研究のためのメニュー
このブログではどんなことを書くことになるだろうか。
実際の近世当時の古文書を読み解きながら、庶民生活の一端を知ること。
古文書の整理方法。パソコンを使用した画像管理、テキスト管理。翻刻文の表記法や、多量の文書の分類法、勉強法など。
明治以来、流布されてきた奇妙な近世像を一掃すること。
「お江戸でござる」ではないが、「今日の間違い」と題して、落語などをとりあげ、誇張その他の原因で事実としてありえない話の部分をチェックしてみるなど。
その他
……といったところだろうか。
幡羅郷土史ブログ


ブログの記事を選んで1冊の本に残そうと思ってから、だいぶ時が経過したが、ようやく印刷ショップへの「入稿」が終った。まもなく完成である。
次に、(1)印刷用データの作り方と、(2)記事のまとめ方について書きとめておく。
(1)印刷は、ネットの印刷ショップが格安で良い。昔の印刷屋では、格安にしてもらえるのだから納期が遅いのはしかたがないという方式だったが、ネットでは1週間でできる。昔の印刷屋では、レーザープリンタなどで完全版下を作れば、格安になったが、今は版下の代わりにpdfファイルを送信するだけである。
ネットのサイトでは、グラフィカルなパンフレットの印刷を想定した指定ソフトの解説が詳しいが、通常の書籍のレイアウトなので、ワープロ文書ファイルをpdfに出力するだけで良い。pdf変換は JUST PDF など有料のものが、日本語への対応に問題がなく安心感がある。
「通常の書籍のレイアウト」とは、ページの上下左右に15mmm以上の余白を付けること。表紙も同様にすればトラブルはない。表紙と裏表紙と背表紙を1枚の紙に印刷するので、、ワープロで用紙サイズを正確に設定して、全体をワープロ1ページ分にデザインする必要がある。サイズに間違いなければ、四隅にトンボを付ける必要もない。
表紙の裏は見返しのように空白でも良いと思ったが、本文で使用の画像を、カラー口絵の感覚でレイアウトしてみた。
pdfは本文108ページ1ファイル、表1-4、表2-3で2ファイル。
(2) ブログのような、大量の短い文章を、どうまとめるか。
テーマを決めて、テーマに沿ったものだけを選んでみる。
次に全体の構成や配列をどうするか。選んだ文章から、重要でないものを外して、半分に減らしてみる。すると章構成の輪郭が見えてくるものである。それを幹として、全○章が決まれば、先ほど外したものは、どこの枝として配置すれば良いかがわかる。左右の枝のバランスが悪ければ、書き足すこともあるし、捨てたままになることもある。
この章はまとまりが悪い、と思ったら、章全体を短くしてみると、起承転結の転までしかないことがわかり、結を書き足せば良いというふうになることもある。
捨てるのに惜しいものは、章構成とは別に、巻末に並べる方法もあるだろ
諸橋轍次『大漢和辞典』で「原」といふ字を調べてみると、
十六種類の意味があることがわかる。
(一)みなもと。厡・源に同じ。古は𠫐に作る。
(二)もと。
(三)もとづく。もとづける。
(四)たづねる。根本を推求する。
(五)ふたたびする。かさねる。
(六)のぞく(除く)
(七)ゆるす(宥す)
(八)はら 邍(高く平らな地)に通ず
(九)耕作地
(十)つつしむ、すなほ。愿に通ず。
(11) 虫の名。螈に通ず。
(12) 羊の一種。羱に通ず。
(13) 文体の一。本原をたづねて推論する文。
(14) 古は 厡・邍・愿 に作る。
(15) 地名。今の河南省済源県の西北。
(16) 姓、原氏。
地形に関するものとしては、(1)みなもと、(8)高く平らな台地、(9)耕作地の三つがある。この大辞典には「広い土地」といった解説はない。『漢字源』では(原が)「広い野原を意味するのは、原隰 げんしゅう(泉の出る地)の意から」とあり、それを考慮すると、〈崖の水源→崖下の湿地→崖上の台地〉と意味が広がっていったと推定できる。耕作地については、湿地と台地の両方にできる。さうした推論が可能なのは、3000年以上の長い漢字の歴史があるからであらう。
さて和語についてであるが、日本では1400〜1500年前頃からやうやく文字を使ひ始め、そのころは既にハラから派生した語彙はたくさん揃ってゐた。
『古典基礎語辞典』(大野晋)などで、「遥か」や「晴る」などの語と同源語だとして、目の前に広がる広い土地といふ意味が、原の原義だとするのは、残念ながら、後世的な見方や後世のロマンチシズムが加はってゐると思ふ。(同辞典で、原の2つめの意味として葬地を載せるのは良いが、葬地が遥かな場所にあるからではなく、「境界」にあたる聖なる場所だからであらう)
ハラの同源語としては、最も近いのは、擬態語などのパラリと剥げるのパラである可能性がある。
ハラヘ(祓)については、古事記でいふ「祓つ物」とは、須佐之男命が指から剥がした爪だった。蛇の脱皮も同様であるが、土地も風雨や大水で削れたり剥がれたりして崖ができ、聖なる場所となって湧き水も出る。これは漢字「原」の原義に酷似した地形である。伊邪那岐命が禊ぎをした阿波岐原もそんな場所だったらう。
「祓へ」に似たものとして「禊ぎ」があり、ミソギの原義は身を削ぐことだとすれば、祓へにも類似した構造の原義があるとしても不思議はないのである。
また、水や雨が落ちるときの擬態語ないし擬音語は「ぱらぱら、はらはら」である。
水神の森の下露はらはらと秋をもまたぬ落ち栗のおと 蜀山人
人や動物の皮膚を深く傷めると血が流れ出る。大地もまた表面を深く掘ると水が流れ出る。その水がいかに貴いものであったか、それが始まりだらう。
後半のところは、あとあと論を深めていかなければならない。
正月のテレビ番組も面白いものがないので、昔テレビでみた映画『タイムマシン』のDVDを中古で入手して見た。H・G・ウェルズの小説が原作の1960年のアメリカ映画。
物語の舞台は19世紀末のイギリスで、1899年大晦日から1900年1月5日までの話。今からぴったり120年前になる。
https://nire.main.jp/sb/log/eid281.html
これまでの記事をふりかえる。
☆印=優良記事につき推敲済み。但し一部のみ開始、今後に追記更新予定。
(0) 荒川扇状地と湧水
(0) 幡羅(原)という地名
(0) 渋沢、藤原(地名の話)
(0) 幡羅郷の湧水群
(0) 原という地形について
(0) 『聞きがたり農村史』
(0) ハラとヒラ(地名雑記)
(0) 沖縄の地名「ハンヂャ」
(0)☆ 段丘地形と地名
(0) みかの原 わきて流るる
(0) 子負(こふ)の原
(0) 別府沼
(0)☆ 大井の泉
(1) 日本煉瓦製造工場と小山橋
(1) 武蔵国幡羅郡の範囲と人口
(1) 『北武蔵の地域形成―水と地形が織りなす歴史像―』という本
(1) 村の面積の測り方
(1) 『百姓の一筆』を読んで
(1) 蝦夷と東国の話
(1) 郷土史のために(関東の村の場合)
(1) 幡羅郡の範囲
(2) 郡境の話 その1
(2) 地方の枕詞
(4) 出土品 寛永通宝
(5) 屋敷内の墓地
(5) 氏神(屋敷神)について
(5) 旧暦歳時記 1
(5) 旧暦歳時記 2
(6) 東と西、上戸と下戸
(6) 東と西、国有林の分布
(6) 長頭と短頭
(8) 江戸時代の農民の家計簿
(8) 天神講の紙の旗
(8) 村の職業
(8) 子供の手習
(8) 村の費用で賄う行事
(8) 市川市月の桃太郎と猿・犬・雉
(8) 江戸時代の一日の労働時間
1日に8時間の労働は、(私事だが)大変だと感じるようになった。おそらく年齢のせいだらう。
1時間毎に1時間の休憩や読書時間などを混じへて、休憩込み15時間のほうが、まだ楽だと思ふ。
しかし昔は(江戸時代などは)、日本人の労働時間は、それほど長くはなかったのではないだらうか。
身のまはりで早死にする人たちを見るにつけ、働き過ぎの蓄積が原因のように思へてならない。
日本人の労働効率は、世界的に見ても、低いほうなのだそうだ。明治以来、追ひつき追ひ越せで経済はそこそこ成功したといっても、それは労働効率が良かったからではないらしい。となると、江戸時代と違って、単に労働時間を長くしただけのことになる。
江戸時代の人々は実際にどのくらゐ働いたのだらうか。。
江戸城に日勤する武士たちの勤務時間は、小川恭二氏によると、老中などの要職にある者は、朝10時から午後2時くらゐまでで、他は朝が8時と早めになってそのぶん長い(『江戸の暮らし122話』つくばね舎)。つまり1日4〜6時間といったところ。城内警衛の番方などは、24時間を3交替制だが、3〜5日に一度の勤務だったといふ。平均すると、4日で8時間(1日2時間)の計算だが、天候に関らずのきつい仕事なのであらう。
阿波国では、大名おかかへの能楽師たちは、1年勤務すると次の1年は完全休暇だったと、浮世絵の写楽研究家が明らかにした(*)。大名は2つの能楽チームを雇ってゐたのだらう。江戸では北町奉行所と南町奉行所は交互に月交替で勤務したといふ。指南番がゐるところへもう一人指南番を雇ふといふ落語の話も、十分ありうる話だ。
(* 内田千鶴子氏によると、1年間の休暇中に能楽師斎藤十郎兵衛は写楽として絵を描き残したらしい。)
商店では、明るいうちに閉めて、明るいうちに湯屋に行って、明るいうちに夕飯を食べたほうがうまいに決まってゐる。芝居も明るいうちにしかやってないので、見に行く時間がときどきは欲しいはずだ。
農家も概ね同様だと思ふ。農繁期といふのがあるが、天候よって休まなければならない日も多いわけで、トータルではそんなに長時間労働にはならないのではなからうか。
芳賀登氏は、天保のころの下野国、弘化のころの上野国の農村の史料から、年60日以上は休み日があったらうとする(『江戸期の社会実相一〇〇話』つくばね舎)。休み日とは、盆や正月、神仏に関る日を含めてである。
ただし、これらは日数のことであり、時間のことではない。また、祭礼の前には、上演する芸能のための稽古で、たくさんの日数を要するものである。労働が終ったあとでもできるが、やはり明るいうちに稽古すべきだらう。
休みといっても、神仏の用以外では、男なら薪を調達したり、家屋の修繕などの家事がある。家屋は、骨組は専門の大工に頼むが、他は自分で少しづつ作るものだった。これらも労働のうちだと見る向きもあるかもしれないが、ほどほどの量の仕事なら、農業専業の単一労働ばかりに対してリフレッシュの効果があるだらう。半分遊びのような仕事を混じへるのが良いのではないか。
江戸時代の伊勢参りの道中記を見ると、宿に到着した時刻が書かれてゐることがあり、八ツ時が多い。八ツとは「おやつ」の時刻のことで、午後2時ごろのことである。宿は予め予約してあるわけではなく、宿では、客が到着してから夕飯のために魚屋や八百屋に買出しに出るのだらう。夕食の料理はやはり明るいうちに食べたであらう。
午後2時までといふのは、前述の江戸城の武士も同様だった。農家の労働も、同様だったと考へるのが自然である。
余談だが、大正から昭和のころの茨城県の農家の話では、親の道楽で屋敷地(宅地)以外の田畑は全て人手に渡ってゐたが、夫婦で一生懸命働いて20年で田畑を買ひ戻したといふ話がある(『聞きがたり農村史1』御茶の水書房)。20年のうちには何人かの子供も育て、そうやって、この夫婦は毎日8時間以上は働いたことは確実である。
買ひ戻した土地の値段は、1反で普通の1人分の年収ほどだらうから、1町歩を買ひ戻したとすれば、普通の人の10年分の年収にあたる貯金を、夫婦は20年で貯めたわけである。よく働けば、そのくらいは可能だらうが、からだが丈夫でないといけない。
蛇足。貧しい農民は、朝から晩まで働きづくめで、それでも収入はごく僅かだった、などという固定イメージを抱く人もあるかもしれないが、そんなに長時間働くためには、広大な田畑を所有してゐなければ不可能である。小作ならありうるといふ理屈もあるが、一つの村でそんなに多くの貧農たちのための多くの田畑は存在しないことは調べればわかることである。農業の労働時間は、耕作する田畑の面積に比例する。
『大井の泉』と題するエッセイ(丸谷才一『遊び時間2』に収録)で、岡野弘彦著『折口信夫の晩年』といふ本のことが語られてゐる。
「折口が死んでからの叙述が際立って立派である。殊に、玄関の神棚に祀ってあった男女の河童像の魂を抜いて、霊を放つくだりは、まことに美しい鎮魂の文章となってゐる」(丸谷氏)
と書かれ、岡野氏の著作からの引用が13行ほどある。
引用部に書かれてゐることは、品川区大井出石の折口宅裏から品川の海へ続く地下水脈があり、途中3ヶ所から泉となって湧き出してゐるところがあり、一続きの水脈なのだらう、3ヵ所のうちの最も上流である折口宅裏の泉へ、器に入った水を運び、水を泉へ注いで流したことが書かれ、美しく表現された文章であるとエッセイで評されてゐる。
速読のせいか、この引用文と前文とのつながりが、少しわかりにくかったのだが、『折口信夫の晩年』を確認してみると、「器の水」は、河童像の前に置いて念じて、河童像の魂を水へ遷したものだった。その水は泉に注がれ、地下水脈を通ってやがて魂は海へ至るのであらう。
海へ至るのは、神として祀られ、主人の死によってその役割を終へた河童像の霊なのだが、河童像を祀ってゐた主人の霊の一部分も、海へと至るのであろうか。
太古からの泉について考へるとき、生活用水としての有り難さといふ視点からだけではなく、別の視点、異界への信仰に関るものであったりするので、そのことを思ひ出せるようにしておかうと思ふ。

我が家の庭からの出土品である。
最初は、錆びやゴミ詰まりの状態のため、自然光や照明の下では、文字は全く判読不明だった。照明をさまざまな角度で当ててみたが、全くわからなかった。
パソコン用のイメージスキャナで、書類の紙のようにスキャナしてみると、間違いなく「寛永通寶」と読める。
これには驚きだった。
画像を良く見ると、下から光が当って、凸部のすぐ上に陰ができている。
スキャナは強い光を当てながら、レンズを通して撮影する(「読み取る」ともいう)仕組みだが、上から下へ向かってゆっくり取り込んでゆき、光が下、撮影レンズが上なので、上に陰ができるのだろう。
乱反射がほとんどないので、陰ははっきりと出るのだろう。
スキャナには、こういう使い方もあることがわかった。
この方法を応用できるものは、あるだろうか。
幕末に武蔵国幡羅郡江原村(現深谷市江原)に生れた俳人、市川市月は、絵も描き、気の利いた物語なども書きそえた軸物が多数あり、その洒落心などが、地元では愛好されている。
昔話の桃太郎を描いた軸物では、猿、犬、雉の三匹の意味について、次のように書く。
三疋の禽獣は 悪はさる 魔はいぬ 災はきじと云の謎
心の鬼の亡る時は万の宝も掌の内にとり込し肆(いちぐら)に栄ん事疑ひなし
悪は去る(猿)、魔は往ぬ(犬)、災は来じ(雉)という謎かけだというのだが、
「来(き)じ」とは方言的な言い方である。「来(こ)ない」というべきところを関東地方では「きない」というが、そのいわば文語表現が「来(こ)じ」でなく「きじ」というわけである。したがってこの「きじ」と雉をかけるという発想は、そうした方言を使う地域の人でなければ思い付かない。市川氏本人が考えた洒落なのだろう。
肆(いちぐら)とは、市座のことで、市で商品を並べ置く所の意味らしいが、「栄ん事疑ひなし」というわけで、蔵の中の財宝も増えてゆくという、まことに縁起の良い話である。縁起の良い文や絵なので、この地方の人は、これを床の間に掛けて飾ることを好んだのだろう。
「いちぐら」の「いち」は市川氏の市でもあり、市川市月は地方で句会があれば主催者や賛同者として必ず名を連ねた人だった。

話変って「猿」をふくんだ謎解きをもう一題。
ぬえ(鵺)という伝説上の怪獣があり、尾は蛇、手足は虎、頭は猿で、蛇(巳)・寅・申で「みとらざる」ともいう。親の死に際を看取ることができないという意味であり、家族に巳年生れ・寅年生れ・申年生れの三人が揃うと親の死に目に会えないという俗説になっている。
(ちなみに、鵺は、胴は狸で、声は虎鶫(とらつぐみ)に似ているらしい)
鵺を退治したといえば源頼政だが、もし平安時代の京都で「みとらざる」という言い方が成立していたとすれば(可能性は低いかもしれないが)、誰にも看取られずに死んだ者たちが化けて出たのが鵺なのではなかろうか。都では、行き倒れの多かった時代であったし、官人たちも親の臨終の場にいると死穢のために1年間は出仕できずに出世に遅れることになるので、人の死に目に遭うことを避けた時代である。