楡の森の掲示板過去ログ平成14年夏
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今年の伊勢参りなど 宮司  2002/07/30 (火) 12:39 No.34

 今年も何度目かの伊勢参りを致しましたが、何度参拝しても良いものです。内宮宇治橋前のおかげ横丁は少しづつ様変はりを見せてゐますが、これも愉しいものです。
 神宮の皇大神宮(内宮)は、今から2005年ほど前にあの五十鈴川の川上に御鎮座になったといはれ、天照大御神の八咫鏡を祀られてゐます。
 この鏡は、日本書紀では皇室の御先祖が「可同床共殿」の言葉とともに天照大御神から授かったものと書かれます。「可同床共殿」とは、皇位にあるお方に限って鏡との同床共殿を許可する、許可しても良いといふ意味です。他の者には許可しない、またこの鏡によって皇位を保証し、この鏡を祀ることによって皇室の安泰と国民の繁栄を天照大御神が保証してくれるといふ意味なのです。いつも側に置いておけといふ指示や命令ではなく、しっかりまつりなさい、といふ意味です。「同床」の「床」とは祭壇の意味になります。
 われわれ国民にとっても、毎年、大神宮様の御神札(「天照皇大神宮」)を鎮守様から受けておまつりすることが、重要なことであると考へます。


鏡と剣について 宮司  2002/07/28 (日) 01:12 No.30

 垂仁天皇の御代に鏡剣は倭姫命によって伊勢へ遷され、剣は倭姫命の手から倭建命の手へ渡ったといふ話が古事記などにあります。有名な草薙の剣のことです。
 また、崇神天皇の御代に御神鏡が笠縫邑に遷し祀られたのは、国内での疫病の流行などがあり、真剣にその対処の方法が講じられ、祀るのにふさはしい場所が新たに求められたためとされます。
 三種の神器のこの問題については、掲示板の範囲では[24]の説明を充分なものと考へます


Re^2: 三種の神器 Yanase  2002/07/26 (金) 18:20 No.26

> 崇神天皇の御代に「同床共殿」は終わったのではなかったですか。
『楡の木影・参宮記念石鳥居奉納碑文』にも「崇神(すじん)の朝、司牧人神の詔を賜ひ、予て同殿共床に斎(いつ)かせ給へる親授の鏡劔を、倭(やまとの)笠縫邑(かさぬひのむら)に遷祀し」と書かれ、昭和初期の認識と思ひます。垂仁朝に笠縫邑から伊勢へ遷ってゐます。その後、同じものが宮中にも造られたものと思ひますが、詳しい経緯は存じません。
[24]で述べた重点から、詳しい経緯を調べたことはありません。戸矢さんは研究されてゐると思ひます。


Re: 三種の神器 玄松子  2002/07/26 (金) 13:33 No.25

あまり詳しくありませんが、

> が、しかし!
> 天照大神が同床共殿を求めたのは、書紀を確認すると「鏡」のことを言っているのです。

崇神天皇の御代に「同床共殿」は終わったのではなかったですか。


Re: 三種の神器 Yanase  2002/07/25 (木) 23:04 No.24

 平成元年一月の昭和天皇崩御の翌日でしたか、「剣璽渡御の儀」はテレビ中継もされました。剣璽が剣と玉の意味ですが、「鏡」は「渡御」はなかったと思ひます。
 難しい問題ですが確認しなければならない点は、まづ、三種の神器の三種がそれぞれ皇位を裏づけるものなのでせうが、三種のぞれぞれの意義が異なるものと思はれます。伊勢神宮や熱田神宮の成立の問題にも関ってくるのでせう。また、天皇の行幸は、我々の旅行などとは全く異なるもので、古代からの国見の意義等々があるものと思ひます。
 私などは地方の無数の氏子たちを主体にした神道論を目指してゐるつもりなのですが、この観点からいっても、皇位継承の儀式の中で注目して行きたいのは、古い時代の国見や八十島祭です。
 不勉強なので何ともいへず、将来見解も変るかもしれませんが、簡単にいへば、剣や玉には諸国の「くにたま」を鎮魂させる必要があるものであり、天照大御神の鏡にはその必要がないためではないかと、現時点では考へてゐます。(「鎮魂」とは西洋的な意味ではなく、日本各地の国々の霊を貴いものに付着させるといふ意味の言葉です。)
 いかがでせうか?


三種の神器 戸矢  2002/07/25 (木) 12:37 No.23

アクセスしてみたら、ちょうど1000でした。こりゃあ、なんぞ書かねばなるまいと、思いますよね。

天皇となるためには践祚大嘗祭、その他いくつかの手続きが必要ですが、とくに重要なのは「三種の神器」の継承です。その謂われを論じるのはまたの機会にするとして、そのうちの二つ「剣」と「玉」は常に天皇とともにあるって知ってましたか、柳瀬さん?
普段は寝所の隣の部屋「剣璽の間」に置かれていて、天皇が一泊以上の外出をする時は「剣璽御動座」といって携行するのです。
超貴重品を、いちいち持ち歩くとは意外ですよね!
これは書紀の記述「同床共殿」という天照大神の指示によるものです。つまりいつも一緒にいなさいということですね。
剣はレプリカですが、勾玉は当初からのオリジナルで本物です。

が、しかし!
天照大神が同床共殿を求めたのは、書紀を確認すると「鏡」のことを言っているのです。しかし鏡はご存じの通り、宮中三殿の賢所に鎮座し、動かすことはありません。
はて、これはどういうことなのでしょうか?
柳瀬さん、またどなたでも結構ですが、ご教示いただけませんか?


祭に出る店 Yanase  2002/07/24 (水) 20:02 No.21

 三月社日の上野台八幡神社の祈年祭(社日祭)では、以前は植木市で賑はったのですが、今年は竹細工の店と、農耕具・園芸具などの刃物の店等々が出ました。刃物の店の人は、群馬県安中市から来たさうです。八幡神社から少し南に人見の仙元山(人見山、浅間神社があります)が見えるのですが、「安中市にも人見山や人見四郎館跡がありますね」などとお話ししました。若い人でしたが安中市の人見四郎をちゃんと知ってゐました。深谷の若い人がどれだけ深谷の人見四郎を知ってゐるかについては、自信がありません。
 楡山神社の年越祭、浅間神社や稲荷神社の節分祭などのだるま市は、だいたい群馬県の特産地の高崎市から来る人たちです。安中市に鍛冶屋が多いかどうかは聞き忘れました。


Re:21 訂正 Yanase  2002/07/25 (木) 12:03 No.22

磯部温泉近くの「人見」は、安中市ではなく松井田町でした。


Re: 「鎮守の森」は2 Yanase  2002/07/21 (日) 17:44 No.18

 楡山神社の森は、終戦直後まで杉の巨木の生ひ繁る深い森でしたが、戦後の新制中学校の建設などのために多くが伐採されました。似たような話は他所でもよく聞きます。
 その後、参道入口付近に植ゑられた数十本の楡を始め、順調に生育し、現在は平地では市内最大の森になってゐます。玄松子さんといふ人のサイトでも紹介していただきました。
http://www.genbu.net/data/musasi/nireyama_title.htm
 バブル経済のころまではよく道路のために境内が削られた地区も多いようですが、そろそろ国民的な反省の時期にきたことが、認識されはじめたようです。


宮内庁ホームページ Yanase  2002/07/21 (日) 11:30 No.16

宮内庁のHPを見つけました。過去の歌会始の歌なども閲覧できます。
http://www.kunaicho.go.jp/


無題 管理者  2002/07/15 (月) 00:38 No.14

[12]の kamnaby さんは 
関西の「神奈備にようこそ」とは違ふ人のようです
http://www.kamnavi.net/


Re: 無題 ひもろぎ←kamnaby  2002/07/15 (月) 11:48 No.15

> [12]の kamnaby さんは 
> 関西の「神奈備にようこそ」とは違ふ人のようです

混乱を招いてしまったようで失礼いたしました。
アドレスがkamnabyなので、そのように名乗ったのですが、
やはり紛らわしいので、「ひもろぎ」と改称いたします。
また、そのほうが「鎮守の森」を語るにも相応しいですね。


Re: 「鎮守の森」は Yanase  2002/07/14 (日) 12:56 No.13

 南方熊楠の名は、昭和37年に南紀を再び行幸された昭和天皇の御製とともに、日本人が忘れてはならない名前です。
  昭和天皇御製
 雨にけぶる神島を見て、紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ 

 個人の姓名が詠み込まれるといふ貴重な御製です。
 神社を合祀することで、廃止になった神社の森は自由に伐れる……、これに大反対をしたのが南方熊楠その人でした。明治の末に熊野川の中州にあった熊野本宮が大洪水で流されたのも、森林の乱伐が原因であると公表されたと思ひます。同じころ当地でも楡山神社の北を流れる福川の大洪水があり、建築中の拝殿工事を一年余遅らせるものでした。この洪水の原因も、森の乱伐に関係するものと私は思ってゐます。
 埼玉県の各地では、明治の始めに国の「上地令」といふ法令によって、境内の山林部分が次ぎ次ぎに国有林として召し上げられました。他県でも同様と思ひますが、当地域ほか各地の氏子たちは基金を出し合ってこの森を国から買ひ戻してゐるのです。熊楠らが島を買ひ取ったといふ話は、熊楠の特異な個性による特殊な話と見るべきではない。規模は小さくても、日本人の誰もができる行動であり、事実われわれの先祖は実行してゐるのだと、今のわれわれは再認識せねばなりません。それはなにも買ひ取りについてだけ言へることでもないと思ひます。

 当HPには未だ不充分な分野がいくつもあり、写真はスキャナしたものばかりといふ妙な現状ですが、各神社の貴重な木、古い木を主に、鎮守の森の守るといふ観点から紹介して行きたいと思ひます。
 この件については、不本意ですが、数回に分けての書込とします。


「鎮守の森」はどうなるのでしょう? kamnaby  2002/07/14 (日) 00:40 No.12

 神社そのものが影の薄い存在になっているのも寂しいことですが、なによりも「鎮守の森」が消えてしまいそうなことに、最大の危惧を持っています。
 かつて南方熊楠が「神社合祀」への激烈な反論を展開したことは有名ですが、その動機は「鎮守の森」を守ることにあったようです。
 熊楠は、わが国のナショナル・トラスト運動の嚆矢ですが、ご存じでしょうか?
 昭和天皇との邂逅で知られる神島は、田辺湾に浮かぶ原生林の島です。熊楠が自然保護運動を訴えて、その後共同買収を行い、ついには守り切った記念碑的な島でもあります。
 楡山神社の「鎮守の森」はいかがですか? HPにぜひ写真を掲載してください。


森をぬける風の匂ひ Yanase  2002/07/14 (日) 00:10 No.11

 香具さま、玄松子さま、遠方から有り難うございます。
 いろいろな地方の神さまの話を見聞きすることで、地元の神さまの理解も深まるのではないかと考へてゐます。江戸時代に伊勢参りに出かけた若者たちは、各地の神社仏閣をも訪ね、地域社会の営みのための糧としたといひます。こうした数ヶ月にわたる旅が不可能である今日にあっては、ネット順礼も悪くはない。
 各方面で大組織の弊害がいはれる今日ですが、そうしたところから来る情報は、本当の現実感を失ひつつあります。
 ときどき各地の見知らぬ小さなお宮を訪れるときに感じることは、森の中を吹き抜けて来る風の匂ひが、お宮ごとに違ふな、といふことです。
 楡山の森のあさ風たかだかに神のみいつを仰がせて吹く 額賀大直


足跡 玄松子  2002/07/13 (土) 16:15 No.10

当方のサイトへリンクしていただき、ありがとうございました。
遅くなりましたが、僕も足跡を残させていただきます。

「諸社つれづれ」楽しみにしています。


はじめまして 香具  2002/07/12 (金) 13:21 No.8

Yanaseさま、はじめてお邪魔します。
神奈備さんのところから辿って参りました、香具と申します。
とても丁寧な解説のサイトですね、判り易く参考になりました。
私は生まれ育ちが関西のために、関東方面はまったく不案内なのですが、ときどき拝見させて頂きますネ。よろしくお願いします。
ちなみに、アクセスカウンターの777番をゲットいたしました。


777 Yanase  2002/07/12 (金) 22:34 No.9

 777番お目出度うございます。メッセージ番号7「素朴な質問1」は、最初は6番で、漢字変換の間違ひがあったために、消されて次の7となりました。それがなければ、メッセージ番号も7番でしたので、申しわけないことをしました。
 


素朴な質問(1) Yanase  2002/07/12 (金) 11:15 No.7

 ◆実際にあった素朴な質問シリーズ(1)
 「お寺のお坊さんに聞いた話ですが、お経を間違へて読んだとき、訂正するための短いお経の文句があるそうです。神主さんの祝詞(のりと)にもあるのですか」
 <回答>
 神社ではお祭の最初に、神職と参列者はお祓ひを受けます。お祓ひは、神職や参列者が清い気持で祭に臨むために悪いものを祓ふ意味がありますが、祭の途中に事故がないようにといふ意味もあります。さらに万一小さな事故があっても、予めお祓ひをしておくことによって清められるといふ考へです。
 この「小さな事故」に祝詞の読み間違ひも含められます。また参列者の玉串奉奠などの作法のミスも、帳消しになります。とはいへ、きちんとした作法は常に心がけたいものです。
 ※ 神職が一人のときでも、お祓ひは神職を清めます。


初宮詣りおめでたう 宮司柳瀬  2002/06/19 (水) 13:17 No.5

 H家の皆さん初宮詣りおめでたうございます。お子様もこれで郷土の人たちとの仲間入りができました。「郷土の人たち」とは、今生活してゐる人たちのことだけでなく、何百年、あるいは千年以上も前からこのお宮へお詣りした人たちも含めて考へてゐます。さぞかし大勢の人々があったでせうし、今日お詣りすることで、そんなにも大勢の人たちからの祝福にもめぐり逢へるわけです。お子様もいつかこの郷土に生まれた意味を考へる日が来るでせうが、どうぞその日まで健やかな御成長をお祈り申し上げます。 宮司


やたがらす その2 Yanase  2002/06/18 (火) 09:53 No.4

 思ひがけず戸矢さんに早々に書き込みいただきました。
 楡山神社の御神紋は、八咫鏡(やたのかがみ)に八咫烏(やたがらす)を描いたものですが、八咫の寸法がどうあっても、これなら間違ひなく鏡の中に烏がぴたりと納まるわけです。
 神武天皇が大和を平定されたとき、金色の鵄(とび)が現はれて光を放つ場面があります。この金鵄を八咫烏と混同されるかたが年配のかたなどでときどきいらっしゃるのは、八咫の鏡のイメージから、光を放つものの連想が働いたのでせう。八咫烏は中国の伝説と習合して太陽の中に住む烏のイメージもあります。
 猿田彦の鼻の長さは七咫だったといひますから、八咫の鏡より短いといふか、尊さも格下になるわけです。
 戸矢さんの御指摘のように「八尺瓊(やさかに)の勾玉」となると、実際の寸法のイメージもわかなくなってしまひます。そんなに大きい玉は想像できないので、日本書紀は「八坂瓊」と書いたのでせうし、今の辞書などには勾玉の穴に通してつないだ緒の長さだとの説も載せてあります。弥栄(やさか)の魂(たま)といふ意味も当然含まれ、継承者である天皇の生命の不滅を祈るものでもあるわけです。
 三種の神器の漢字表記の違ひなど貴重な御指摘もあったのですが、この点について、戸矢さんに限らず、どなたか所見をお持ちのかたは、いらっしゃらないでせうか。


たいへん真摯なHPですね、感心しました。 戸矢  2002/06/17 (月) 17:14 No.3

 八咫烏とは「とても大きな烏」の意のようですよ。
「咫」は「尺」と同じで長さの単位、上代には「アタ」と発音して掌一つ分としてカウントしたようですが、いつの間にか不分明になったと思われます。
 また「八」という数値は、ご存じのように「多」「大」の代用としても活躍していますよね。「大江戸八百八町」「八百屋」「嘘八百」等々、そしてなんといっても「八百万の神々」!「八俣のおろち」もそうでしょうね。
 ところで三種の神器は、記紀それぞれに以下のように表記が異なります(読み方は同じです)。
 古事記は、八尺勾瑰 、八尺鏡 、草薙釼。
 日本書紀は、八坂瓊曲玉 、八咫鏡 、草薙釼。
 つまり八咫鏡といえば巨大な鏡という意味になります。
 そして「八尺瓊の勾玉」は「一尺以上もある大きな」「瓊(丹)色」の、という意味でしょう。すなわち「特別大きな赤い勾玉」を意味するはずです。
 という私の説は、いかがでしょう? 


W杯と八咫烏について Yanase  2002/06/15 (土) 20:11 No.2

 サッカーのW杯開催のときに、メッセージボードができました。
 W杯を天皇陛下は正しく「だぶりゅーはい」とお読みになりましたが、さて、日本チームのシンボルマークは八咫烏(やたがらす)です。
 八咫とは長さのことで、翼を広げた幅が70センチくらゐだとも、240センチくらゐだともいひます。また足が三本だとも、そうでないともいひます。
 日本の神話では、神武天皇が紀州熊野の山中で道に迷はれたとき、八咫烏が現はれ、大和のカシハラの地まで導かれて、その地で即位され、初代の天皇となりました。八咫烏はそのまま大和の葛城山に留まり、やがて京都の鴨川の上流に移り、賀茂御祖神社(かものみおやじんじゃ)に祭られました。
 神社名に「熊野」とある神社などでは、「八咫烏」を御神紋とするところも多いようです。