地方の枕詞

枕詞とは、和歌の修辞法の一つであるが、「久方の 光」「烏羽玉(うばたま)の 黒髪」などというのもある。
その起源は上代以前のもので、地名を述べる前につけたのが始まりだろうとされる。「八雲立つ 出雲」「空みつ 大和」「衣手 常陸」など、それぞれの意味の詳細は諸説があるが、おおむね、土地や土地の神を称え鎮める、国褒めや鎮魂のための詞だったようだ。記紀万葉や風土記などでよく見られるが、風土記では常陸国や出雲国など一部しか伝わっていないのは残念である。

中世以後の文献で枕詞が多用されているものに、『倭姫命世記』がある。伊勢の皇大神宮の遷座・遷幸の経緯が書かれ、各地の地名に枕詞が冠せられている。神の鎮まる土地を賞讚する目的であるのだろう。著者は、伊勢の神宮の神官らしい。
その後は、枕詞は、歌人たちではなく、神官たちに好まれたといえるかもしれない。
さまざまな枕詞を収集するとしたら、地方の神官たちの書き残したものなどを当ると良いのかもしれない。

その一例として、明治11年の、旧武蔵国幡羅郡原之郷村の楡山神社の氏子が、伊勢参りと西国の旅に出るときの御朱印帳があり、同社祀官の書いた序文の中に、枕詞らしきものが、4ページで11例ほどある。そのうちの地名については3例。

かすみひく原之郷
 源氏物語で山の麓の高台の地を原と呼ぶ例があるらしく、山の麓近くなら霞棚引くということもあるだろうから、そこからきた修辞であろうか。実際の原之郷は、大きな扇状地の端の段丘のあるところである。

神風の伊勢
 これは、よく知られた枕詞である。

いづ鉾の讃岐
 普通は「玉藻よし讃岐」ということが多い。「いづ鉾の」の意味は不明。

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郡境の話 その1

郡の境界は、自然の山脈や尾根、そして川であることが多いという話はある。

川でいえば、武蔵国の埼玉郡は、東に利根川(古利根川)を隔てて葛飾郡、、南西に荒川(元荒川)を隔てて足立郡だった。北西の幡羅郡との境は、不明である。

山脈や尾根が境界となるときは、どの尾根が基準となるのかは、時代によって違う場合がある。

埼玉県比企郡小川町の木呂子・勝呂・木部・靭負は、明治22年に比企郡竹沢村となる前は、男衾郡の村だった。
竹沢村は、ほかに兜川下流の比企郡笠原・原川の2村を含めて成立した。兜川は小川町を過ぎて槻川へ合流し、さらに都幾川〜越辺川〜入間川〜荒川へと続く。地図で見ると、小川町自体が盆地ではあるが、旧竹沢村は、それとは別の奥まった所の小盆地のように見える。

現在の郡境は、より標高の高い尾根を基準にすることが多く、同じ川の流域は上流域まで同じ郡であるということが重視されているように見える。旧竹沢村も、それに該当し、今は全体が比企郡となっている。
しかし明治22年以前は4地域は男衾郡であった。その理由は何であろうか。

男衾郡は、今の寄居町の荒川以南と、そこから東へ続く地域であった。郡の南部は山地といえば山地だが、険しい山というほどのものはほとんどない。南西端の官ノ倉山(男衾・比企・秩父三郡の境)から西の釜伏山までは高いといえる山であるが、それ以外は、昔の人だったら気軽に越えられる山ということだろう。

航空写真で見ると、竹沢村の4地域は、昔は林業が主産業のような印象がある。木呂子・木部などに「木」の字が含まれる。それは比較的平地の多い小川町方面よりも、山地の多い北西の今の寄居町方面と共通性の多い文化があったのではないか。それが男衾郡に含まれた理由ではないかと思われるのである。


航空写真の赤線内が、木呂子・勝呂・木部・靭負の地域

同様のことは、官ノ倉山の南の秩父郡東秩父村でもいえそうである。東秩父村は槻川の上流域の村であり、西の秩父山地の高い山々を越えれば秩父盆地だが、盆地の外側、山脈の東側の地域である。しかし今も秩父郡である。

 郡境ではなく国境の例ではあるが、神奈川県の最北部の津久井郡(相模川の上流で相模湖があり中央高速が通っているところ)は、吉田東伍によると、もとは甲斐国であったとしている。
川の上流の地域とは、下流地域に従属するものではないということだろう。

余談になるが、
旧竹沢村の下流の笠原・原川は、どちらも「原」を含む地名である。兜川が流れて下って少し広い盆地に出たあたりである。大字としては2つとも川の左右方向に伸びた細長い地域であるが、その平地のあたりについては、
いかにも扇状地であり「原という地形について」 で書いた通りの地形といえる。



追記「狭くなった秩父郡」



秩父郡矢納村  →児玉郡矢納村(1890・明治23)
秩父郡白鳥村 風布・金尾 →大里郡寄居町(1943・昭和18)
秩父郡吾野村  →入間郡吾野村(1921・大正10)
秩父郡名栗村  →入間郡名栗村(1921・大正10)
(男衾郡木呂子・勝呂・木部・靭負 →比企郡竹沢村(1889・明治22))

上記の通りだが、さらに時代をさかのぼると、秩父郡はさらに広かったことも想定され、昔の「知々夫国」に行き着くのかもしれない。

「その2」として、平野部における郡域の移動をとりあげたいのだが

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