神棚のページ yanase 2002/10/29 (火) 18:32 No.79
年末に向けて、神棚についてのページを新設しました。 ../maturi/kamidana.htm 日本に伊勢神宮あり、 地域に氏神鎮守あり、 家々に神棚あり、 個人に御守りあり、 マクロの世界からミクロの世界まで、神さまがおいでです。
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白と黒 Yanase 2002/09/23 (月) 22:23 No.72
深谷市稲荷町では、旧深谷七町内とともに毎年七月下旬の三日間に、八坂祭が行なはれるが、このとき神輿を安置するお仮屋の背後などを白黒の幕で囲ふ。その幕はちょうど葬式などで使ふものと非常によく似たものである。 ある人に由来を聞かれたが、もともと日本では、黒は高貴な色であり、葬式で使ふ色ではなかったので、昔からそのような色の幕を使用するのだらうと答へた。 大正時代の小説の「真珠夫人」(菊池寛)に、次のような一節がある。
「その美しい眼を心持泣き脹して、雪のやうな喪服を纏うて、俯きがちに、しほたれて歩む姉妹の姿は、悲しくも又美しかつた。それに、続いてどの馬車からも、一門の夫人達であらう、白無垢を着た貴婦人が、一人二人宛降り立つた。」
「雪のやうな」「白無垢」が喪服であり、死に装束でもあった。別の世界へ旅立つときは、汚れ無き色の白を纏ひ、清浄のあかしとしたのである。 仏教では「墨染の衣」が古くからあるが、日本人一般の喪服としては浸透しなかったようだ。明治の欧化政策で黒が採用され、戦後のアパレル業界の宣伝によって黒ネクタイなどが一気に広まった。 それでも通夜や年忌・年祭は黒ではなかったが、近年はそれらと葬儀を区別する認識がなくなり、黒ばかりになりつつある。ある万葉学者の中西進といふ人は「黒のファシズム」といふ表現をしてゐた。悲しみの自己表現の徹底といふことなのだらうが、客観的な対称を見失ひがちになるのが日本文化の弱点ではある。
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妻沼の「福石」と小鹿野の信濃石 Yanase 2002/08/22 (木) 17:02 No.56
「埼玉県に言ひ伝へられてゐる石・岩石」といふ資料集を、アンケート協力のお返しに東京学芸大学の本間久英教授から送っていただきました。
秩父郡小鹿野町の八剣神社の「信濃石」についての記述の要旨 大きさ一丈四一尺程の巨石で、真ん中に二尺四方の穴があり、この穴に耳を当てると人の声が聞えるといふ。左右一対で「福石」ともいふ。 信濃へ往復してゐた馬子があり、馬の荷物の左右のバランスを保つため石を使用した。その石を小鹿野へ帰って道に捨てたものが、大きく成長して一丈四尺になった、といふものらしい。石成長伝説である。
妻沼町大字妻沼の大我井神社に字森下から合祀されたといふ「福石神社」の「福石」と関係があるかもしれません。
Re: 妻沼の「福石」と小鹿野の信濃石 玄松子 2002/08/22 (木) 19:23 No.57
> 妻沼町大字妻沼の大我井神社に字森下から合祀されたといふ「福石神社」の「福石」と関係があるかもしれません。
大我井神社境内に、よくわからないものが2つあるんですが。 社務所横の垣の中の石、社殿左の塚。 石の方は、垣内に碑がありましたがわかりませんでした。 塚の上には「冨士・・大神」とありましたが読めませんでした。 この2つに関して、なにか参考になる書・情報などありませんか。
Re^2: 妻沼の「福石」と小鹿野の信濃石 Yanase 2002/08/22 (木) 22:43 No.58
> (妻沼町)大我井神社境内に、よくわからないものが2つ > 社務所横の垣の中の石、垣内に碑 私の記憶では、社務所南に庭があり、その東の垣根に接して小枝に隠れるように芭蕉の句を刻んだ碑がありました。「文学遺跡辞典」(東京堂)によると、その句は 春の夜は桜に明けてしまひけり です。 > 社殿左の塚。「冨士・・大神」 大里郡神社誌(昭和五年)には境内社として記載はありませんが、平成祭データの境内社に「富士浅間神社、8月27日 鎮火祭 [通称]火祭」とあります。 塚と石璽だけでも境内社とするわけですが、楡山神社の妙見様も石の亀の上に角柱を載せた形になってゐます。 妻沼町HPの観光案内に何かあるかもしれません。
Re^3: 妻沼の「福石」と小鹿野の信濃石 玄松子 2002/08/23 (金) 00:04 No.59
社務所横の石は注連縄で祀られていて、横に碑があるのですが、句碑かどうかはわかりませんが。
> > 社殿左の塚。「冨士・・大神」 > 平成祭データの境内社に「富士浅間神社、8月27日 鎮火祭 [通称]火祭」とあります。
これに関しては、写真をよく見ると浅間と読めるようです。塚というより3mほどの円錐形の盛土なので、冨士を模したものかもしれませんね。ありがとうございました。
Re^4: 妻沼の「福石」と小鹿野の信濃石 Yanase 2002/08/23 (金) 10:22 No.60
> 社務所横の石は注連縄で祀られていて、横に碑がある 注連縄があるのでは、句碑ではありませんね。 境内配置図を見ると、大我井神社(南面)の参道を(北に)進むと社務所の北にやはり「福石」とあり、その北隣に参道側に向いて由来碑があるようです。由来碑の内容は読んだことがないので、近々確認してみます。
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火祭り Yanase 2002/08/21 (水) 11:33 No.51
8月27日の山梨県富士吉田市の火祭は、「山じまひ」と言ってゐるようで、富士登山の終りの時期の祭でもあります。 平安時代の京都の記録では、年に2回、大祓〜道饗祭〜鎮火祭を続けて行ったとのことで、時期は今の盆と正月のころです。遠い先祖の霊を迎へて、人々の魂の再生といひますか、新たな気持で次の六ヶ月間を祈る行事です。現在全国くまなく行なはれてゐるのは、盆の迎へ火と送り火、暮のおふだのお焚き上げ行事です。 麻殻の燃ゆるかぎりを別れにて霊(たま)送りする杉の下門(したかど) 大隈言道 埼玉県北部に多い「手長さま」といふ神さまも、火防せの神ですが、これについては別の機会に書き込みます。
Re: 火祭り 玄松子 2002/08/22 (木) 09:48 No.52
> 埼玉県北部に多い「手長さま」といふ神さまも、火防せの神ですが、これについては別の機会に書き込みます。
埼玉に、何故壱岐の一宮が勧請されているのか、どうして火防せの神となったのか、面白そうですね。 長野の手長さんは手名椎命で、ちかくに足長さんもあるのですが。
Re^2: 火祭り、手長様 Yanase 2002/08/22 (木) 15:50 No.53
手長さまについては、寄居町小園の壱岐天手長男神社が明治のころ広く講社を持ってゐて、その講社の人たちが周辺各地に祀ったもののようです。 > 埼玉に、何故壱岐の一宮が勧請されているのか、 寄居町の壱岐天手長男神社の宮司さんは石田(いしだ)といふ姓で、同じ姓が多いらしいです。壱岐の地名の石田(いはた)と関係があるものとは思ひますが、遠い昔のことは記録もなくわからないと、宮司さんもおっしゃってました。 > どうして火防せの神となったのか、 秩父方面の三峰神社や宝登山神社が、火防せや盗賊除けの神として江戸時代以降に広く浸透したことの影響があるのではないでせうか。 >長野県の手長、足長 あちらでは諏訪社の眷属のようで、諏訪の神を守る力強い神さまのような話もありますね。
大里郡神社誌、鉢形村小園の壱岐天手長男神社の項に記載があります。壱岐にも「鉢形」といふ地名があるそうです。
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お盆について Yanase 2002/08/14 (水) 19:08 No.49
お盆は、本当は日本古来の行事で、大昔は一年を半分に分けて、一月十五日と七月十五日に先祖の神を招く祭事が行なはれてゐたといはれます。 一月十五日の祭は、先祖の神に一年の幸福やそのための御守護をいただくためのもので、小正月の行事として今も引き継がれますが、多くは日を移して元旦の行事が重視されるようになりました。 七月十五日の行事は、日本仏教にも取り入れられ、亡くなった先祖の霊を慰霊することを主にするようになって行きましたが、盆踊などの賑やかな祭事も各地で続いてゐます。代々の先祖の霊と一つになるといふ意味で、墓参りも盆踊も共通のものがあるわけです。
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楡とハルニレ姫 Yanase 2002/08/13 (火) 01:06 No.47
楡山神社の御神木は、春楡です。アイヌの神話で最も重要視される神の中に、ハルニレ姫(日本語訳)がありますので、アイヌ文化には特別の関心をいだいてゐます。 [46]のかた(ペンネーム大三元さん)のHP「日本古代史とアイヌ語」は、日本の神々の解釈が少し弱い気もしますが、よくアイヌ語などを研究され、ときどき参考にさせてもらってます。 ハルニレ姫の話の概要については、同サイトの次のページにあります。 http://www.dai3gen.net/ainu_yu21.htm
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月、旬の歌 編集係 2002/08/05 (月) 10:05 No.37
8月1日より、表紙に、月、旬の歌を掲載することにしました。十日ごとに入れ替ります。 最初は明治維新のときに武蔵一宮氷川神社をおまゐりされた明治天皇を偲んだ歌です。
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