市川市月の桃太郎と猿・犬・雉

幕末に武蔵国幡羅郡江原村(現深谷市江原)に生れた俳人、市川市月は、絵も描き、気の利いた物語なども書きそえた軸物が多数あり、その洒落心などが、地元では愛好されている。

昔話の桃太郎を描いた軸物では、猿、犬、雉の三匹の意味について、次のように書く。

三疋の禽獣は 悪はさる 魔はいぬ 災はきじと云の謎
心の鬼の亡る時は万の宝も掌の内にとり込し肆(いちぐら)に栄ん事疑ひなし

悪は去る(猿)、魔は往ぬ(犬)、災は来じ(雉)という謎かけだというのだが、
「来(き)じ」とは方言的な言い方である。「来(こ)ない」というべきところを関東地方では「きない」というが、そのいわば文語表現が「来(こ)じ」でなく「きじ」というわけである。したがってこの「きじ」と雉をかけるという発想は、そうした方言を使う地域の人でなければ思い付かない。市川氏本人が考えた洒落なのだろう。

肆(いちぐら)とは、市座のことで、市で商品を並べ置く所の意味らしいが、「栄ん事疑ひなし」というわけで、蔵の中の財宝も増えてゆくという、まことに縁起の良い話である。縁起の良い文や絵なので、この地方の人は、これを床の間に掛けて飾ることを好んだのだろう。
「いちぐら」の「いち」は市川氏の市でもあり、市川市月は地方で句会があれば主催者や賛同者として必ず名を連ねた人だった。
市川市月 桃太郎



話変って「猿」をふくんだ謎解きをもう一題。
ぬえ(鵺)という伝説上の怪獣があり、尾は蛇、手足は虎、頭は猿で、蛇(巳)・寅・申で「みとらざる」ともいう。親の死に際を看取ることができないという意味であり、家族に巳年生れ・寅年生れ・申年生れの三人が揃うと親の死に目に会えないという俗説になっている。
(ちなみに、鵺は、胴は狸で、声は虎鶫(とらつぐみ)に似ているらしい)

鵺を退治したといえば源頼政だが、もし平安時代の京都で「みとらざる」という言い方が成立していたとすれば(可能性は低いかもしれないが)、誰にも看取られずに死んだ者たちが化けて出たのが鵺なのではなかろうか。都では、行き倒れの多かった時代であったし、官人たちも親の臨終の場にいると死穢のために1年間は出仕できずに出世に遅れることになるので、人の死に目に遭うことを避けた時代である。

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別府沼

貴重な写真。
熊谷市西別府の別府沼。台地の北の縁の下がったところに道路があり、さらにその下に細長い沼がある。道路から西北西をのぞむ。沼の奥が湯殿神社。神社の先が後に発見される幡羅郡郡家跡である。昭和40年(1965)ころの写真で、豊かな水を湛えていた。
別府沼

沼の岸の道で遊ぶ子供たち(同上年ころ)
別府沼の岸

別府沼に群れる白鷺(昭和50年代頃か)
別府沼の白鷺

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地方の枕詞

枕詞とは、和歌の修辞法の一つであるが、「久方の 光」「烏羽玉(うばたま)の 黒髪」などというのもある。
その起源は上代以前のもので、地名を述べる前につけたのが始まりだろうとされる。「八雲立つ 出雲」「空みつ 大和」「衣手 常陸」など、それぞれの意味の詳細は諸説があるが、おおむね、土地や土地の神を称え鎮める、国褒めや鎮魂のための詞だったようだ。記紀万葉や風土記などでよく見られるが、風土記では常陸国や出雲国など一部しか伝わっていないのは残念である。

中世以後の文献で枕詞が多用されているものに、『倭姫命世記』がある。伊勢の皇大神宮の遷座・遷幸の経緯が書かれ、各地の地名に枕詞が冠せられている。神の鎮まる土地を賞讚する目的であるのだろう。著者は、伊勢の神宮の神官らしい。
その後は、枕詞は、歌人たちではなく、神官たちに好まれたといえるかもしれない。
さまざまな枕詞を収集するとしたら、地方の神官たちの書き残したものなどを当ると良いのかもしれない。

その一例として、明治11年の、旧武蔵国幡羅郡原之郷村の楡山神社の氏子が、伊勢参りと西国の旅に出るときの御朱印帳があり、同社祀官の書いた序文の中に、枕詞らしきものが、4ページで11例ほどある。そのうちの地名については3例。

かすみひく原之郷
 源氏物語で山の麓の高台の地を原と呼ぶ例があるらしく、山の麓近くなら霞棚引くということもあるだろうから、そこからきた修辞であろうか。実際の原之郷は、大きな扇状地の端の段丘のあるところである。

神風の伊勢
 これは、よく知られた枕詞である。

いづ鉾の讃岐
 普通は「玉藻よし讃岐」ということが多い。「いづ鉾の」の意味は不明。

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