長頭と短頭

頭長幅指数の分布

 子どものころ、我が弟の頭は、正面から見ると普通なのだが、横から見ると、やけに大きく見えたのだった。後頭部が良く後ろに出ていて、前頭部の額は、上部がよく出ているが、私のほうが出ているかもしれない。兄弟なので、よく似ているらしい。

 頭が前後に大きいのを、専門用語では「長頭」という。左右の幅と前後の長さとの比率(パーセント)、「幅/長」が、81以上を短頭といい、76以上が中頭、76未満が長頭というそうだ(小浜基次による)。日本人の頭は、短頭から中頭までの広い範囲に分布し、単一民族にしてはパターンが非常に多様であることから、混血民族だろうとする説がある。

 自分の頭を計測してみようと思ったが、たまたま形の堅い冠り物があるので、それを測ってみると、およそ幅15.5cm、長19.5cmほどだが、後頭部はもっと低い位置が出ているので、最大長は20cm以上はある。20.5とすると指数は75.6の長頭である。この数値は、現代日本人の中でも大きいほうで、小浜基次著「形質人類学から見た日本の東と西」によると、「混血アイヌ」に近い。ちなみに父もほぼ同形であることが判明している。

 関東生れの長頭なので、やはり蝦夷の末裔かとも思える。しかし、山口敏『日本人の生い立ち』などによると、同じ日本人でも時代によって変化してきた経緯があり、中世から近世にかけては、発掘物などから、日本人は長頭の傾向があったという。同じ時代には体格も小柄になっている。一説には、通婚圏が狭くなった時代の特徴ともいうが、長頭については西洋では逆のデータがあるので、そうでもないようである。

 徳川の15人の将軍の遺骨の調査によると、どの将軍の容貌も、当時の一般人とは異なり、頭が大きく、長頭で、鼻が高く、顔は細く面長だったそうである。大きな長頭ということでは蝦夷と同じ傾向だが、面長で歯も出ていないのは、近代人のようでもある。
 ちょうど喜多川歌麿の描く美男に似た顔立ちである。ただし歌麿の絵は、短頭で、頭は小さい。現実よりかなり小さい頭に顔の表情を描くために、後頭部はより小さくなり、短頭ばかりということになってしまうのだろう。

図は前掲の小浜氏による分布図。畿内と周辺・瀬戸内地方に短頭が多い。

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東と西、国有林の分布

国有林の分布

 東日本と西日本の特徴を示す地図。国有林の分布図である(林野庁サイトから引用)。
 上戸と下戸の地図によく似ている。しかしこの地図は、1000年以上の長い年月をかけて成り立ったものではない。概ね明治時代の短期間に、政治の力によってできあがったものである。

 日本は平地の少ない山国である。山林は東にも西にも普く分布している。西日本には私有林が多いだけの話だ。
 東日本では、戊辰戦争のときに奥羽越列藩同盟が敗れ、その地域の村の入会地などの山林が、明治政府によってことごとく没収され、国有林となった。明治時代以後の「貧しい東北の村」のイメージは、資源でもあった山を失ったこのときから出来上っていったものであると、『風土記日本』(宮本常一他編)という本で指摘されている。

 上戸下戸の地図と比較して、微妙に異なる部分もある。
 東では、関東地方で少ないのは、平野が広く開発が進んだこともあろう。大正時代以後の変化もありうる。
 西では、岐阜県北部の飛騨地方に多いのは、「飛騨の匠」で知られる伝統的な産業との関連か。九州南部で、鹿児島県西部の薩摩地方が少ないのは、薩長政権といわれる政権の意志によるものだろう。

 気になるのは、江戸時代において「山林は将軍のものである」という考え方や意識があったと、ある学者の本にあったのだが、その背後にあるものはわからないが、明治初年に村の入会地(山林)が上地されることに抵抗が少なかった原因の一つにはなったのだろう。そうした意識は、鎌倉の将軍以来、西国にはあまり影響を及ぼさなかったものなのかもしれない。。

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東と西、上戸と下戸

全国酒豪マップ

 軽い話題を一つ。
 日本列島では東日本と西日本で、人種が異なるかのような対比を示すことがある。そのことについては、司馬遼太郎、大野晋、網野善彦など多くの著作がある。
学者の本ではあまり触れられることはないかもしれないが、酒についての上戸・下戸の問題がある。
 日本経済新聞社のサイト(全国酒豪マップ)で、県別に色分けされた地図が示されていた。

 この図は原田勝二氏による遺伝子分析に基づいたもので、酒に強い遺伝子の出現数を色分けしたものとのこと。出現数の多い県は濃い赤色になっている。
 一目瞭然、フォッサマグナを境に、東は強く、西は弱い傾向である。ただし沖縄・南九州と南四国は、東日本と同じ傾向であり、これは冒頭に述べた学者の本でも指摘されている傾向で、俗に、東が縄文系、西が弥生系の文化の残存が大きいともいわれる傾向でもある。「西の稲作文化」という視点でみると、東では米の清酒以前から酒類が普及していたことになる。
(酒の一人あたり消費量を元にした色分け地図もあるようで、概ね似た地図である。)

 しかし、ヨーロッパやアフリカ地方を100とすると、日本人の平均は56という低さであり、世界でもかなり酒に弱い民族である。日本に近いのは中国で59、韓国も71と低い、東アジアは下戸が多いらしい。このへんのところは、下戸の多い民族であるので、社交上、注意を要するところである。

 筆者については、当家の何代か前にかなりの酒豪がいたと聞いているが、自分は胃が弱いため、胃が先に負けてしまうので、酒を「快」と覚えたことはない。

 蛇足だが、埼玉が強く、群馬が弱いのがよくわからない。埼玉では秩父地方が強いとは聞いたことはある。群馬は、かかあ天下のせいでもあるまい。

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屋敷内の墓地

  屋敷内の墓地
 屋敷内(自宅の敷地内)またはその隣接の地に、墓地のある家を、ときどき見かける。
柳田國男によると、関東・奥羽、そして南九州の山村などに多く、その由来は不明だが、「由来の不明のものは一応は(わが国)固有と仮定するの他はない」と柳田は言い、古来からのものの可能性があるという意味で、今後の研究の課題とした。しかし、その後、研究は進んでいないと、高取正男氏はいう(『神道の成立』p171)。

 柳田以後の見解の典型は、日本人は死を不浄のものとして避けるので、屋敷内に墓地を置くのは、そうした不浄の意識が薄れてきた後世のものだろうなどといったもので、柳田国男監修『民俗学辞典』(東京堂 1950)がそうなっているが、高取氏はそれには疑問を呈している。

 古代に外来文化の影響が比較的大きかった北九州や近畿地方などよりも、辺境だった関東・奥羽・南九州のほうが、古来の意識が先に薄れてしまったということでもあるまい。むしろ、東北・関東や南九州に遺っている風習のほうが、より原日本的なものだろうと考えるのが、普通なのではないか。

 高取氏によると、明治時代に、墓地は大字に1つの共同墓地にまとめるようにと、行政当局からの勧告があったという。理由は直接的には衛生上のことで、土葬した墓地の雨水が地下に染み込み、地下水となって付近の井戸から汲み上げられることなどを問題にしたのだろう。行政に従って共同墓地にまとめた大字も多かった。しかしそうならなかった大字もある。
 埼玉県児玉郡のある地域でも、屋敷の側に墓地のある家は多いと聞いたが、旧幡羅郡の当地でも、敷地内ではないが、墓地が近接あるいは接近している家は多い。
 当地では 明治25年に、大字内の全ての墓地の所在地と所有者を書き出した『墓籍帳』が作られた。これは行政の勧告に沿ったものなのかもしれない。しかしその後の墓地の統合は僅かしか進まなかった。その理由については、まだ結論は出せていないが、現在では、火葬が進んで衛生上の問題もないので、従来の墓地群は、今後もあまり変わることはない
だろう。

本来は、墓地が不浄に関わるのは、葬儀と埋葬の後の一定期間だけのはずである。普段は不浄の地ではないので、盆暮れには普通に墓参りをするものである。
ところが、共同墓地の形式になると、他家の葬儀や埋葬がひっきりなしに行なわれるようになる。墓前に報告に行こうと思っても、他家の葬式の跡が見えてしまうので、報告は屋内の祭壇で済ませることになり、墓所は遠ざかりる。こうして墓地が避けられるようになったのではあるまいか。
盆迎えの隣りで、葬儀の痕跡もなまなましければ、禁忌の意識も薄らぐ。

  我が家の墓地
 我が家には、墓地が3つあった。珍しい例かもしれない。
 1つは、現在の墓地で、江戸中期(元禄を少し過ぎた頃)からのもので、当時の新しい分家の墓地と隣接する。両家のその後の分家や孫分家、番頭などの縁者を加え、現在は共同墓地のようにも見える。
【それ以前の古い分家は、独自の墓地をもつ。以後の分家については、元の家と共同の墓地となり、江戸後期の墓地の新設はないようである。他の苗字の家もおおむね同様だろうと思う。】

 2つめは、元禄以前の墓地で、屋敷の東南の角にあった。前述の新しい墓地ができてから、こちらは墓地としては使われず、石の庚申塔や勢至尊が付近に立てられ、前に広場ができ、高札場となり、名主宅でもあるので、村内東部の中心地となったようである。この一角は、昭和40年代末の市街化により、宅地課税を避けて畑とし、石塔は新しい墓地へ移動した。そのとき別の苗字の石塔が1つあり、その苗字の家に返したという。
 別苗の石塔については、文化元年の古文書に、その苗字の家から石塔を預ってくれと書かれたものがあることがわかり、そのときの石塔であろう。文化元年には、分家どうしの屋敷の境界を再確認する文書が多数あり、当家でも過去帳を取りまとめ、御先祖様の再確認やら墓地を整備したりの気運が広まったようである。該当苗字の家でも、墓地を改めるなどして、その際に石塔一基を預ったものだろうと思う。こうした文化元年頃の傾向が、村内だけのものなのか、広範囲のものだったのかは、未調査である。
 元禄以後は、門口に石塔が増えて行く家が多くなり、集落のメインストリートの道端が石塔だらけになりそうなので、それは避けようということになったのではないかとと思う。そのために、墓地を屋敷内から移したのであろう。しかしどの家もそれほど遠くへは移していない。小字の集落内の自分の畑や山林の一部を利用したものが多い。

 3つめは、屋敷の北西の角の墓地で、明治末の測量図にも載るが、地目は山林であり、実質もそうであるが、元は墓所だった。江戸初期以前の最も古い墓地と思われ、当時の本家分家の形態は不明だが、本家を中心とした一家内(いっけうち)の墓所であったろう。当時は、石塔は建てず、屋敷の氏神の背後の山林に埋葬したものと思う。そこは本家の屋敷の西北に当たり、屋敷林の一部であるので、その部分だけ樹木が少なかったということはあり得ない。
旧墓所の森の前に、氏神がある。

  屋敷林とは何か
 こうして見ると、屋敷林は、単なる防風林ではないことは明らかである。
 古い村落ほど、屋敷の背後に森があるのではなく、森の中に集落があるようだと、高取氏は別の本でいう。縄文時代以前のはるか太古に、人々は森の中に住んでいた時代があり、その記憶を保存し、そこに安らぎを得る心性があるから、そうなっているのだという。
 とするなら、屋敷林と墓所とが、切り放せないものであることはよく理解できよう。先祖伝来の森の中に眠りたいと、人は思うだろう。
 平地の少ない山間の地などでは、墓地は背後の山の中幅に設ける例が多いらしい。その形が、平野部に降りて来ただけの話のようにも見える。
 民俗学の宮田登氏の対談の本で、屋敷内の墓地のほうが古いことが前提の発言があった。地域にもよるだろうが、概ねそれで良いと思う。

 江戸時代の直前、戦国時代には、屋敷内に先祖の墓所があれば、この土地を何がなんでも守らねばならないと思うだろう。もし滅ぼされたとしても、先祖と自分の霊は、この土地に鎮まり続け、移住者は手厚く祀らなければならない。屋敷林とはそういうものにもなる。たとえ我が先祖が、いつの時代かの移住者の側であったとしても、祀らねばならないものに違いない。

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