村の境界

(2月に載せたものを5月に改めた)

昭文社の「深谷市」の地図を入手したところ、平成元年の発行だった。昭和末期の宅地開発より以前のものが欲しかったのだが、それでも少し古い時代の名残りを見つけることができる。
現在は道路などが大字の境界となることが多く、境界線は直線的なのである。しかしこの地図では、境界線が複雑な曲線のところがかなりあり、上増田と蓮沼の境界もその一つである。
上増田2

今の上増田の範囲はGoogleMapでは、道路沿い、または福川(旧丈方川)沿いである。次の図の通り。
上増田

上増田の南の宮ヶ谷戸では、昭文社の地図では東南部が曲線になっているが、これも今は道路に密着した直線である。この曲線は、戦後の河川改修以前は、丈方川(今の福川)の流路だったことは判明している。
上増田と蓮沼の境界も、川の跡であろうか?
今昔マップ」を見てみよう。明治時代の地図である。
菱沼

宮ヶ谷戸の東南部の境界には、前述のように、川があるのを確認できる。
上増田と蓮沼の境界には、細長い沼がある。これに接する蓮沼の小字の名は「菱沼」(別の地図による)であるが、沼の名でもあろうか。ヒシヌマとハスヌマは音韻交替のようにもみえるが、詳細は不明。
さて、この沼の水源は何であろうか。雨水だけではなく、伏流水などが湧いて出たものとも思える。細長い沼の東は沢となって丈方川に落ちていたようでもあり、元は丈方川の支流ということになる。上流もあったとすれば、小山川からの分岐かもしれないが、上増田と蓮沼の境界の西は、新井、上敷免の2村と明戸との境界になり、境界線の先は西島の上唐沢と下唐沢の合流点あたりになるが、となると丈方川の派流ということになるが、傍証になる別の史料があるかというと、ない。

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幡羅郡の範囲

musashi.jpg

奈良時代から平安初期の武蔵国で、最も人口密度が高かったのは、どの地域であろうか。
図は、武蔵国の21の郡を表し、各郡内の「郷」の数を数字で書入れたものである。
郷の数は、平安初期の和名抄によるもので。一つの郷は50戸程度から成るというのが定説なので、郷の数が多ければ、人口も多いことが想定される。
元の図は、府中市関連のサイトから拝借したものだが、これは明治初期の郡域の地図ではないかと思う。他には、昭和の市町村図から作成したものが多いようで(秩父郡が狭くなっているのでわかる)、それらよりは古いという理由で、参考にすることにした。

図で見ると、面積に比較して郷の数が多いのは、幡羅郡、次が那珂郡であろう。人口密度も同様になるはずである。幡羅郡は南北に利根川と荒川の河川流域を含むので、それを除けば面積は更に狭く、人口密度は更に高くなる。
人口密度が高いということは、都市のようでもあったことになるが、幡羅郡がそれに該当するかといえば、肯定的な材料はない。したがって、平安時代初期以前の幡羅郡は、この図より面積が広く、郷の分布もまばらだったとされなければならない。このことは、幡羅郡に大都市の存在が発見されない限り、動かし難い。

そうしたこともあり、吉田東伍の地名辞書では、幡羅郡の範囲を、後の埼玉郡や榛沢郡の領域の一部を含んだとしている。幡羅郡の8郷のうち、上秦郷と下秦郷は、後の埼玉郡域とし、この2つの郷は、ハタ郷という1つの郷から、再編されたものであろう。ハタ郷の郷名は、他の郡にも見られる名で、大和国高市郡波多郷(竹内宿禰後裔氏族の波多氏の本拠地)を始め多数あり、どの地でも2文字の漢字で表記したと考えて差支えないだろう。幡羅郡でも、字は不明だが波多、幡多などの2字で表記したはずである。
また、吉田東伍は、8郷のうち幡羅郷と霜見郷を、後世の幡羅郡から榛沢郡にかかるものとしている。幡羅郷の西は氾濫川の唐沢川までだろうから戸数の影響は少なかろう。霜見郷については、今回は触れない。
図で示した近世の郡域の範囲には、8郷ではなく、いわば2郷半を除いた5郷半くらいが、平安初期には存在したものと思われる。この数なら、極端に人口過密ということにはならないだろうが、それでも郡内にはまだ湿地帯などもあり、人口密度は高いほうだといえる。幡羅郡は、荒川の扇状地が幾重にも重なった地で、水源が抱負だったことから、古くから人口が多かったとしても不思議はない。
幡羅郡の東部が埼玉郡に編入されたのは、中世の成田氏の影響だろうと吉田東伍はいう。成田氏は「幡羅の大殿」とも呼ばれ、本拠地はハタ郷であったので、それにつられて幡羅をハタラと読むようになったのだろうともいう。
郡の西部については、深谷城や深谷宿の影響で榛沢郡となったところがあったのだろう。
8郷は平安時代初期の郷の数であって、奈良時代以前はわからない。

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郷土史のために(関東の村の場合)

小さな村にも歴史はある。
という書き出しで、半ページほどの文章を保存しておいたが、見つからない。
小さな村にとっては、有名人が訪れたとか、通り過ぎたというだけで、一つの事件ではあるのだろうが、それが地域の歴史だろうか。都から郡司や役人が派遣されたというだけでも同様だろう。
そこでいろいろ考えてみるわけだが、小さな村で何をどう書けば歴史になるのかは難しい。ほんとうにゼロから始めるとなると、難しいのだが、とっかかりのために、少し考えてみた。

1つには、
ゼロから始める村の歴史とは、自然地形から始めるのが自然だといえる。気象条件も同様。
そこにしかない山や川、変化に富む日本の地形の歴史は、そのまま郷土史の一部分である。
岡や台地の配置、川の流れる方向などが、地図上でよく似ている土地があれば、別のことについても、類似があるかもしれない(地名の類似については、地形も少しは似ていれば良いが、そうでなければ無理に拘らないほうが良い)。
一つの山や川などは、より広い地域に関わり、交通や流通が生まれる。

大陸の自然は大規模で、どこまで行っても均質なところが多く、地形を意味する言葉の種類は少ないらしい。その代わり人々の階級や階層が細かく区別される。日本の小さな村では、村人の区別は少なく、複雑な地形には豊かな名称があり、八百万の神々もあり、外との交流を担当する民の種類も多い。
気性条件だけでなく、四季のありかたの問題もある。

2つめ。
東日本と西日本を比較する研究書などから、東西で好対照の項目を抜き書きしてみると、関東の村でもすべてが東日本の典型例に一致するわけでもないことがわかる。一致の度合の高い低いもある。なぜそうなっているのかを考察してゆくと、見えなかったものが見えてくるかもしれない。

3つめ、
古文書などが残っていれば、取り上げるべきだが、歴史事典などは参考にならないことが多いかもしれない。江戸ブームは続いているが、ほとんど町人文化のことであり、村については、これからなのだろう。町人文化はほとんど村のハレの文化の変形なのかもしれず、それらの変形についての対照表を作ることから始めても良いかもしれない。

4つめ、
古い時代の渡来人については、次の発言が参考になるだろう。
『シンポジウム 日本像を問い直す』(小学館)より
p198 森浩一
「(前略……)考古学は、日本のどの地域にたいしても歴史の復元作業(注:地方史のこと)でかなりのお手伝いができると思うのです。…… そのなかで私がいつも不思議に思いますことに、渡来人の問題があります。昔は帰化人といっていました。…… 大人数の渡来系の人たちがいたのは事実であり、ある意味では在日の外国人です。そういう人たちはいったいその後どうなったのか。いつまで中国人であり、いつまで百済人であり、いつまで高句麗人であり、その後どうなっていったのか。…… 渡来系の人たちもいつのまにか日本流の生活をしているわけです。」
大林太良 p211
「…… 森さんのお話にも出た渡来人の問題ですが、これは武蔵国には高句麗系の渡来人がたくさんいたとか……とかいったことがあるわけですね。こういう渡来人がそれぞれの地域の民俗にいったいどういうかたちでつかまえることのできるような痕跡を残しているのか。こういうような問題というのはさっぱり検討されません。」

森氏のいう「いつのまにか日本流の生活」ということについては、万葉集に秦氏の子孫と思われる人たちが短歌があり、相聞歌はごく普通の歌、つまり大陸にはほとんどない(朝鮮半島の古い時代には残存していたという説もあるが)招婿婚を想わせる男が通うときの歌が多い。
「地域の民俗」……一つには女性の存在が見えないといけない。渡来系女性の活躍はあったのか。子供についても同様。渡来した母と、既に日本語を使う子供たちとの関係やいかに。どこで日本語をおぼえたか。
(以下、追記の予定)

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蝦夷と東国の話

岩手県の作家・高橋克彦氏によると、近年の東北地方の人たちは、自分たちを、平安時代以前の蝦夷(えみし)と呼ばれた人たちの末裔であるという歴史認識に到達しているとのことである。蝦夷とはアイヌとは異なる人たちのことであり、従来は両者の区別があいまいだったが、新しい資料と地元研究者により、両者が異なる民族であり、平和的に共存していたとする見解が主流となったという。(半藤一利氏との対談『日本史はこんなに面白い』)

蝦夷とは何か。中国では夷という字は、辺境の下等民族という意味があるそうだが、日本の蝦夷とは、異民族というほどのことではないのだろう。都から遠くに住み、文化や習慣が多少異なっていたようだが、蝦夷の子孫といわれる安倍貞任と源義家とのやりとりの和歌もあり、弟の安倍宗任は京へ招喚され申し開きをしたという話もある。何とか言葉は通じたのだろう。和歌のやりとりをするのだから、異民族ではなかろう。

東北地方では物部氏の勢力も強く、高橋氏によると、物部氏の出身は出羽の鳥海山の麓だという伝承もあるらしい。平安時代初期の関東地方、武蔵国にも、蝦夷の反乱や物部氏永の乱の記録があることを聞いたことがある。関東の人たちも、程度の差こそあれ、蝦夷の末裔であり、あるいは蝦夷とそれ以外の混血の末裔なのだろう。最近のDNA解析などからも、西から東への地方ごとの差はなだらかである。

蝦夷とそうでない土着の民との違いは、高橋崇著『蝦夷』などによると、大和の勢力に対し、抵抗したか、早めに妥協したかの違いにすぎないらしい。妥協といっても、取引ないし交易の一種とみれば簡単であろう。総じて外来文化を受け入れることには寛容な民ばかりである。後になって異をとなえると、もとにもどって蝦夷にされてしまうのかもしれないが。

古事記の国譲りの直前の物語では、高天原から派遣された男たちは、現地で婿になって報告をせず、ということの繰り返しであり、さらに次の男が派遣されてくるのだった。天に弓を引いた男(天稚彦)もあった。
ある時期に列島に統一国家を作ろうと発想した人たちがあり、それは成功した。
統一のために諸国へ国司が派遣されるようになるが、国司の権限とは、外交権だけで、内政の実質は在地の豪族たちにあったという例が多かったらしい。それは埼玉県史通史編でも文献を引いて明らかにしてあった。
森浩一・網野善彦『』でも、森「在地の力を相当残したことが、律令制のさまざまな施策が一応は成功した理由かもしれません」、網野「そうだと思います。律令制は郡司クラスの地域の豪族、有力者の力に支えられていたのでしょうね」と語られる。
外交権とは、1つは中央政権に対して代表としてふるまうのだが、勤務評定が良くなるような報告をするものらしい。諸国どうしの関係といっても商業権は在地にある。問題は東北との関係で、中央の意向を国司が東北に対して執行するのだろうが、在地の協力については難しい問題ではある。

最初に書いた高橋氏の対談についての話に戻るが、1つだけ問題に思う点がある。
東北には大国主命をまつる神社が多く、古い時代に出雲から東北へ移住した人が多かったろうという発言について。山陰や東北が関係の深いことは確かなのだろうが。
移住した人々は、まづ移住した土地の神々を感じとり、その神をまつり、庇護を被るというのが最優先であろうと思う。でなければ子孫はすぐに絶えてしまう。崇神天皇が三輪山の神の祭祀を重視したのと同様である。
仮に、移住者が出発地の神しか祀らず、移住のたびにそればかり繰り返していたとしたら、日本の神はより一神教に近いものとなったろう。各地に分散した人々の中には、子孫が絶えてしまう系統があり、するとその神も絶え、神々は減るばかりで増えることがない。それを数百年以上も繰り返せば、神々の数は著しく減少することを避けられない。近代の日本の信仰が、やや一神教的な性格をおびてきたとするなら、新しい神を発見できないでいるからだろう。
新しい土地には新しい神の発見があったはずである。それらの神々には、独自の名前があったのだろうが、近世の国学以後、地方の神を、記紀に登場する神名に同定したり、月読命を須佐之男命と同一としたり、個別の山ごとの神々が、同じ一つの大山祇の神の名になったりなどがあるのだろう。
東北地方の大国主神とは、国土平定以前の神という意味合いが大きいのではあるまいか。、国造りの神なので大国主神という名になったのだろう 大国主神をまつる神社では、薬師神社という名の神社が目立つが、薬師とは、聖徳太子以来ということかもしれない。
もともと関東の平氏や奥州の清原氏などが自身の氏神を勧請して歩いたという話は聞かない。源氏の八幡宮さえ源義家の元服伝説以後の話かもしれない。八幡宮は武神であり起請の神でもあるが、鎌倉の鎮守ではなく、東国の鎮守といった意味合いで定着したのではないか。なぜなら東国という範囲がひとくくりのものとして認識されたことはそれまでなく、東国全体の鎮守もなかったからである。

「えみし」とは、もとは勇敢な人という意味で、蘇我氏ほか大和の貴族の名前にも使われた。関東には勇敢な人たちが多く、九州を防備する防人は関東の兵が主体であるといい、奥州の蝦夷の平定に際しても主力は関東の兵であるという。西の兵は戦死者が出るとすぐに死の忌みだといって閉じこもるので当てにならないからだと書く本もあったが、しかしそれ以前に、関東の勇敢な兵たちは、弱そうな西の軍にいとも簡単に平定されてしまったともいう。そして苦役ともとれる九州の防備や東北征伐に従ったという。これらはやはり奇妙な解釈だと思うが、あとで考えてみよう。

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『百姓の一筆』を読んで


現代教養文庫の一冊『百姓の一筆』(田中佳宏著)は、旧武蔵国幡羅郡エリア(埼玉県妻沼町)の人の本では、最も面白い本ではないかと思う。著者は、歌人でもあり、農業を営んでおられ、農業問題、食糧問題を考えさせられる本である。

1か月ほど前に読んで、いま目次をぱらぱらと見ると、
「ダイコンは工業では作れない」という見出しの章。これはつまり、農作物というのは、いくら合理化を進めても、米なら(普通は)年1回しか獲れない。田の面積あたりの収穫量も、格段の進歩があるわけではない。工業製品と同列に扱うことは論理の倒錯であるということで、そんな内容だったと思う。
「ミミズが生きていけない土」 これは、増産のための化学肥料や農薬が、土を変えてしまっているということらしい。増産しなければ、農家の暮らしも、食料を購入する他の国民の生活も現状では成り立たないのではあるが。
そのほかの見出しについては、短かすぎて内容を思い出せるものが少ないのが残念である。新聞連載のときの制約だったのかもしれない。

農業がどれだけ重要なことかを、政治家は理解できているのだろうか。
食料自給率の問題も、当時から大きな問題だった。

当時というのは本の執筆当時のことで、1985〜88年、日本人の多くがバブル経済に浮かれていた時代である。坪40万円の土地でダイコンを作っていたのは大都市圏のことだが、当時は、地方でも市街化区域なら坪20万円くらいだった。今は1/3以下に値下がりした。今後は更に値下がりするに違いない。市街化でなければ更に安い。
市街化以前は、坪1万円で1反300万円、これは江戸時代に1反10両だった例もあるので、10両=300万円とすれば、江戸時代から大きな変動がなかったといえる。しかし農業をやめて田畑を手放す人が増えた今は、1反50万円、坪で2000円以下になっているらしい。そんなに安いのなら家庭菜園のために買おうかと思う人もあるだろうが、農家でなければ買えない。おそらく今は外国企業が食指を伸ばしているに違いない。

食料は、欧米先進国では戦略物資の一つとしてとらえているようだ。
明治以来、追いつけ追い越せで効率優先でやって来た日本だが、真似たのは上辺だけで、そうした考え方には及びもつかない。
かつての日本では米は貨幣に準じるものだった。今は、輸出産業のために、外貨の調整が必要なときに、農作物の輸入を増やすというのも、農作物を貨幣とみなしているわけで、昔と同じだといえなくもない。しかし昔の貨幣は金(きん)そのものだったが、今は投資や賭け事のチップのようなものになってしまっているようだ。

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村の面積の測り方

ここでいう村とは、今の大字のことだが、その大まかな面積を測るには、地図にマス目を描いて、マスの数を数えるしかないだろう。

最初に、地図を用意する。
Google Mapで大字名を検索すると、地図上に赤い線で境界が表示されるので、ちょうど良い。これを大きく表示し、画像キャプチャ機能で、画像ファイルに保存する。(江戸末期を想定して境界を若干修正)。
次に、地図画像の右下端の100メートルのスケールの長さを見ると、55ピクセルなので、50ピクセルになるように画像を縮小する。(地図画像を縦1100ピクセル(2000m相当)にトリミングし、それを縦1000ピクセルに縮小すると、目的に適う画像サイズになる)。
次に、1マスが50ピクセルの方眼のマス目画像を作り、地図に重ねる。1マスが1ヘクタールになる。
(面積をより正確に測るためには、1マスを小さく、例えば5ピクセルにすると良いかもしれない)

次に、マスの数を数える
1) 境界の内側に収まるマスを数える。
 5マス連続×40 = 200
 その他のマス = 23  計223。
2) 境界を含まない外側のマスを消し、
 境界ライン上のマスを数えると、84。 その半分の42をとる。(画像参照)

合計概算 223 + 42 = 265 ヘクタール。およその数字だが、265町歩である。




さて、江戸時代のある文書から、村の田畑の面積を書き出してみると、
 田  18町 16歩
 畑 119町 6反2畝余
田畑合計、137町6反余。四捨五入で、138町歩。
さきほどの265町からこれを差し引くと、127町余、これが田畑以外の土地になる。

田畑の割合いは、全体の約52パーセントにあたるが、それでは少なすぎるだろう。
田畑の測量では「延び」があるので、実際は60パーセントを越えるだろうし、「竪八横九」の通りとすると70パーセントくらいになる。

田畑以外には、屋敷地、山林、除地、道路、土手を含む川や堀、墓地などがある。

(次は、使用したマス目画像。透過型のGIF)

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『北武蔵の地域形成―水と地形が織りなす歴史像―』という本

『北武蔵の地域形成』--水と地形が織なす歴史像--
地方史研究評議会編 雄山閣 2015 \6800

偶然にBook_Offという店で(格安で)入手。
北武蔵、主として熊谷市と行田市の範囲、その周辺の少しを扱っている。3部構成、13編の論文。
いくつか読んで見た。

荒川利根川と地域拠点
「古代河川交通と森林開発」
律令制下の時代、郡家の建物にヒノキが多数使われるが、自生のヒノキは標高500メートル以上の山地にしか見られないことから、用材は運搬されたものだろうという話。
榛沢郡家跡から、運河らしき堀の跡が発見されている。用材は秩父北部の山地から、身馴川(小山川)を下って、どこかで運河へ入り、榛沢郡家まで運ばれたであろうと。
「藤原宮・泉官衙遺跡・徳丹城などで、建設資材搬入用と考えられる運河が発見されている」(25p)とかで、まっすぐ直線的に造られた運河も多いらしい。藤原宮の運河といえば、2008年に新聞記事について書いたことがある。→ 藤原宮の運河
榛沢郡以外の郡家、幡羅郡などでも、同様の方法で材木が運ばれたと推定するしかないが、その経路については、想定できるだけのじゅうぶんなデータがないのだろう。
ちなみに、近世の丈方川が、皿沼城の南から東方城の北まで、ほぼ一直線であるのは、築城時の資材運搬用に変造された可能性があるのではと、かねがね思っていたのだが。
また現代のように金さえ払えば材木は手に入ると思ったら大間違いで、厳格に地元ルールに従うのは当然として、樹霊をどう扱ったのかは、すぐにはわからないだろう。

湧き水と生産生業
「北武蔵野酒造業と関東上酒試造」
領域意識の形成と展開
「近世後期、熊谷地域における改革組合村」
下奈良村の名主吉田家の事業や公儀への協力を中心とした話。靴里Δ舛痢峅革組合村」を先に読んだら、豪農吉田家の収入源について、織物の売買や金貸業などしか書かれず、不審に思ったが、兇里曚Δ鯑匹爐函大規模な酒造や酒販売を営んでいたようである。
幡羅郡では、今の深谷市の範囲では畑作地帯が多いのだが、熊谷市方面となると、広大な田園地帯が広がり、石高1500石以上の大きな村々が多数隣り合って連続し、多数の豪農たちがあったろうことが想像される。しかしこの地域は、石高に比較して鎮守社が小規模である村が目だつのは、何か事情があるのだろうか。
また、江戸時代の豪農というより、既に近代的な産業経営の時代になっているようなので、近代であるなら福祉方面の取組みへの照射が必須だろう。

兇里覆で
「近世荒川扇状地の河川と湧水について --忍領の事例を中心に--」
「河川」については、今の熊谷市の荒川北岸一帯(荒川新扇状地)には、放射状に小河川(星川など)が多くあり、荒川が幾度も流れを変えてきた名残川であろうという話。後世の成田用水などは、古い名残川の跡を利用している部分が多くあるそうだ。
ちなみに、荒川旧扇状地とは、三尻、別府、幡羅、あるいは榛沢郡など、低地との高低差がはっきり確認できる場所がある地帯をいうようだ。幡羅(原)とは高低差のある地形に由来する名称であろう。榛沢郡では「岡」と言ったようだ。
「湧水」については、江戸時代の文献からピックアップした一覧表が掲載されている。深谷市は原郷の一例が載り、全21例のリストは少ないかもしれないが、対象の文献は新編埼玉県史や新編武蔵風土記稿など活字化されたものが主であり、村々の文書には未着手のためなのだろう。
(同書の別の部分で、荒川新扇状地と荒川旧扇状地の区別はあまりて重要でないような書き方をしていたが、幡羅(原)の地名の語源や中世以前を考慮すると、重要になってくる。)

村人たちによる湧水の管理方法についての研究も書かれる。
近世文書における湧水を意味する語は、多数あるとのことで、たとえば
  「出水、湧水出水、湧出水、湧出する水、湧水、出泉、清泉、清水」(同書)。
 せんだって「大里郡神社誌」を調べたときは、「出水」は探さなかったが、今見たら用例はなかった。調べたときは電子データがあるので、「湧」の1字を丹念に探したり、「池」「沼」「泉」などを見つけては前後を読み入った。記事にはしなかったが、小字名にそれらしいものがいくつかあり、某末社の「清水神社」なども気になる。ともあれ、水の湧く場所は聖地と見なされ、神域となっていったところは多い。
この「河川と湧水について」の論は、当ブログと関心領域が重なり、興味深いので、あとで再読してみよう。

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武蔵国幡羅郡の範囲と人口

武蔵国幡羅郡の奈良平安時代の人口を推定してみよう。

参考 wikipedia 近代以前の日本の人口統計
ここに記載の鬼頭宏氏による武蔵国の人口から、和名抄の郷数割(6.7%、8/119)で計算すると、
 奈良時代 武蔵国:130,700人 幡羅郡:8750人余
 900年ごろ武蔵国:257,900人 幡羅郡:17200人余。

これは大変な数の人口である。

江戸時代の人口と比較してみよう。天保期の幡羅郡の範囲の戸数を調べて見ると、小村2村が不明だが、55村で3657戸。不明分を考慮しておよそ3700戸。1戸5人として、18500人となる。(このデータは新編埼玉県史付録の冊子をOCRして、配布目的でよく校正したつもりのもので、CSVエディタのマクロで計算した。)

既に平安初期に、江戸時代とあまり変らないといっていいほどの人口に達している(!?)。
江戸時代には原野はほぼ皆無のこの狭い(*)地域で、土地は開墾し尽くして、やっと18500人を養っている地域である。
平安初期に17200人とは、何かの間違いなのだろうか。

さらに当時は、南の大里郡との郡境に荒川が流れていたとされるので、郡境に広大な河原が広がっていたことを想定すると、幡羅郡の面積はさらに狭くなる。人口密度は江戸時代よりも大きかったともなりかねない。
幡羅郡は、古墳時代以前から人口密度の多い地域と思われるので(土着勢力が多いのだろう)、他の地域のように奈良時代から平安時代にかけて2倍には増えないという想定もできるが、わからない。
同じ鬼頭氏のデータで、1600年(江戸の町ができる前)ごろの武蔵国は708,500人。700年前からほぼ3倍に増えているのに、幡羅郡は700年前に人口頭打ちということになってしまう。
 900年ごろ武蔵国:257,900人 幡羅郡:17200人余。
 1600年頃 武蔵国:708,500人 幡羅郡:18500人(天保期)


やはり奈良平安時代の幡羅郡は、範囲を広げて考えなければ、話にならないことがわかる。

吉田東伍によれば、当時の幡羅郡は広範囲であり、
江戸時代の榛沢郡域である今の深谷市の旧深谷町、藤沢地区、武川地区を含め、
埼玉郡域である、今の熊谷市の中条地区、旧成田村、などを含めるべきとしている。妥当であろう。成田村に館を構えた成田氏は「幡羅の大殿」と呼ばれている。この「幡羅」はハタラと読まれたろうと吉田東伍はいう。
近世の郡域では平安時代の人口が多すぎることを、既に氏は認識していたと思われる。
郡域変更について想像できることは、幡羅郡の東側では、埼玉の国造勢力の衰退に前後していくつかの郷(下秦上秦等)が郡を移動し、後世に成田氏の埼玉進出とともに元に復したのかもしれないとか、西側では、後世に児玉榛沢方面の武将が進出してその郡域を広げたかもしれない、ということもあるだろうか。

余談だが、これだけの人口密集地帯には、「渡来人」のための居住スペースを多く提供するのは難しいのではないだろうか。他に人口の少ない地域は数えきれぬほどあるであろう。
世界史的には十分中世の時代である。律令制は外国との交流や田園開発などの文化面等の面では評価できるが、政治的には台頭する地方(中世的世界)を押さえようとする反動という側面もあるのではないか。

※ 江戸時代の幡羅郡の広さは、昭和30年に人口5万人ほど(深谷町2万、他3万)で成立したときの深谷市より2、3割程度大きいだけの広さである。

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日本煉瓦製造工場と小山橋

明治中期に、埼玉県幡羅郡新井村(現深谷市新井)と榛沢郡上敷免村(現深谷市上敷免)の境界付近、小山川の南に、日本煉瓦製造株式会社の工場ができ、明治21年に創業を開始(事務所は上敷免)。東京駅の煉瓦はここで作って運ばれたという。







写真は、後に小山川に作られた小山橋の開橋式の模様で、川の北岸から南の煉瓦工場の煙突が見える。
右の地図は、昭和30年代のもの。深谷駅から日本煉瓦会社まで、鉄道(日本煉瓦専用線、通称新井線)が通っていた。図の最上部に「小山橋」の記載が見える。

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