葉集の山上憶良の歌によると、皇后は、俄かに産気づいたため、2つの石をからだに当てて、出産日を遅らせたという。その石は、筑前国の怡土(いと)郡 深江村の子負の原の、海に臨む丘の上にあったもので、今の鎮懐石八幡宮(福岡県糸島市二丈深江)のあたりという。やがて誕生した皇子は後の応神天皇である。

平安時代の和名抄に、鵠と書いて、くぐひ、こふ、などの訓がある。鵠とは、白鳥などの白い渡り鳥をいい、鴻の鳥や、鶴などもいうことがあるらしい。
「コフの原」とは、白鳥などの飛来地であることからの地名だという定説で問題ないと思う。谷川健一氏によると、2つの石は卵を意味し、貴人が卵から生れるという卵生説話と関係があろうという。

「子負の原」には、海に臨む丘があった。その丘の端から海の方向に斜面を降ったところが、水鳥の棲息に適した地であったのだろう。白鳥は概ね淡水を好むと思う。丘の斜面から大量の湧き水が出て、沼や湿地を形成し、近くの海まで流れていたことが想定されるが、今の地図を見ると、鎮懐石八幡宮の西に堀があって西の海につながっている。
深江の南西には、福井、吉井という地名が続き、泉が噴き出し、吉い泉のある一帯だということがわかる。

古い地名の「原」は、清らかな湧き水などの豊富な土地、水源地をいう。

次は、万葉集より2首、原という地に棲息する鶴を詠んだ歌。

 打ち渡す竹田の原に鳴く鶴の、間無く時無し。わが恋ふらくは  大伴坂上郎女(万葉四、760)
竹田は、今の奈良県橿原市東竹田町、寺川のほとり。

 湯の原に鳴く葦鶴は、わが如く、妹に恋ふれや、時分かず鳴く  大伴旅人(万葉六、961)
大伴旅人が「次田(すきた)の温泉(ゆ)に宿り鶴(たづ)の声を聞きて作れる歌」。次田は、今の福岡県筑紫野市の二日市温泉。

2019.06.16 日曜日 | comments (0) | - | 編集

みかの原 わきて流るる

「原という地形」シリーズ。今回は百人一首に詠まれた「原」6首。

  みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ  中納言(藤原)兼輔

みかの原は、京都府南部の木津川市にある小盆地で、いづみ川は、盆地を東から西へ流れる今の木津川のこと。聖武天皇の恭仁京のあった地でもある。

みかの原から湧き出で、みかの原を二つ分けて流れる、いづみ川。いつ逢ったといって、こんなにも恋しいのだろう。
「いつ見きとてか」の解釈がいろいろあり、逢ってないとする解釈もあるようだが、ここはやはり逢ったと解釈すべきだろう。
「か」という疑問符は、「見き」ではなく「いつ」につながるものであろう。百人一首の紫式部の歌に「見しやそれとも わかぬ間に」とあるが、この場合は、見たかどうかもわからない意味だが、「いつ(何時)」という言葉がある以上、不確定なのは、逢った時期である。
お逢いしたのは、いつのことだったか、それ以来もう何年も何年も恋い悩んだような、それほどの恋だと言いたいのだろう。
そして、二人の間を分けてしまったように流れる、いづみ川。恋の相手は、この川の対岸にいるのだという想像も可能である。どこか棚機姫の伝説につながるところもある。女性に身をやつした歌でもあろう。あるいは恭仁京の遠い昔を慕ぶ歌でもある。こういう歌が名歌とされるのだろう。
みかの原については、湧き水や河川段丘のある扇状地であり、原の原義に近いものといえる。

百人一首のそのほかの「原」を詠んだ歌。
  浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき  参議(源)等
  有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする    大弐三位(藤原賢子)

篠原、笹原ともにイネ科の植物名を冠したもので、葦原と同じで、湿地帯でもあるのだろう。

  天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも     阿部仲麻呂
  わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟  参議(小野)篁
  わたの原 漕ぎ出でてみれば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波  法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)

わたの原は広い海、天の原は広い空を意味するわけだが、地形を意味する原の比喩表現と仮定するなら、原の意味が拡大してからの語法ということになる。

2019.06.12 水曜日 | comments (0) | - | 編集

段丘地形と地名

ここのところ、地名について再勉強。
まづ、谷川健一の対談集『地名の話』(平凡社)では、
巻頭の一志茂樹氏へのインタビューが、地名研究が単なる語呂合せにならないようにするための大事なところが語られていた。そのほか
「上村があれったとすれば、下村もある」
「上村をカサ村というところがある、笠原とは上の原のこと」
「前田。神社や寺や大きい屋敷の前の田、収穫された米は祭礼などで使われる」などなど。

東北に多いタテ(館)という地名については、
古代の柵(き)が原型で城や建物、屋敷ができ、さらに堀や築地などをふくめた全体をタテというようになったという。
しかし、柳田国男の『地名の研究』では、建物がなかったところでもタテという地名があり、タテとは山裾の台地の端の意味だろうとあった。
群馬県前橋市郊外の橘山や、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)などの、タチバナのタチは、台地の端の意味であろう。ハナは塙のことだろうから、これも台地の先端の意味である。

これらについては、柳田説を注目してゆきたいと考える。というのは、『地名の研究』を読むかぎり、日本の地名で最も種類が多いのは、台地の端、段丘地形に由来する地名(別掲)だからである。同書では、日本に湿地を意味する地名が多いのは稲作が豊かだった証拠というふうなことも書かれるが、より種類が多いのは、湿地よりも、段丘地形に関する地名のようである。

一志氏の本でも、信濃のシナについて、「更級・埴科・仁科とかいうところは、だいたい段丘地形といいますか崖錐地形といってもいいですが、山の麓がテラス状になているところ、もしくは河岸段丘になているところ、扇状地状になっているところ」で、これらが信濃の国名の元の意味であるという。有名な枕言葉「しなざかる 越の国」「しなてる 片岡山」などが紹介される。片岡山は候補地が複数あるが、大和盆地西部の丘陵の端ないし側の大和川の河川段丘の地であろう。
日本の土地は、起伏に富み、雨量も多く、扇状地地形も多い。その端に崖などがあり、湧き水があり、低地には水田が広がる。台地上には洪水を避けて居住地があり、畑と山林資源もあり、居住に適した地である。集落が複数できて、段丘の形状の違いの名称が集落の名となり、地名として現代まで残ったものもあるのだろう。

『地名の研究』から段丘地形といえるものを、いくつか拾ってみる。
  阿原、片平(沖縄ではヒラ)、真間、コウゲ・カガ・ゴカ、
  タテ(館)、根岸、ハケ(八景)、塙、台、丘
この他に、シナ、片岡などもあり、他にもあるだろう。
「原」も古い地名の多くは同様である。橘は「館+塙」であろう。
タテの元という柵(き)も同種なのだろうが、「キ」のつく地名を調べあげるのは大変だ。
これらは似た意味の地名だが、それぞれの違いについての吟味も必要だろう。

2019.06.03 月曜日 | comments (0) | - | 編集

沖縄の地名「ハンヂャ」

宮城真治著『沖縄地名考』(名護市教育委員会)を興味深く読んでいる。
そのうち「第二部 沖縄地名論考」の「第三章 羽地という地名の本義について」が、大変面白いというか、論争がらみでもあり、著者の筆が最も熱っぽい部分でもある。

そこで語られていることは、(国頭郡の)羽地について、
今はハネチと読まれることが多いが、地元の人はパニヂと言っている。地名に無理に漢字を当てはめ、後に漢字の読みにつられて地名の呼び方も変ってしまうことがあるらしい。
パニヂが本来の名前であることを想定し、元の意味を知るには、県内他所で似た発音の多数の地名を調べ、それらから類推して行く、というのが著者の方法である。これは有効な方法なのではないかと思う。

パニヂに似た地名には、ファンヂ、ハンヂャなどがある。
国頭村の半地(ファンヂ)は、「やや流れの早い川の河口の両岸に跨っている所」(同書、以下同じ)で、ファイ(走)ミヂ(水)の意味ではないかという。
羽地村にもハンヂャーガーという井(泉)があり、ガーは川のことなので、ハンヂャも「走イ水」の意味だろうという。
伊江村の川平は、地元の年寄はハンヂャと言っていて、「泉の下方に位する部落」であり、これも「走イ水」だろうという。
摩分仁村の波平(ハンヂャ)は、元は「ハンヂャガーという井があり」「清冽なる水が岩間より湧き出て、常に井に溢れ、小さな溝もなして下の田圃に流れ込んでいる」という。これも同様で「もと泉の名であったのが後に地名となったものであろう」という。
他にも多数の例が書かれているが、ハンヂャは、沖縄では少なくない地名であり、泉のこと、その流れのこと、流れの両岸の所のこと、という意味があることがわかる。

では、沖縄でハンヂャと呼ばれる地名と、同じ系統の地名が本州にもあったとするなら、多少は語形は変化しているだろうが、どんな地名であろうか。

昔読んだ本で、北海道の羅臼岳と、本州の茶臼岳、茶臼山は、同じ言葉であるという説なのだが、誰の本かは忘れてしまった。ラ→ダは、幼児がラジオのことをダジオというのと同じであり、ダとヂャは断定の助動詞「運転手ハ君ダ」〜「君ヂャ」というのと同様の転訛であると。したがって、ラからヂャへ転訛することがありうるわけで、日本語(大和言葉)の語頭にラ行の音は立たないこともあり、ラウスは、チャウスとなったのではないかと。(山頂が1つではない山をいうようで、前方後円墳を茶臼山という例もある)

ラからヂャへの転訛となると、ハンヂャの元はハンラということになる。
ハンラとは原(幡羅など)のことであり、意味もハンヂャに近いことは、これまでも書いて来た。
詳細は今後の課題である。
パニヂは、土師(はにし)にも似ている。

2019.05.17 金曜日 | comments (0) | - | 編集