「きりしたん」の問題

【古文書倶楽部2016-9】
宮田登・圭室文雄共著『庶民信仰の幻想』の印象が良かったので、後に 圭室氏の『葬式と檀家』を読んだのだが、これは残念な内容だった。近世初期のキリシタン問題について、今の人権思想の観点から批判しているようなところがあったからである。

この問題で他に蔵書を当ってみたが、NHK歴史への招待シリーズの対談でで山崎正和氏が触れているくらいだった。日本人は好奇心が旺盛で、外国の宣教師の話にも耳を傾けようとした、非キリスト教圏では珍しい存在だったとのことである。それが日本で一時一定の拡がりを見せた原因の一つではあるのだろう。

私はもう一つ別の見方をもっている。神社仏閣に対する人や集団の信仰形態、そして家族形態が、戦国期と江戸時代では違うという点である。
江戸時代の家族は、夫婦とその子供が同居し、子供の一人が配偶者を得て家を継承し、直系の子孫が直系の先祖を祭るのが先祖信仰である。労働は家族単位であり、村の衆議でも家族の代表一人が参加し、一部の例外を除いて家族の菩提寺は共通である。これらはいかにも日本的で安定的な秩序になっているが、夫婦の同居以下ここに書き出した全てについて戦国時代には一般的でなかったようなのである。独立自立した家族を持ちたいという願望は、すでに民衆の中に芽生えていて、そういった願望を満たすような内容が宣教師の話にあったという見方もできる。
江戸時代的な秩序の成立には寺請制度のはたした役割は大きいと思うが、すでに戦国時代はそれへの移行期でもあったので、個人を引き抜くようなキリシタンは時代に逆行するものであったかもしれない。家族を基盤にした江戸時代的な村は、村鎮守のもとにまとまったが、江戸以前には名主(みょうしゅ)の氏神が中心にあった可能性がある。キリシタンを経験しなければ、寺請制度も村鎮守も早くには成立しなかったかもしれない。
西洋では個人の自立が建前になっているが、日本では家族が核となって代表が村の衆議などに平等に参加するようになってゆく。家族の個人個人が別々の、時には対立するような思想をもつことが社会の進歩だとも思えない。少なくとも家族形態においては、近代的な家族が江戸時代には成立したと考えて問題ないように思う。……といった見方をしている。

日本人では、年貢を納めることによって耕作権や土地の所有権は確保されたという認識がある。年貢を誰に納めるかといえば、多くは大名などの武士だったのだが、寺院の領地の領民は、寺院に納めた。寺院には大名のようなところがあり、大名と戦もした。こうした日本の寺院の権限と同じものをキリシタン教団に即席で与えるわけにはいかないと考えるのは当然だろうと思う。

きりしたん禁制の高札は、明治元年にも新政府から出された。当時の特に西日本では、彼等への迫害が非常に多かったと谷川健一の本で読んだ。「尊王攘夷」の特に「攘夷」を、新政府の変節後も字義通りに実践しようとしていた下級武士たちのエネルギーの、その行き場になったのかもしれない。続く寺院破壊も同様であろう。こうした迫害が最も多かったのはどの時代だったかについては、よくよく検討しなければならないのではないかと思う。
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