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武蔵国幡羅郡を「渡来人系」とする誤りについて

このページは文章が雑ですので後に短くまとめる予定です。

補足. 武蔵国幡羅郡を「帰化人系」とする誤りについて

(平成17年執筆、アップを忘れていたもの。一部を修正して平成22年アップロード)

ネット情報は玉石混交である。立派な研究成果もあれば、個人の単なる妄想にすぎないものもある。そんな中で歴史研究といってはみても、単なる地名の語呂合わせでしかないようなものに、価値を見出すことは難しい。

武蔵国の幡羅(はら)郡については、武蔵国北部の利根川と荒川の間の狭い平地に位置し、低地では河川の洪水が多く、岡では戦乱の時代には武将たちが駆け抜けて行き、古い史実を伝える史書などは多くはない。そんな土地にも、それ独自の文化はあるとは思うが、そのことについては後日にして、今回は、幡羅郡を「渡来人系」だとか「新羅系」だとする発言がネット上のあちこちに少なくないようなので、その根拠がまったく地名の文字からの類推でしかないことを、ここで確認しなければならないと思う。

いわれていることはおおよそ次のような内容である。
 幡羅の「羅」の字があるので新羅系だ?
 幡羅はハラと読むが、幡はハタなので秦氏と関係がありそうだから渡来系?
 幡羅郡に上秦郷、下秦郷があったからやっぱり秦氏が関係するか?
 延喜式内「シラヒゲ神社」があり、シラヒゲはシラギに通ずる?(実は白髪神社の間違い)

「北武蔵名跡志」のかんちがい

埼玉県域の近世文書を昭和初期に翻刻集成した『埼玉叢書』は、県内では広く読まれているようだが、それに収録された「北武蔵名跡志」は、秩父生まれの人の書いたものだが、埼玉叢書第一巻の冒頭に掲載されていることもあり、読んだ人も多いのだろう。幡羅郡について、大きな間違いを述べている。(漢文読み下しは筆者)

「幡羅郡はもと新羅郡か、
続日本紀に曰、天平宝字二年八月癸亥、帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人、武蔵国閑地に移し、是に於て始めて新羅郡を置く。宝亀十一年五月甲戌、武蔵国新羅郡人、紗良真熊等二人、姓広岡造を賜う。かく見ゆれど武蔵国に新羅と云はなし。此事ははやく武蔵演路にもいへり。天平宝字四年四月戊午、帰化新羅百三十一人を武蔵国に置く。是も当郡か。
続日本後紀に、承和元年二月戊戌、武蔵国幡羅郡の荒廃田百二十二町、奉充冷然院。かかれば宝亀十一年五月より承和元年二月迄の内に新羅を幡羅と改給ひし也。」


続日本紀のこの部分の「新羅郡」がのちの「新座郡」であることは、今日ではあまりに常識のことなのである。朝霞市の歴史 wikipedia 同書の他の部分まで価値がないというわけではないが、秩父郡に生まれたために、南武蔵の新座郡を知らなかったのだろう。和名抄では七郷一余戸と武蔵国でも屈指の規模と人口があり、自然の湧き水の豊富な稲作にも適した幡羅郡の土地が「閑地」だったということはありえない話である。
引用文中の承和元年(834)の「幡羅郡」は幡羅郡で間違いはないだろう。
ところで「北武蔵名跡志」の褒められる点は、自説の論拠として、続日本後紀という文献を上げていることである。それは見当違いの証拠ではあったが、学問の態度としては間違いではない。後世に検証が可能だからである。
「幡羅郡はもと新羅郡か」の根拠は、どうやら、漢字が一文字一致したということだけである。しかし『埼玉叢書』一巻冒頭のこの書のこの部分の影響が一部に残り続けたようでもある。むろんこの本を読まなくても、漢字一字の一致は誰もが気づくことである。現代人が「羅」の文字の地名を不思議な特別な気分で見るとしたら、単にその字をあまり日常的に使わなくなってしまった生活があるためであろう。明治のころまでは「羅」のくづし字は、変体仮名として、「良」のくづし字と並んでよく用いられた字である(参照 「変体仮名一覧表」)。

「二字の好字」を用いる地名

土地の者が「ハラ」と言っていたのを、「地名は二文字の好字を用いよ」というルールにしたがって、「幡羅」という万葉仮名の表記が成立した。ラを一字で表記するには、ほとんど「良」か「羅」の二つに一つしかない。「羅」を選んだときは、羅(薄手の美しい布)の意味により、縁語のようにして、ハについても繊維に関する一字を選ぶのが当然であり、すると「幡(ハン)」の文字しかない。つまり二つに一つで「羅」を選べば幡羅という一種類の表記しかないわけである。「良」を選べば、「幡良」「波良」など幾種類かが可能である。実際にそのような郷名などが存在する。和名抄以前の地名でハラがどのような漢字二文字で表記されたかの例を調べると、そのようになる。
地名をわざわざ二文字にした例は多く、武蔵北部にも那珂(なか)郡、賀美(かみ)郡の例があるが、これらについても、本来の意味は「中」、「上」だったのだろう。武蔵、上野などの国名は本来は三文字以上だった地名である。

「幡羅」は中世以後はハタラと読むことが増えていった。それについては、吉田東伍説によれば、中世に「幡羅の大殿」の異名のある成田氏がこの地から躍進をとげたことから、あるいは成田氏の根拠地だった幡羅郡東部の上秦(かみつはだ?)郷、下秦郷の読み方につられてのものだろうという説が参考になるかもしれない。
幡羅郡東部の、上秦郷、下秦郷についても、秦氏の伝承は皆無なので、これも漢字二文字にしてしまったための表記のように思える。ハダとは、川の曲流部に接した平地に多い「和田」に通ずるような意味かもしれない。ある時期に郷を上と下に分割したために、上野と下野の国名のように、二文字だけでは元の意味はおろか知らなければ読み方さえ困難な表記になってしまったと見るしかない。上下に分郷以前の郷名は、一文字の「秦」ではありえない。二文字だったはずで、秦の字を使わなかった可能性が大きい。

幡羅郡の南、荒川の南の地域に、男衾郡波多郷という地名があったらしいが、今の地名は畠山であり、畠山重忠のゆかりの地ではあるが、秦氏とは関係ないらしい。ハタという地名は、日本で畑のある地域にはどこにでもありうる地名である。田のない村はあっても畑のない日本の村はなかったことだろう。日本中どこでも秦氏だとこじつけることができる。
更に重要なことは、地名について、移住してきた人たちが古い地名を廃止して自分勝手な地名を新たに付けることが、それほど行われたかどうかというと、あまり行われなかったろう。むろん新座郡などの閑地などの例外はあるだろう。埼玉県の高麗郷のコマは表記は別として、柳田國男によれば地形に起源のある地名である。東日本に多いアイヌ語地名でわかるように、先住民の地名を表記等を変えながらそのまま使うほうが普通なのである。地名には古くからの土地の神の魂が宿っているのであり、安易に変えられるものではない。広い範囲の政治的な地名については、その範囲の拡大や縮小はありうるだろうが。

式内白髪神社とは

さて、「延喜式内シラヒゲ神社」であるが、延喜式内社の白髪神社をシラヒゲ神社と間違ったようである。これには明治のころの旧妻沼町方面での式内社比定の動きを説明しなければならない。
幕末から明治初年にかけて、妻沼の歓喜院(聖天様)を、延喜式内社の「楡山神社」として比定しようという動きがあり、国学者の伴信友がバックアップした。吉田東伍によれば、明治初年の埼玉県の寺院明細帳に、同院は「もと楡山神社」だと書いて届けた。寺院明細帳なので祭神名の記載はないと思うが、同院を妻沼の「楡山神社」とした場合の祭神名は「猿田彦命」だった。その根拠は、当時歓喜院境内に白髭神社があり、その祭神だからだろうと吉田東伍は示唆している。この猿田彦命は、道祖神ないし寺の門衛神としての神だったことだろう。
しかし明治の初年には「聖天様=楡山神社説」は認められず、やや年月がたって、次に式内社・白髪神社を妻沼の地に求める動きが出てきた。歓喜院は既に地方屈指の規模の寺院である。また、新編武蔵風土記稿には「聖天宮」と書かれ、神仏混交から神社に移行してしても問題はない。地元に式内社が一つ欲しいという気持ちもわからないではない。その結果、利根川べりにあった小さな白髭神社が何故か白髪神社と改称されて式内社の候補となった。他の町村にも白髪神社の有力な候補となった神社(深谷市東方の熊野大神社など)はいくつかあったが、どこも決め手を欠き、そのまま現在に至ってしまった。利根川べりの改称された白髪神社は、その後も通称 白髭様、白髭神社と呼ばれている。そのため、白髪神社は白髭神社の別称なのだろうとか、白髭神社が式内社だとかいうような誤解が広まってしまったのだろうと思われる。ただ、現在の資料によれば全国には白髪神社と書いてシラヒゲ神社と読ませているところも少なくなく、このへんはよくわからないところである(※)。あるいは明治天皇が皇居を移された武蔵国の、式内社という白髪神社の名では類のない格付のこの神社の問題が、全国的な注目を集め可能性もある。また少なくとも式内社に関してはきちんとシラカミと読むべきだろう。
(※ 白髭神社については、道祖神や門神的な性格が強いという面では、先住民的な神、あるいは古い土着の神の呼称と見たほうがよいのではないか。
全国の「白髪神社」の祭神名の不規則性は、それぞれの地域伝承というより、埼玉県の白髭大明神(現の高麗神社の旧異称)の勢力が比較的新しい時代に一部の白髪神社まで包摂してしまった可能性があるが、詳細は不明)。
さて当時としては式内社を地元に比定しようとするのは郷土愛から起ったことなので、いちがいに否定されるべきものではないのだろう。しかし「楡山神社」でダメだったから「白髪神社」で行こうというのも、いかがなものか。平安時代初期までの利根川べりは湿地帯ばかりで、人の住める土地ではなかったろう。かといって新開地だから価値が低いものでもない。
白髪神社は、清寧天皇の御名代部である白髪部にゆかりのものだろうと吉田東伍も述べている。幡羅郡式内四社のうちの筆頭に書いてあるので、場所は郡家近くだろうともいう。私見では、それに加えて、天皇の部民ゆかりのものだから、規模は小さくても筆頭に書かれたのではないかと思っている。 参考 吉田東伍『延喜式内白髪神社擬定私考』

ハラを幡羅と表記した全国の地名例

「幡羅」という万葉仮名表記の地名は、古い地名で武蔵国以外に三ヶ所が確認できた(大日本地名辞書)。読みは全てハラである。武蔵国幡羅郡と同様に現在でも「原」の字のつく地名が地域内に残っている。ハラは河川の中流域の平地をいう地名のようである。これらの他に「幡良」「波良」の表記の郷名も地名辞書にいくつか確認できる。
○遠江国佐野郡幡羅郷
 静岡県掛川市の北西部、天竜浜名湖鉄道の原田駅・原谷(はらのや)駅周辺)。原野谷川の流域。掛川市本郷に長福寺あり。
○阿波国那賀郡幡羅郷
 徳島県那賀郡 羽ノ浦町、那賀川町(大字原・西原・古津付近)などの那賀川北岸。式内社和耶神社(羽ノ浦神社に合祀?)
○讃岐国三木郡幡羅郷(西は武例郷)
 香川県木田郡牟礼町大字原の付近、志度湾南西、東は旧志度町に接す。
これらの地域にはまだ「新羅説」の被害は及んでいないようである。
2005年1月

※※ 2002年にネット検索をしたときは、幡羅郡帰化人系説を記述したサイトは個人サイト1つだけだったが、その後だいぶ増えてしまったようである。
楡山神社の氏子地域などにも一部に誤解が広まったようであることは問題である。

森田悌『古代の武蔵』における空想の泥沼について(覚書)


幡羅郡帰化人説?について手元の蔵書を片っ端から調べてみたら同書(吉川弘文館発行)に行き当たった。
同書における武蔵国幡羅郡についての森田氏の主張はこんなところである。

武蔵国には新座郡、高麗郡のほか帰化人の入植が多かった。
「渡来系の郡名をもつ武蔵国幡羅郡の立郡時は不明だが、前二者と同様に渡来系の人たちを中心に構成されたと推論し得る」
「全国的にみても…(中略)…甲斐国巨摩郡…(中略)…土佐国幡多郡」との羅列。
最初に「推論し得る」と書きながら、しかし、そのあとは断定的な表現になって枚数を費してゆくのが異様に感じられる論文である。

「渡来系の郡名」とはどういったもののことか、と著者に質問すれば、漢字知識のない答弁しかできないのではないか。万葉仮名の知識、柳田國男以来の地名学の知識についても疑わしい。
「甲斐国巨摩郡、土佐国幡多郡」、ここまで語呂合わせの羅列を続けてだいじょうぶなのだろうか。

「立郡時は不明だが」と書くのは、新座や高麗と同様に新しい郡なら成立時期がわかるだろうという意味のようで、史料を探し始める。
陸奥国多賀城遺跡から出た木簡により、大同四年に幡羅郡から米五斗が送られたことが判明したことについて、幡羅郡は和名抄でも七郷一余戸とあり規模が大きかったことが書かれてある。
米のことと郡の規模のことがどう関係するのか、最初は奇妙に思った。氏のこの書きぶりからわかることは、埼玉郡からは米が送られた記録がないことがわかると思う。たぶんそれで間違いないと思う。埼玉郡は四郷一余戸で規模が小さいから、しょうがないんだといいたいのだろう。
さらに、だから幡羅郡はもっと古くから帰化人の入植が大量にあったのだ、入植を推進していたのは埼玉郡の武蔵国造なんだと、まったく根拠のない空想が書いてある。
まさか幡羅郡だけが米五斗を送ったことに対して妬んでいるのでなかろうが、埼玉郡が上なんだとだけ言いたいようである。
そのあと幡羅郡は当時はもっと広かったんだ、行田市の半分くらいはそうだし羽生市の一部まで幡羅郡だったのであって、この大きな幡羅郡は国造のいる埼玉郡の管理下にあったのだと主張している。
国造は国内すべての管理責任者に違いないだろうが、郡と郡とではそういう関係はないだろう。
もともと証拠のないことだったから「渡来系を中心に」と遠慮して書き始めたはずなのに、幡羅郡が巨大な郡だったことに気づいてあわてて、埼玉郡の優位を主張するために、幡羅郡における渡来系の純度を上げてしまおうという主張なのである。そうしなければ規模の大きい幡羅郡を規模の小さい埼玉郡が管理しなければならない理由が見つからないからであろう。
しかし氏が渡来系の純度を上げようとすればするほど、幡羅郡内からは渡来系の遺物はおろか一片の伝説すら確認できない事実の前に、ますますいらだつことになるのではないか。
いいかげんにして言説の破綻に気づくべきである。

そのあと幡羅郡の西別府廃寺跡の話になる。ここでも渡来人を結びつけたいようである。上代の寺院についてなにか近世的な庶民の仏教信仰のように書いてあり、これにも違和感のあるところで、律令制下の新しい学問施設としての寺院という見方はない。
この西別府廃寺跡の話の前置きとして、幡羅郡延喜式内社のことが書かれてある。この部分については、『新編埼玉県史通史編1』のうちの、延喜式内社幡羅郡の部分を下敷きにして書いたような表現が目立つ。森田氏の著作は昭和63年5月、『県史』は昭和62年3月、1年と少し前の発行である。
『埼玉県史』のこの巻全体では、通史といえる本論の部分では、帰化人について記載のあるのは新座郡と高麗郡についてだけである。他には帰化人についての叙述はほどんどない。世間で帰化人系などといわれることもある一部の氏族についての記載はなくはないが、その文章に帰化人の文字はない。県史が単なる私説のために大量の紙と税金を浪費できるものではないことがわかるだろう。ただ一か所だけ例外なのが、延喜式内社についての部分であり、そのうちの幡羅郡以外にも一部氏族帰化人説を前提にした記述がある。この部分の執筆者の名を調べると「広瀬和俊」とあった。ここで、広瀬氏の論文に出くわすとは思わなかった。地域伝承や公式の祭神を無視したトンデモ本系の内容としかいいようのない文章が随所に見られて評判の悪かった『埼玉の神社』(埼玉県神社庁発行)の編集責任者である。
森田氏は、広瀬氏と全く同一内容の説を紹介しながら、「確説とすることはできないが、成立する可能性はあり」などと書いている。「確説とすることはできないが」とは、同書帰化人説の中では最も遠慮した表現である。そのような表現が突然ここに出てくるのも奇妙だが、あるいは森田氏の幡羅郡帰化人説の出発がここにあったのだろうと思う。そして「成立する可能性はあり」と転じて冒頭の「推論し得る」へと旅立ってまもなく、湿地帯の泥沼にはまってしまったようである。
いづれにせよ、少なくとも新編埼玉県史の延喜式内社幡羅郡の部分で帰化人系についての広瀬氏の書かれた空想は、まことにもって単なる軽口ないしは迷惑千万の話と言うほかはない。
2010/6/30

この本はアマゾンを調べたら品切れで、おそらく著者も再版の意志はないのかもしれません。


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