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「楡の木影1」


表紙

第一章 大里郡神社誌と郷土研究

大里郡神社誌の刊行について

        (昭和五年)
 
 御大礼記念上梓を企てた我が『大里郡神社誌』も、予定の通り刊行を終ったので、郡内の関係筋に配本することとした。
 貧弱なる神職支会の事業としては余りに大袈裟の仕事ではあったが、いつか一度は手を染めねばならぬ事柄であるばかりでなく、追日徴証物件が散逸勝ちな現状をみると、いささか慨嘆せざるを得ないものがあり、一面、この挙を皮切りとして、更に一層調査趣味を促す一手段でもあったわけである。されば後学のお膳立てといふ趣旨から、各関係者達の純真なる書上げ調べこしそのままを採り、口碑伝承はつとめて載録することとした。これが為に稿文中あるいは神話めいた記事が少なくないが、これらは総て信仰を基礎とした極めて尊い伝承なのであるから、みる者その心してもらへば、一向矛盾せぬこととなるとおもふ。祖先崇拝といへば、我等日本人の特殊な誇りとも考へてゐる。それにもかかはらず、その源を究むることが怠りがちであったのでは、徹底した祖先崇拝にもなれぬわけであり、他面、これらが動機となって互ひに愛郷心をそそりつつあることは、全く巻を通して遺憾なく発揮せられてゐる。更に(氷川神社)足立(達)宮司の序文にも説かれた如く、これを郷土資料として学究的に参考するならば、郷土の分布開発等にすこぶる興味ある材料を提供してゐるとおもふ。
 『新編武蔵風土記稿』(※)といへば、現に識者は文化の官撰とも称へて、郷土には大切な資料となってはゐるが、これらにしても、当時の名主組頭などが書き上げた伝承記録なのであって、現に地方の旧家にはその材料が沢山保存せられてゐる。新会(しんがい)(現深谷市)成塚(なりづか)御嶽(み たけ)大神社の稿末にその一例として載せておいた。
 中世以降戦乱の余弊をうけて調査資料の多く埋もれてゐるのは、この種の事業を開拓する上には、すこぶる不便の現状ではあるが、最近県史編纂の事業が進むにつれて、追々闡明(せんめい)せられることとおもふ。今回の調査についても、未だ氏子中には有力なる資料がたくさん(かく)れてゐることとおもはれるが、発見の上は是非とも御提供を願って、遂次本誌を補修し得るならば幸ひであるとおもふ。
 本誌の配本に当り、「神社崇敬の大義」と題せるパンフレット一部を()へることとした。これは主として国学院大学の河野(省三)教授が執筆せられたもので、現に問題となりつつある神社の本質を闡明せられた、すこぶる有益の冊子であり、県内の有識者には是非とも御一読して貰ひたいといふ意味から、本会において共同印刷に付したわけで、今中央における神社制度調査会に対する有力なる提唱であるとおもはれる。
 ※ 新編武蔵風土記稿 文化文政年間に成立した幕府官撰の地誌

大里郡神社誌発刊の辞

     (昭和五年神職会大里郡支会発行『大里郡神社誌』序文
 
神社誌扉  産土はうぶ砂であり郷土の開宗を意味し、氏神は氏の上であり血続家庭の上祖である。ここを以て産子氏子は、これを国土の宗と崇め、また吾等の鎮守とも敬仰しつゝある。建国創業の威霊を認め、更に骨肉先霊の恩徳を信奉して、感激報謝の熱情止み難く、自動的に奉斎せられたのが、多くの神社の起原をなしてゐる。されば、畏くも伊勢神宮を始め奉り、全国津々浦々の大小神祇は、()くその本末系流を分ち、内には神人同祖の霊統を連結する楔子となり、外には君臣父子の血続的集団生活の骨子となつて、(あまね)く治国の基本となり、斉家(せいか )の信標となつてゐる。かくて広大無辺の御恩頼は、古今隨時隨所に現はれ給ひ、ありとあらゆる文化の根蔕となり給ひつゝ、悠久の史実を遺し給うてゐる。本郡神職支会は、さきには初穂組合を起し、更に神社調査の事業を企て、関係当局の労を煩すこと多年、今や神社の内外視るべきもの少なからざるが故に、これらの事実を記録し、併せて旧記伝承を(あつ)めて、以て後覈(こうかく)の資に供することゝし、名づけて「大里郡神社誌」といふ。今回昭和大礼記念上梓に当り、謹みて各位の勤労を謝し、発刊の辞と致したい。

深谷郷土研究会の発会を祝す

  (昭和八年五月二十一日)
 
 過去の事実、時に積極とか消極とかいふ行きかたはあったにしろ、吾等が生活途上唯一の試験管であると考へたとき、歴史の価値性を認めてはゐるようなものの、それがいつもうぬぼれ根性の優越感やら偏狭な環境庇護やらで()けられてゐるのかしら、一向実生活に役立ってゐないといふ(そし)りがないともいへぬ。
 私はかつて千家(せんけ )男爵(※)から次のようなお歌を頂いて、今もそれを床かけとして生活の目標としてゐる。
  ※ 千家尊福出雲大社宮司 唱歌「一月一日」の作詞で知られる
  末遠き家の栄えをなすものは(もと)を忘れぬこころなりけり
 といふのであるが、実に平凡の真理として、単に千家氏一家の伝統を誇る言辞とのみに片づけたくない。そうした意味から、万世一系の御皇室を仰ぎ奉るとき、たしかに永遠の統一力が保持せられ、純真なる創造と発展とが期待し得るわけであり、かかる尊い伝統から皇国日本を信頼し、御民吾(み たみわれ)弥栄(いやさか)があるといふ態度で以て正視すると、振るってゐない国や(すさ)んでゐる郷土や、繁盛してゐない家の原因やらが直ちに肯かれて、それが興亡の跡を遺されてゐる事実を見せつけられると、反省せずにはゐられなくなる。
 今回青年識者たちの発願によりて、偶然にも深谷郷土研究会といふのが生れた。まことに時運に適った動きとして敬意を表したい。
 西行法師が宗教家としての詠歌なら、
  何ごとのおはしますかは知らねども、ありがたさにぞ涙こぼるる
といふのが本来の考へ方であらうが、さらに(たちばなの)曙覧(あけみ)が史家の立場からすれば、
  おはしますかたじけなさの何事を知りてはいとど涙こぼるる
と詠まれてゐるのが、また一段と味ははれるもののように、私は微力ながら、年来の希望として、神社奉仕の傍ら、絶えず御昇格(※)といふことを心掛け、人にも奨めてゐる。目的は、これを動機に神社の史的事実を明らかにしたいといふのが念願であって、結果はいづれも郷土開発の事実が闡明せられ、理想的崇敬の実績を与へてゐる。
  ※昇格 村社、郷社、県社など神社における社格の昇格をいふ
浅間神社  最近藤沢村(現深谷市)人見の浅間神社(祭神・木花(このはなの)開耶姫(さくや ひめの)命)の御昇格についてみるも、途中ほとんど絶望の域に陥ったのであったが、幸ひにも「埼玉県史」編纂の柴田、稲村両先生の御出張を願った結果、偶然にも社殿の床下から、延文三年在銘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が発見せられ、これが御昇格要件の有力な資料ともなった事実は、神社は勿論のこと、従来郷土における誤れる伝来を正し、郷土教材の指針となったことは、まことに(よろこ)びに()へぬものがあった。さらにこれを機会に山麓の御踏査を乞ひ、古い館址(※人見四郎館址)など発見せられ、あるいは深谷城の全身ではあるまいかといふお見込から、引き続き御研究を煩はしてゐるとのことである。
   ※ 人見四郎は太平記にも登場する北武蔵の武将である
 報本反始(※)といふ標語は、日本人特有の情操であって、ことあるごとに湧出するのが常である。熱烈なる会員諸君の御研鑚によって、郷土文化の中心が判明せられるならば、そこに永遠なる統一ある創造文化の門戸が開かれるわけであり、私は郷土の建設修理のために極めて大切な基礎工事として、この会を讃仰するものである。
 ※報本反始 本に報い始にかへる意(礼記)。祖先の恩に報いること。

『木瓜』発刊を祝す

    昭和八年十月発行『木瓜』第一号
 
 深谷郷土研究会が生まれる直前に、発起人の山口氏(※)がお見えになったとき、失礼をも顧みず率直に申上げたことを、今またここに繰返して申上げて、いささかお祝の言葉と致したい。
    ※山口平八氏 「深谷市史」の編者として知られる
 郷土愛の徹底といふことは、郷土人としての生活欲求から、誰も一様に考へてはゐるものの、いざ鎌倉となると、これが根本的指針がないためかしら、本当に土着愛郷の気持が出て来ないのを遺憾とする。この点に先鞭をつけられたのが、発起人各位の炯眼であると信じた私は、一図この美挙を礼讃すると同時に、私自身現在の立場からの慾心も手伝って、是非ともお仲間に加へていただいて、神社方面の御研究をお願ひ致したい希望であった。
 今さら申上げるまでもなく、氏神鎮守の生命は、郷土の発生と郷土の文化とに大関係を持ってゐる、といふことを考へたとき、ただ徒らに先祖から仕来たりの、伝統保存の盲目的信仰だけでは、到底満足し得ないものがある。いかに当局が口を極めて「神社は国家の宗祀なり」と叫び、郷土における精神文化の根蔕として敬事せしめ、国体精神の涵養道場として勧奨せられてゐても、それほど一般大衆に徹底してゐないのは、これが史的価値が判然してゐない為であるとおもふ。
 神社が、郷土における公的精神文化の表現であるとともに、これと相対して私的の精神文化は、第一に宗教の存在であり、就中(なかんづく)寺院の史的価値を認めなければなるまい。あるいは郷土における偉人傑士の功績を考へぬわけにはいかぬ。
 とにかく、そうした事実を出来るだけ探求研鑚して、以て郷土生活の目標を定めることが、何より大切であり、またこれを目的として企てられた郷土研究会それ自身の重大なる使命を想ふとき、この神聖なる事業を翼賛し、相共に助勢して、これが大成を期せしむることは、郷土生活人として普ねく(つと)むべき要務であり、まことに非常時更正の第一歩であるともいひ得るとおもふ。

木瓜城をめぐる史蹟について

 昭和九年三月「木瓜」第二号
 
八幡神社  深谷城が木瓜(ぼ け )の城といったといふ、本誌先号の山口氏の珍しい研究発表は、まことに懐かしみのある、そしてまた何とはなしに今まで窪地で湿っぽい感じのした深谷が、急に陽春を迎へ、一度に広い野原の温かい明るい土地になったような気持が湧いてきた。
 何というても木瓜の城が中心となって、民戸の開発に役立って来た史的関係を尊重して、今後の深谷文化における基礎観念を培養することは、すこぶる肝要事なのであり、やがては大深谷建設の上に、そうした気分で進みたいのみならず、お城をめぐる種々の事実は、できるだけ本誌に蒐めておいたらといふ念願から、今回は、予て『名将言行録』(※)の執筆者で、元亀・天正のころ深谷城主上杉氏の三宿老といはれた岡谷加賀守の後裔で、維新後内閣修史局の編纂係を勤め、鎌倉宮や氷川神社の宮司も勤めたことのある岡谷繁実先生の書かれた、(現深谷市)上野台(うはの だい)八幡神社縁起の一節を御紹介しておきたい。
     ※ 名将言行録は岩波文庫として出版されたこともある
  上野台八幡神社縁起
埼玉県大里郡藤沢村大字上野台 村社八幡神社
祭神 応神天皇(品陀和気(ほんだ わ けの)命) 束帯塗金銅像
右者、深谷城主上杉憲盛の老臣、上敷免(じょうしきめん)城主、岡谷加賀守清英、天文十九年僧洞誉玄仙を開山と為し、榛沢郡萱場村に石流山八幡院清心寺を創建し、石清水八幡を其の境内に安置す。今、八幡面と称する所すなはち是なり。天正十八年小田原北条氏の亡ぶるや、八州の城々悉く落去す。この時清英の孫、左馬助泰繁、所領の地を失ひ、上敷免を去りて徳川家康に仕ふるに至る。ここに於て清心寺には其の壇頭を失ひ、伽藍・神社とも頽廃に委するに至れり。ここに於て上野台の村民有志相議り、清心寺に安置する所の八幡社を上野台字森下に奉遷せり。これすなはち今の八幡社なり。萱場村と上野台村との接続地一帯を八幡面または八幡台と称す。元と八幡社の所領なるを以てなり。新編武蔵風土記に八幡は元萱場村に在りといふは、すなはち是なり。(以下略)
 
参考・稲荷神社由緒記より
 本社鎮座年代詳らかならずと伝へいふ。後小松天皇康応年中、武蔵国深谷城主蔵人少輔上杉憲英、城塋守護の為に祀れる一仏三社の一にして、即ち当地薬師堂村の寅薬師、稲荷町の末広稲荷、下町(今本住町といふ)の知形明神、田谷町の永明稲荷、是なりと。知形は血刀にも作り城内に祀り、末広稲荷と寅薬師とを鬼門除となし、永明稲荷を戌亥守護にあてたりといはる。祭神倉稲(う かの)(みたまの)命。

深谷郷土展覧会を参観して

 
 
 一身一家の生活にもそれぞれ異なった個性があると同様に、郷土にもまた個々本具の環境や特異な文化があるのは当然なのであるから、一身一家の自力更正に(めざ)め始めた現の人々としては、勢ひ郷土生活の根本的研究が必要となってくる。
 深谷町の場合においても、旧幕時代中仙道のお伝馬宿から発達を遂げ来ったのみばかりでなしに、その昔、木瓜の城を基礎とした郷土開発の跡を訪ね、よりて以て郷土の精神的中枢を見出さねばならぬ必要に迫られてゐる。
 過般、郷土研究会の企てであった史料展の如きも、そこに重点があるわけであり、まことに感激に禁へぬものがある。今後重ねてこの種の機会を繰返して、普ねく深谷城に恩顧あるお宮やお寺は勿論のこと、さらに進んでは家臣郎党土着の跡までも探求して欲しいとおもふ。
 今私一個の場合をかんがへても、中興の先祖柳沢隼之助といふのが深谷城主の家臣であって、御譜代五十八騎の一人として、越後落ちの際、その親に当る彦右衛門といふのが旧主の命を受け、主家の菩提寺国済寺(こくさいじ )の守護役として姓を柳瀬と改め、この地に土着帰農せられたといふ伝承を信じ来たってゐる私としては、木瓜城の研究といへば、何とはなしに懐かしく、先霊に額づくような気分も湧いてくる。このごろ明戸村(現深谷市)新井の諏訪神社の明細帳に、当社は永正年間深谷城主上杉憲盛の創立云々……といふのが載せてあるが、古老に聞いてみると、詳しいことは解らぬが城主との関係があるらしい。こうした気持は単に一例に過ぎないが、付近一帯に少なくないとおもふ。

俳句大学

 
   (昭和九年四月二十四日、楡山神社社務所にて)
 蝶園茂木秋香宗匠(※)以下、地方に各ある宗匠たち数人出席、すこぶる大会であった。
 花の最中に花一つ咲いてゐない杉杜の中で一日交遊。さすがに風月を友とせらるる人々の気持、綽々(しゃくしゃく)たる余裕、非常時何物ぞといった面もち。こうした方面も、たしかに有益な社会教化の一部であると、つくづく感じさせられたものである。秋香宗匠は挨拶の代はりに「花なくて花爛漫の社かな」の一句を示されたので、有り難く頂戴した。
境内俯瞰図  俗の社会には金看板をあげている教育者、学者たちよりほか眼に入らぬが、かくれたる教育者、土台石となって目に見えてゐない有力な社会指導に任じてゐる者もあるといふことを、忘れては相済まぬと思はれた。
 ※ 茂木秋香氏は現深谷市矢島出身の俳人。
 
 
江森天寿画「楡山神社図」大正初年

武門の崇敬

(大正七年発行「楡山神社概要」より)
 
 当社と武家との交渉は『武乾記』にその由を詳記せり。
 ※武乾記は安永元年岡部領大塚村根岸伊兵衛の著した武蔵国北西部についての史書。
 曰く「原之郷村は、往古、幡羅太郎道宗といひし武士の住せし所なり。太郎道宗は成田、別府、奈良、玉の井等の先祖なるべし。熊野大神(当社のこと)祭神は伊奘岐、伊奘波尊合社なり。楡山大神とも幡羅大神とも称せしなり。延喜式神名帳にも載する所の社なり。社内に楡樹の大木多く繁茂し、実に古代の大社なるべし。今幡羅郡の総鎮守なるべし。社伝の伝へによれば、往古幡羅太郎再興せしといひ、それ以前のことは詳らかならずといふ。古は社家もありしが絶家したり。総て当社の北に神田数十町もありしといへど今は少なくあるべし。康平年間に源義家奥州征伐の時、成田大夫助高、供奉、当社に立ち寄り戦勝を祈願し奉るといふ。総てその後も幡羅太郎の末孫、度々の御信頼ありしといふ。社伝の伝ふる所を記し置く。云々」と載せ、…… 古来幡羅郡の総鎮守の関係より、代々成田家(※)の崇敬したること明らかなりとす。御神域の西南方に古城跡(幡羅太郎館址)あり。併せ考ふべし。
 ※成田家系譜より
九条の右左相 太政大臣 右少将 武蔵守  騎西郡司 武藤  幡羅太郎 成田大夫 成田太郎
藤原師輔 ― 伊尹 ― 義孝 ― 基忠 ― 宣直 ― 忠家 ― 道宗 ― 助高 ― 助広
  助広の弟に 別府二郎行隆、奈良三郎高長、玉井四郎助実
 ※ 吉田東伍博士によると、今の熊谷市上之(かみの)付近までを当時は幡羅郡といった。和名抄に幡羅郡八郷のうちに上秦郷、下秦郷の名が見え、一は(はた)村付近(現妻沼町東部)、一は成田村付近(現熊谷市東北部)といふ。成田大夫は騎西郡から幡羅郡一帯に勢力を持った。助広の子の助忠は義経率ゐる義仲追討軍に参加。成田氏は応仁の乱頃まで成田に住み文明の頃行田忍城に進出したとされる。幡羅は古くハラの訓だったが、のちハタラといふようになったのは、単なる発音上の転訛だけでなく、成田氏の拠点となった秦郷の名が強く印象せられたためといふ。
 以上は博士の『白髪神社擬定私考』から紹介した。同書は幡羅郡の延喜式内四社のうちの白髪神社は、幡羅郷・東方(ひがしがた)村の熊野大神社のことだとし、郡家の所在地を神社周辺の古墳群(木之本古墳群)付近とほのめかしてゐる。郡の総社の延喜式内楡山神社は別格扱ひで幡羅郷の北西部に祀られたものともいふ。

第二章 戌年参宮団


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