楡山神社ホームページ 郷土資料

「楡の木影5」

第五章 斎女・浦安舞・華道

 斎女(さいじょ)(すす)

(大正二年)
 
 伊勢参宮の第一印象は、御神楽奉奏の感激であるとは、誰もいうてゐる。それは純情無垢の童女たちが饗饌の御給仕や舞楽など奏してお仕へしてゐる、あの御作法が、いかにも美はしく、また幼い第二の国民たちが吾等に代はって御歓待申上げて下さる、その純情な手風(てぶり)が、日本精神の錦線に触れて感涙にむせぶのである。
 武蔵野の狩くらに山吹の一枝をささげて英雄の心緒を焼きつくしたといふお話(※)と同一の感激であり、私たちお互ひの氏神鎮守のお祭も、このような尊い気持ちを失はぬことが、やがてお祭の内容を一段清らかにし充実する所以であると考へる。二つにはお祭の作法を習得して、常住の生活にまでおしひろめてゆくことが、子女たちの修養のためにも大切であるとも思って、氏子の希望に任せ、このたび御大礼のお祭から、斎女の奉仕といふ仕事を始めます。(以下略)
 ※ 太田道潅の若き日の逸話に「ある日、鷹狩に出て雨に降られてしまった。とある民家を訪ねて、蓑を乞うたところ、家の娘は無言のまま山吹の一枝を差し出した。道潅は、無愛想な娘だと怒って帰ってしまった。あとで、それは山吹を歌った古歌に心を託したものだと人に教へられた。
  七重、八重、花は咲けども、山吹のみの一つだに無きぞ悲しき
 道潅は大いに恥ぢ入り、初めて和歌の妙を知り、和歌を学び親しむようになったといふ。」(『歌語り日本史』より)

 斎女の奨め

(昭和五年)
 
 私どもが国民として世に立つ場合に、何を措いても修養せねばならぬことは、敬神崇祖といふこと、即ち忠孝といふことであり、これが吾が日本人の固有道徳であります。私どもが昔も今も無事太平に暮らしてゆけることは、上に一天万乗の大君を戴き、下に忠良なる臣民があって、君臣同体の国体の精華を営み、一家にあっては父祖の慈愛を恐み、孝悌遍ねき子孫があって、相寄り相助けて、敬神の誠を続けて、平和の生活を営みつつあるといふことであります。
 先年、伊勢神宮式年遷宮のときに、国民の奉頌歌(ほうしょうか)ができました。
 一、天地(あめつち)のむた(きは)み無く、天津日嗣(あまつ ひつぎ )は栄えんと 
   御国(みくに)(もとゐ)建てませる、(すめら)御祖(みおや)のかしこさよ
 二、千秋五百秋(ち あきい ほ あき)安らけく、瑞穂の国に幸あれと
   御国の民を護ります、皇御祖の尊さよ
 三、神路(かみぢ)の山の(いや)高く、五十鈴の川の弥遠く
   天照る光仰ぎつつ、たたへまつらん諸共に
年越祭  皇祖天照皇大御神(あまてらすすめおほみかみ)の御恩徳をたたへまつった、まことにありがたい歌詞であります。この尊い大御神の直系の御子孫にあたらせ給ふ 天皇陛下は、大御神様そのままの御延長にましますが故に、尊厳無比の生き神様として信仰するわけであり、したがってまた大御神と血縁上の御関係を有せられ給ふ多くの神々、もしくは大御神様の御訓(みをしへ)御依頼(みよさし)によって国を興し民を治めた国家の大功臣も、同じく神と崇めて、国中いたるところに(まつ)られてゐる、これが日本の神社であり、私ども共同の鎮守の神であります。鎮守様の尊い理由はここにあり、その純真な奉仕と心掛けとが、やがて忠となり孝となるわけであります。
 皆さんは今年、国民の義務教育六ヶ年の課程を終るめでたい年であります。卒業してから、あるいは上級学校に入る人もあり、あるいはそのまま家庭におつとめになるものもあります。そこで女子の修養の第一歩として、斎女の御奉仕といふことをお奨めして、一生に一度のお勤めをお願ひ致したいと思ひます。それは長い間学校生活を無事に終った鎮守様の御守護、国家の御蔭、先生や父兄の御恩に対し、感謝報賽することとなり、傍ら礼儀作法の訓練にもなると思ひます。
 斎女の奉仕といふことは、我が国には古くから美はしい慣習として伝はってをります。伊勢の神宮では斎宮と申し、垂仁(すいにん)天皇の御代から代々皇女のお方が御奉仕する定めになってをります。祭主宮様がお立ちになられたのは明治以降のことであります。山城の賀茂の社では斎院と申して、大和の春日神社では斎女(いつきめ)と申して、いづれも氏の子女をして奉仕せしむる美風であります。孔子も「祭如在」(いますがごとくまつる)といはれたように、生みの両親に仕へるような真心を以て、祖先の神にお仕へするといふ、敬神崇祖の内容が遺憾なく充実した行事であり、体験であります。今も伊勢神宮の御神楽殿では、巫子(み こ )として可憐な少女たちが、御食の進御、舞楽の奉奏などを奉仕して、大御神様を慰め奉ってをられます。宮中賢所(かしこどころ)神嘉(しんか )殿(でん)では、毎年新嘗(にひなめ)の御親祭の折りに、神饌行立に女官たちが奉仕する定めであり、ともに女子の神祇奉仕の美風を伝へてをります。
 日本人は昔から礼儀を(たふと)ぶ国民であります。礼といふことは、私ども日常の生活様式が、真面目に取り扱はれた精神の活動が形式に表はれたことなのであるから、たとへ衣食が足りても足らないでも、これを捨てることは自分自身を捨てることになります。社交の上にも礼が土台となって、円満に治まり、職業上の進歩発展もまたこれによって円滑に行なはれて行くわけであります。
 皆さんの美しい清らかな御奉仕は、神様のお喜びになることはもちろん、傍らの人々をも感激発奮させることにもなり、ますます国体の尊厳なることが喚起せられて、祭典の使命が達成せられることになると思ひます。
  ○
 斎女の奉仕は氏子内に限り、尋常六年の女生徒を以てこれに充て、内務省告示の神社祭式行事中、手長(て なが)(供膳の手継ぎ)の作法を練習して、鎮守の大祭に奉仕す。作法の訓練は氏子内の女子青年団これに当たり、祭日に先だち近い日曜日を利用して練習すること、忌服(き ぶく)にある者は生徒間において融通して奉仕す。服装は白衣、緋裳(ひばかま)小忌衣(を みごろも)挿頭(かんざし)等、すべて神社の調度品を用ゐること。
 斎女は、奉仕のために練習した作法をば、各々家庭における作法に応用して修養を続けてもらひたいと思ふ。

浦安の舞の感激

 (昭和十五年)
 
 近衛(文麿)公の新体制は、国民待望のうちにいよいよ近く実現せられんとしつつあるが、これを契機として、あらゆる生活の場面にわたって新体制の言葉が重用せられ、構想せられて、物事が刷新せられてゆくであらうことは、もはや国民の常識となって来た。私ども祀典奉仕の任にある者にあっても、いささかたりとも想ひをここに致して、かかる大切な船出の機会に乗り遅れのないように努めたいとおもってゐる。
 最近、内閣紀元二千六百年奉祝事務局の主唱によって、奉祝神楽舞を作曲して、十一月十日の奉祝大祭に全国神社一斉に奉納せしめらるることになり、これが普及と指導方を皇典講究所と全国神職会とに委嘱せられたので、自分等も寄々相談中であったが、今日(八月九日)ラヂオの全国放送で細々発表せられたことは、まことに欣快に禁へぬ次第である。
 歌詞は畏くも今上天皇の御製
 天地の神にぞいのる朝なぎの海の如くに浪立たぬ世を
を戴き、宮内省楽部で作曲を奉仕し、「浦安の舞」と命名せられた。紀元二千六百年奉祝の最大快挙であり、また実に祭祀の新体制ともいふべき画期的感激の(まと)となるであらうことは、今より期待措かざる所である。
 私は、先帝御即位大礼奉祝の記念事業として、大正四年以降、関係御奉仕の六神社に各々斎女奉仕の制を設け、伊勢神宮御神楽殿の感激を永く奉仕の神社に偲び奉ってゐる。
 さらに昭和八年の年頭御歌会の御製(今回奉戴の浦安舞の歌詞)を拝し、恐懼感激の余り、同志と共に国難打開の戌年参宮会を企て、応募会員二千名を率ゐて親しく参宮を遂げ、特別太々神楽を奉奏して時艱克復の祈願をこめたのであった。帰来会の名を睦会とあらため、年歳参宮日待を奨めて追憶報賽の誠をささげつつある。またさらに鉄道省から交付を受けた団体奨励金と神社所蔵の用材とを以て、楡山の社頭に出蜻蛉型神楽殿一宇を造営奉納して、神代の伝承、岩戸開きの御神楽と、国難打開の参宮奉祀の意義(和楽融合)の闡明に努めたのであった。参宮の途中、京都市官幣大社八坂神社に額賀宮司を訪ひ、拙き腰折一首
 本末(もとすゑ)の道明らめてさく鈴の五十鈴の宮に参るうれしさ
を示して発願の趣旨をお話したところ、宮司殿から特に記念の一首
 大皇国(おほみ くに) 常ならぬ世の神詣(かみまうで) 私事は祈らざりけり
を戴いて帰ったことは、今更に感激無上の栄光である。宮司殿はかつて(大宮)氷川様の宮司を永く勤めてをられたので、一段の親しみがあった。各々その氏神鎮守を背景として企てた本末明徴の伊勢参宮であったのか、人々の共鳴を得た今に忘ることのできぬ感激である。
 今回内閣の主唱にかかる奉祝神楽舞が、普く全国神社に普及徹底せられたとき、初めて神宮と氏神鎮守との本末連続を偲び奉る、いはゆる祭祀の統制を意味する新体制の実現となり、而して新時代に即応、祭政一致の実践ともなり、永く皇国祭祀の生命を活かすこととなるであらうと確信する。

浦安の舞伝達講習会の開催にあたりて

 (昭和十五年)
 
 光輝ある紀元二千六百年を迎へ、数々の奉祝記念事業中、特に有り難く永遠に表慶すべきは、紀元二千六百年奉祝会の発企により皇典講究所と全国神職会とが一意指導普及の任に当れる奉祝神楽「浦安の舞」の制定である。
 報本反始といふことが祭祀の本領である以上、これがためになされる行事作法の訓練の良否は、すなはち祭祀奉仕の成績を左右しつつある事実であって、ことに音楽の巧拙は最もその感を深うすることとおもはれる。祭は理屈ではなく感情である。伊勢参宮の感激は誰も皆御神楽奉奏の一時であったように、純真可憐なる童女たちが御奉仕の神楽舞と荘重典雅なる音楽伴奏の旋律とが、いかばかり拝観者を感動せしめたであらうことは、今さらいふまでもなく、ここに神国日本が反省せられ、皇民吾等の感情が湧き出づるのである。
 畏くも 今上天皇御製「天地の神にぞ祈るあさなぎの海のごとくに浪たたぬ世を」の歌詞を奉謡し、宮内省楽部多忠朝(おほのただとも)楽長※※)の謹曲に成れる神聖無極の舞楽の奉奏によって、いよいよ敬神の念を喚起せられ、ますます祭祀の生命を感得せられるであらうことを期待して、奉仕者各位に深甚の敬意を表するとともに、本舞が一般舞踊と異なり、御製奉戴の舞楽たることにくれぐれも御注意を願ひ、敬虔の態度をもって奉仕し、また取り扱はねばならぬこと勿論である。
 明治天皇は上意下達、下意上達の思し召しをもって宮中に御歌所(み うたどころ)を設け、毎年歳の始めにあたりて国民個々の献詠歌を直接御覧遊ばし、また大御心を込めさせ給ふ大御歌を広く国民に下し賜ってゐる。今回の浦安の舞も、これと同様の意味において奉戴すべきであって、文学に事寄せ給へる御歌会のそれのごとく、音楽舞踊を通じて、以て神徳皇恩の辱けなさを感得し奉ることは、まことに恐懼感激に禁へぬ次第である。

 ※注 伝達講習会とは、中央で指導を受けた人が講師となって、地方の各神社の地域から代表として選ばれた多数の氏子女性たち(教職・女子青年団の人など、文中の「奉仕者各位」のこと)を地域の指導員に養成するための講習会のことです。この文章は、その指導員候補女性の募集、および趣旨と心得の理解の目的で、活版印刷されて配布されました。

 ※※注 多忠朝楽長は昭和十七年に幡羅村を訪問され、浦安の舞の伝達講習風景を御覧になった。そのときのお歌二首。
 神まつる楽のねさやにむら人の心きよめてかなづゆかしさ
 ま心をこめてかなづる楽の音は神の心にかなふとぞしれ

 光栄

(昭和十五年)
 
 紀元二千六百年奉祝式典参列の光栄に浴した私は …… 唯々感泣したのである。…… 奉祝舞楽「悠久の舞」「浦安の舞」とが、畏き御尊前と全国津々浦々の神社の大前とに相呼応して奉奏せられた。
 …… 浦安の舞については、全国神職会と皇典講究所の指導にしたがひ、積極的に実践運動を起し、先づ郡市神職会の事業として、伶人三名を撰びて中央の指導員養成講習会に入所せしめ、次ぎて郡市内二ヶ所に伝達講習会を開き、一方、郡市教育会の援助を得て市町村の国民学校に呼び掛け、女教師八十五名、青年幹部百十五名の講習修了者と五百八十余名の舞姫を速成して、郡市内神社にて普く一斉に奉奏せしめ、且つこれを永久に神社の奉奏舞楽と定めて御奉仕することとしたのであある。
 御製奉奏の畏きはもとより、舞姫父兄たちの欣び、拝観者の感激は到底筆紙のつくすべき何物もない。紀元二千六百年の奉祝はこの舞楽によって永遠無窮に追憶せられ、この慶びによって弥が上にも斎粛恭敬の至誠が盛り上がることであらう。

 華道の奨め

(昭和五年)
 
 聖徳太子が隋唐の文化を取り入れて大いに斯道の交流を促したといふことが伝はってゐるが、それ以前にもあったとおもはれる我国固有の華道なるものが、いかにも立体的直線型であったがために、時代の思想文化に伴って唐様の曲線美の融合同化を図られたことは、争はれぬ事実であったとおもはれる。(あめ)石屋戸(いはや と )の神話にみえてゐる斎庭(ゆ には)に立てた五百枝(い ほ え )真榊(まさかき)の如きは、その型といひ精神といひ、まことによく我が民族固有の精神を表現した伝承であって、後世神仏に捧ぐる唯一の奠供物としたことが、やがて一般家庭的にもそれとなく行はれ来ったものとみえ、中世以降陰陽道の潤化を享け一段と工夫せられて、天地人日月星辰といった風に役枝の名称などが定められるようになった。さらに「王者は山を(たふと)び智者は水に親しむ」といった東洋風の従順の美徳が織り込まれて、造園、盆栽、活花などが全く芸術化せられて、風景教育から思想の善導にまでも資せられてゐたことは、実に見のがすことのできぬ尊い修養法であった。
 太子の(はじ)められたといふ立体式の立花が、後ちに池の坊といふ流儀を産み、これを斜め挿しにしていささか反りをつけだしたのが古流であり、さらに室町以降一段と曲線美を応用したのが正風遠州流といふのである。明治維新王政復古とともに国民の復古思想はこうした方面にも遠慮なく押し寄せて来って、草木出生本源そのままに、あまり技巧を加へないような様式が俄然流行し来ったのも、むしろ当然の帰結である。さらに西洋文化の輸入につれて、卓上花の需要から一層工夫せられて、盛花、投入といった新形式が生まれたわけなのである。ただ旧来の立体的様式が、一転平面的様式に変ったまでのことであり、時代に調和した実に結構な変遷であるとおもふ。たとへいづれの変化はあったにしろ、その根本原則たる天地人の観念には、何らの動きを見せてゐぬといふのが、すこぶる尊い点であり、国体観念の美しさを伺ふことができ得るのである。
 一、流儀について
 池の坊、古流、正風遠州流といった従来の形式にも、各々持ってゐる特長がある。しかしながら何れも技巧本位にとらはれがちであるために、今のスピード時代には或いは不向きかもしれぬ。ただ華道の根本観念を把むためには、一わたりは旧来の様式を知っておく必要があるとおもふ。この法則についてはすこぶる繁雑であるために、ここには単に花型だけを示しておく。
池の坊 古流 正風遠州流
 二、盛花と投入
 盛花(もりばな)投入(なげいれ)とは、昔からあったのであるが、明治以降西洋文化に刺激せられて新たに創造されたのが現今の活花様式である。天地人の尖端を線画してみると、立体的不等辺三角形となるのが旧来の流儀花の形であるが、この三角形を横に平面的にしたのが盛花の型である。しかしてその盛り方にも、自然本位と色彩本位とがある。自然本位とは、ある自然の風景をそのまま縮図して一鉢のうちに観する活方であり、色彩本位とは、草木花葉の色彩を按配して一鉢のうちに調和よく挿入して美観本位に見する方法である。
盛花投入  投入とは、従来の流儀花を簡略した挿法であり、専ら法則にとらはれず作者自身の雅致に任せて自由に活くる方法である。天地人の原別を表現するには何の変りもない。花形は小原流を執ってゐる。
 三、本勝手と逆勝手
 向って右を主位とするものを逆勝手といひ、向って左を主位に置くものを本勝手とする。席上二鉢以上並べるときには本逆相対して置く。床の掛軸が二幅なるときには一鉢、一幅または三幅あるときには二鉢とす。枝葉を以て落欠を隠さぬように注意する。
 四、草木出生のつかひ方
 深山樹木と田園樹木とか、野生の草と水辺に生ずる草とは自から出生の区別がある。たとへば天位に木をつかふときには地位には草をつかひたい。そうして枝葉はすべて天位を抱擁するが如くに向ひ合せて挿すのが肝要である。
 五、草木の養保
 養保とは水揚(みづあげ)のことである。種類によって多少異なる方法はあるが、概ね木類や草でも木に似た固い質のものは根を炭になるまで焼いて一晩水漬けにする。茎の柔らかい草はアルコールまたは薄荷か焼酎に五分か十分間くらゐ根を浸して後ち水漬けにする。水揚げ困難とおもはるる草木は大体左の如くすることが必要だ。
秋海棠(しゅうかいどう)  よく煎じた茶に一晩漬けて置き、挿すまで水気のあるところへ寝かしておく。
○水  つきこ三十匁、山椒少々、白水花瓶に五六杯入れ三杯に煎じ、さめたなかにねかしておく。
○朝顔  翌朝開くとおもはるるつぼみを紙にて包み井戸に下げ、挿すときに紙をとれば開花する。
○蓮と川骨  はんげ水を水鉄砲で茎より葉先へ巡るまで注入する。
○竹  枝振りを見立て切取り直後、下の一節を置きて上部の節をぬき、水一升に石灰と食塩を各々三合づつ入れてよく煮立て、上の口より熱湯を注入する。上口にふたをしておき、数時間の後ち葉しぼまざれば水揚に成功したものである。
○睡蓮  茶汁を注入する。
  むすび
 天地人の三光を一鉢のうちに取り入れて、よくこれを配置し融合同化せしめて、諸人の観賞に供する芸術をば、活花といふのである。天地の自然は人の力によって活かすることができ、あらゆる価値をも発揮せしむることが出来得るといふのである。天の恵によって地上の草木も繁茂するのが常ではあるが、草木本来の使命を達せしむるためには、専ら人の力によらねばならぬ。ここに我が神聖なる国体のありがたい御垂教は、たとへ草木の片鱗にいたるまで、ことごとく神の産みまし給ふ尊い生命を持ってゐる。これらの自然を無解に征服したりするよりは、生花講習会進んでこれを善用美達せしめて、以て人類の生活を潤滑ならしむることが肝要である。そうした精神から出発してゐる華道の真価が、中世以降あまりに技巧本位にとらはれた結果、大衆とはほとんど没交渉であったことは、すこぶる遺憾なのであったが、今や時代はいよいよ進展し、一般行礼作法の大衆化とともに必然的に興隆を促してゐることは、実に欣びに堪へぬ。
 不肖私もいささか正風の流を汲んだもので、家元貞松斎米一馬の高弟とせられた貞江斎月一春の門下となって、琴江斎月一禎といふ披露までしたのであった。華道そのものを単なる一遊芸として取り扱ってゐた旧来の因習すら蝉脱して、新生面を開拓し、斯道をして永遠の使命を達成せしめんとせる今の挿法には、双手を挙げて共鳴するものである。
 願はくは、温故知新の金言を学んで、我が皇国風を弥が上にも発揚せしめて行きたいとおもふ。なほ祀職に関係してゐるものから、平素国定祭祀行事作法の家庭化をこころざして以降二十年来、氏子の子女たちに斎女奉仕といふことを奨めてゐる関係から、これと相関連して処女たちにも華道の勧奨を試みてゐる。要はこれを機会に一般行礼作法の普及を促し、精神的に品位の向上を図りたいといふのが主眼なのである。
 
 挿す(もと)の深きめぐみは一鉢の内にも匂ふ天地(あめつち)のみち

礎石礼讃

(昭和八年)
 
  捨て難き面影もがな 吾が宿のながめとなれる庭の置石
 
 昭和八年八月のことである。今年の土用は三十年ぶりの暑さだと人々はいふ。せまくるしい書斎ではどうにもならぬ。鎖夏の一法として、日頃好める花道の手法を以て手造の庭園を試みることとした。
 様相様式など勝手に神苑式庭園と名付け、これを拡大すれば神社施設の神苑設計の標準ともしたいといふ欲望も手伝ったので、技師から労働まで独りでやってのけたのである。築山の上には古く伝来した焼物のお宮一宇(加藤清正公)を置き、林苑には男松、紅葉、さつきなど他日植木屋の手入れを要せぬ樹木を撰び、池の辺には熊笹、しだなど深山植物を配し、裏参道には朱塗の神橋を架け、表参道には石造の反橋を設け、参道入口に明神型鉄筋コンクリート造の鳥居一基を建て、参道橋の手前左側の高台に五重の塔を配して対岸の眺望を助け、右側には石造社務所型置燈籠を置き、総て神苑の風致を考へたのである。工事約一ヶ月を要し、材料はことごとく在来の物を用ゐ、購入品は三袋のセメントと五箱ばかりの砂のみであった。
 「洛陽名園記」の一節に「宏大には幽邃を欠き、人力には蒼古を欠き、水泉には眺望を欠く」といふのがあるが、この兼ね難い六つのものを兼備へてゐるといふ意味から、松平楽翁公(松平定信)が命名したのが加賀百万石の名園、兼六公園のそれであるといはれてゐる。「先憂後楽」の意義から採られたといふ水戸公の(小石川)後楽園など、しかすがに、さこそとうなづかれる。神苑式庭園の設計もまたこのような気分を現したつもりである。
 工事中、日毎の休み時間に、たまたま天下の一大事とおもはれる五一五事件の公判記事を読むのであったが、あとで追憶の記念になるであらうなど考へたら、また十ヶ年以上親しみ続けた手飼の亀たちが、この上なき住み処となったことなど、欣びの一つとなったのである。
 
 たよりよき方をめざしてのび()なる藤の若つるこころあらげて
 日毎ひごと時をたがへず()()なり、手飼の亀のわれに睦びて
 
楡の木影 終

はしがき(もどる)


先頭へ