楡山神社ホームページ 郷土資料室

「楡の木影4」


第四章 由緒など
 
 
甲斐国酒折宮の碑と楡山神社昇格記念碑
(大正十二年)
 
 酒折宮(さかをりのみや)は、式内の古社にして、日本(やまと)(たけるの)(みこと)の旧蹟なり。山梨県西山梨郡里垣村大字酒折(現、甲府市酒折町)の地に鎮座し給ふ。主神日本武尊を祀り、相殿(あひでん)に応神天皇を配せらる。境内に有名の碑表あり。国学の泰斗本居(もとをり)宣長(のりなが)翁の撰文、及びその弟子平田篤胤(あつたね)大人の書なり。大正五年社殿炎上、烏有又帰し。氏子の数少なくして再建の望なかりしとおもひけるが、たまたま神域に残れる二大人のものせる石文(いしぶみ)ありて、大いに人々の心を動かし、為めに県下挙りて酒折宮奉建会を起こし、数多の資を寄せて、今は昔にまされる御造営を完成せられたりと、(つか)ふる宮人の涙ながらに語られたり。かかる世に、はしなくも石文のはたらける美はしき事蹟は、(まこと)に斯道の為め、めでたき事になむ。
 わが楡山神社もまた、今は氏子の数少なく、物資は欠くる所のみありて、古の如くならず。昔を想ひ、今に比べて、いとも悲しく恐くもありけるものから、頃、奉賛会といへる団体を設け、遠近旧縁の氏人たちの奉賛を得て、目出度く社格を進め給ひければ、その事跡を後代に伝へむものと、神域に石文を建て、斯道の大家に撰文を仰ぎぬ。別けて内務省神社局考証官宮地(直一)博士の撰文は、他日酒折宮にものせる二大人の事跡と並びたちて、必ずや後世にその光を放つべきときもありなむと、人々喜びあへり。
 
酒折宮碑   酒折宮(さかをりのみや)寿詞(よごと)
那麻余美(な ま よ み )の此の甲斐国(か ひのくに)の此の酒折宮(さかをりのみや)はもよ。
纏向(まきむく)日代宮(ひしろのみや)御宇(あめのしたしろしめしし)天皇命(すめらみこと)の大御代に、
(やまと)男具那(を ぐ な)倭建男(たけを)天下(あめのした)益荒建男神建男(ますら たけをのかみたけきを)と、
皇子(み こ )随所(いたるところ)選び賜ひて、
千引石(ちびきのいは)の重き(かた)大命(おほみこと)を、重波(しきなみ)頻蒙(しきかがふら)して、
西国(にしのくに)無礼(いやな)熊曽(くまそ)言向(ことむ )け賜ひ、
東国の荒振(あらぶ )蝦夷(えみし)を和め賜ひて、神とも神と
うつそみの世に無比(たぐひな)き建き由々しき大御稜威(おほみ い つ )の、
天下に万代(よろづよ)天津日(あまつ ひ)と照り輝かす、
宇豆(う づ )の大御子、倭男具那、倭建(たけるの)神の命。
(をは)りて大事()へて、蜻蛉嶋(あきつしま)倭国(やまとのくに)に還り坐す時、
衣手(ころもで)常陸国(ひたちのくに)を過ぎ、足柄の御坂を越えて、
御薦刈(み こもか )科野国(しなののくに)御坂神(みさかのかみ)をたひらげむと、
(すぐ)り坐せる其の道の其の行宮(かりみや)神随(かむながら)(とどま)り坐して、
後世(のちのよ)片歌(かたうた)続歌(つぎうた)の事の始と仰ぐなる、
新治(にひはり)筑波(つくは)の大御歌を読まし賜へる其の宮所の(のこ)れる処と。
百継十嗣(ももつぎと つぎ)御世は移れど、千年五百年(ち とせい ほ とせ)歳は経ぬれど、
よろしなべ、宮はうせせず、跡は絶不為(たえ せ ず)
今も行前(ゆくさき)も ひさかたの天津日と天津日嗣と、
倭男具那、倭建神命の無比き建き御稜威の
大御名と共に、諸共に(なが)らへて伝りて、
万代(よろづよ)(とこ)とはに、(いや)(たか)弥広(いやひろ)に、
照り将り行く栄え住む宮処(みやどころ)の蹟れる処。
  寛政三年正月
    伊勢国飯高郡之御民 平阿曽美宣長 畏寿白
           弟子 平阿曽美篤胤 斎謹書
 
  楡山神社昇格記念碑
      内務大臣法学博士水野錬太郎題額
埼玉県大里郡幡羅村は、往昔の武蔵国幡羅郡幡羅郷に当り、古くより地方の要枢とせらりし所なり。此処(こ こ )宮居(みやゐ )定めて郡の総鎮守ともて(いつ)き奉る楡山神社は、いつの世に鎮まりましけん。(こと)()りて(これ)を究むるに由なしと(いへど)も、早く醍醐天皇の御宇(み よ )に定められし延喜の制に、小社と録せられて、祈年の国幣に預かる神社の班に入り給ふ。即ち知る、国司所祭の神として本国四十四座の官祀の一に列し、朝廷の尊崇を享け給ひしを。社伝によるに、楡山の称は、神域に楡樹の(いと)多かりしに因るといふ。就中(なかんづく)今日に残れる古木一樹は、毅然として社頭に聳え、今も千古の翠色を()へず、崇めて神木と為す。中世以降の変遷明らかならざれども、世々の領主の崇敬浅からず、供進の田園数十町の多きに達せりと伝へらる。近代に至り俗に熊野社といはれしも、なほ往時の規模を失はざりき。維新の後、明治五年入間県第八大区の郷社と定められ、爾来闔郡の宗祀と仰がれしが、(ここ)に本年七月二日を以て(のぼら)せて県社に列せられ給ふ。此に於て、予てより御社(みやしろ)奉為(た め )に力を尽せる奉賛会の人々等、胥謀(あひはかり)石文を建てて 御由緒の梗概を誌し、此の慶事を永遠に記念することとなしつる。あはれ大神の稜威(みいつ)は、年々に広がり行く楡の木影とともに至らぬ隈もなく、御社の栄は、武蔵野の果なき如く極まる時を知らざるべし。
  大正十二年七月二日
       考證官文学博士    宮地直一撰
       官幣大社氷川神社宮司 額賀大直書
 
 
 
 愛宕(あたご)様のいはれと御造営の動機
 
  昭和八年四月二日本殿遷座同三日御例祭並祝祭奉仕
    大里郡幡羅村原郷 愛宕神社社務所
 
 愛宕神社の御祭神は火産霊神(ほ むすびのかみ)と申し、火の神におはします。この神様は御母伊邪奈美命(い ざ な みのみこと)麻奈弟子(ま な おとご )(可愛い末の子の意味)に()し、母神はこの神様の御出産によりて御陰を焼かえてお隠れ遊ばしたといふことが、古典に詳しく載せられてゐます。それゆゑ昔から学者たちが、愛宕は仇子(あたご )、または熱子(あつご )であると説かれ、中世以降、神仏習合時代には地蔵尊を本地であると付会したことなどもありました。とにかく仇子ではあったが可愛い末の御子であるといふのが、御社名のゆかりとなって祭られてゐます。
 同じ火の神におはしても、荒魂(あらみたま)を祭る御名を荒神(こうじん)と申し、幸魂(さきみたま)を祭る場合は竃神(かまどがみ)であり(炊所の神)、愛宕の御名を冠するときには、その和魂(にぎみたま)、即ち愛児の神としてお祭り申し上げるわけなので、当社が昔から式内楡山神社(祭神 伊邪奈美命)の御摂社(御肉親の神の意)におはせることも深いおゆかりのあることであります。明治五年楡山神社が入間(いるま)県第八大区(※)の官撰郷社に昇格した関係上、同六年村社の申し立てをしてから後、同一の氏子たちは楡山を大鎮守と仰ぎ、当社を小鎮守として奉祀されてゐます。安政以来、氏子たちの熱力によって上地国有林約五町歩の土地が滞りなく神社の基本財産となりました。
 ※入間県当時、従来の郡郷制に代はる大区小区制がとられ、八大区は利根川と荒川の間、熊谷妻沼深谷寄居の市街地を含む広い範囲であった。
 敬神崇祖を国難打開の第一歩とした氏子たちは、現下の非常時に際し、本殿、拝殿、瑞垣、社務所等の新築を終へ、精神的自力更生に邁進しつつある。更に本殿の形式を、日常我等の総本山と仰ぎ奉る伊勢の神宮に(なら)ひ奉ったのは、いささか神宮と氏神鎮守との本末崇敬の意義を明らかにし、一意国難打開の祈願を目的とした御奉仕であります。
 
 
 六堰合同起工祭の感激
(昭和五年)
 
 四月二十七日、新緑香る荒川沿岸、花園村大字永田、不動が滝の傍らにおいて、厳かに行なはれた大里用水路改良工事起工地鎮祭の感激を少しばかり書かしてもらひたいとおもふ。
 本工事は、略して「六堰合同工事」ともいってゐる。事業区域は、大里・北埼玉の二郡にわたり、熊谷町を中心として荒川の両岸にまたがる用水路の新設工事であり、一町十七ヶ村に関係する需要水田三千二百町歩に及べる主要水源なのである。ところが旧来経営し来った奈良堰・玉井堰・大麻生(おほあ そ )堰・成田堰・御正(みしょう)堰・吉見堰等の六堰が、年々約五万円以上の費用を使って引入口の掘鑿を競争してゐる現況であったが、川床が年々変化するので、思ふように工事が行かぬばかりでなく、あまり効果をみることができず、既に大正十三年の如きは、これが用水不足の被害を調べてみると、実に六万五千余円に達したといはれてゐる。よって今回右六堰を合同して、花園村大字永田地内に取り入れ左岸に沿うて導水路を新設すること約一里、それより左岸にありてはこの導水路から各幹線水路に分水し、右岸に対しては奈良堰用水分水口において荒川を横断する伏越により右岸御正用水に導水し、御正・吉見両用水路に分水せむとするのであり、もちろん付帯工事として樋管、堰枠、暗渠、沈殿池、余水吐、筏道、魚道、橋梁等をも含まれてゐる。事業費総額金百四十四万円の工事である。本事業は農林省の管轄に属するものから、県では耕地課の仕事である。したがって今度の地鎮祭も知事耕地課長が司祭者であり、不敏なる自分も幸ひ埼玉県神職会大里支会長の現職にある関係から名誉ある斎主を承ったわけである。
 地鎮祭に主として奉斎する神は、大地主(おほとこぬしの)神、埴山姫(はにやまひめの)神、産土(うぶすなの)神の三神なのであるが、本事業の目的精神から、さらに罔象女(みつはのめの)神、天之水分(あめの みくまりの)神、国之水分(くにの みくまりの)神の三神をも併せ(いは)ひ奉ることにした。
 ……
 御正(みしょう)(現江南町)に雷電社といふ村社がある。創立の沿革を探ってみると、決して雷公の威を恐れて祭ったわけではなく、潅漑守護のために雷雨を祈った社である。その昔、潅漑用水に窮し、惨害の救ひを山城国加茂(か も )の社別雷(わけいかづち)の神に祈った尊い記念の社である。氏子の坂田某なる者、一村を代表して上洛し、霊験著しかりしといはれ、これがために今なほ挿秧の季節(田植の季節)に祭日を定めて、その恩頼(みたまのふゆ)を永く追憶奉斎せりと聞く。まことに産土神奉斎の美談でもあり、祭祀の生活化ともいひ得るとおもふ。
 独り雷電社のみならず六堰に関係を持てる神々は少なくないとおもふ。
 
 
 唐沢川工事と行人橋開橋
 (昭和六年の祝詞から)
 
 福川通水祭祝詞(のりと)(昭和六年四月二十九日)
(前略)(かれ)、此の福川といへるは其の水上(みなかみ)に当たれる唐沢掘といへる荒くれ川の為に、年まねく水溢れて、数多(あまた)穀物(たなつもの)を失ひ、田人(た びと)等の生活(なりはひ)を害ふことの甚だしける程に、去る頃朝廷の大御計(おほみ はかり)を以ちて、彼此(かれこれ)の荒ぶる水瀬をば小山川に放ち流せる工事を起し始むる事としもなりしが、ゆくりなくも論争(あげつらひ)起りて、あたら(うれ)たき年月を過ごしけるが、漸うに人々の精神(こころ)も和びて、今は(いつ)工事(たくみのわざ)竣工(をへ)しめ、また此の事業(いやわざ)に付き従ふ伏越(ふせこし)の工事をも竣工ければ、(後略)
 ※注 福川(城北川)に注いでゐた唐沢川を、福川を越えて北上させて小山川に放水させる工事は、幾多の困難の末、昭和七年に全ての関連工事が竣工した(四月十七日竣工祭)。右の通水祭はその前年のもので、福川上流(菱川)の水を伏越(パイプ)で新唐沢川の下を通過させて流し始めるときのものと思はれる。市街地を流れる唐沢川(下唐沢)も川幅の拡張がなされ、行人橋なども架け替へられた。明治四十三年を頂点にした福川の洪水の頻発は、養蚕の普及などによる上流の台地地帯での森林伐採に原因があったと思はれる。
 行人橋(ぎょうにんばし)開橋祭祝詞(昭和六年十一月十七日)
 神籬(ひもろぎ)木綿(ゆふ)取り()でて()き奉り(いは)(まつ)る、掛けまくも畏き 伊邪那岐大神、伊邪那美大神、産土(うぶすなの)大神、八衢(やちまた)比古(ひ この)大神、八衢比売大神の御前に、斎主(いはひぬし)県社楡山神社社司臣柳瀬禎治、(かしこ)み恐みも(まを)さく
 此の唐沢掘に架け渡せる行人橋(ぎょうにんばし)といへるはしも、其の昔、中仙道を開き給ひし頃なも、此の地の西念寺の法師、行人上人といへる忠人(まめびと)功徳(いさをし)によりて作り始めしと、此の深谷の里には古き言ひ伝へもあれば、元禄二年、木橋に改め、同七年、更に石橋に改めけるが、年まねく洪水の災ひを被らす事の繁くなりける程に、人々憂ひ歎かひ、(はか)りごちて、明治三十一年に県の(たから)によりて煉瓦もて(いと)(いか)しく工事(たくみのわざ)を仕へ奉りけり。故、また今回(こたび)、是の水路(みぞ)改修(あらためをさ)むる事業(わざ)にともなひて、鉄筋混凝土(コンクリート)もて新たに厳しく(うるは)しく改造(あらためつくり)仕奉る事になもなりぬ。ここに工事喪無く事無く竣工(をへ)ければ、今日の生日(いくひ )足日(たるひ )を撰び定めて、県の官人(つかさびと)を始め関係(かかは)れる技師(わざひと)工人(たくみびと)達、及びこの町の官公人達、い列並(つらな )み居て、開橋の御祭仕へ奉り、礼代(いやじろ)神饌(みけ)をも供へ()けて感謝(ねぎ)奉り、また地方(くにぶり)慣習(ならひ)と三組の夫婦(めをと)等なも礼衣(いやごろも)礼び纏ひて渡始(わたりはじめ)礼事(いやわざ)をも事挙げ奉らくを、大御心も美しく聞こし()して、今より後は、此の新しき美はしき良き橋を、千代に八千代に守り給ひ(さき)はへ給ひて、人足繁く馬車満ち続くとも、(どよ)み損ふ事無く、霖雨(ながめ)して水溢るとも、(つつ)む事無く、堅磐(かきは)常磐(ときは)只管(ひたすら)に世人の厚き便り在らしめ給ひ、弥遠長(いやとほなが)皇国(みくに)利益(さち)を興さしめ給へと、鹿じ物膝折伏(ひざをりふ )し、鵜じ物うなね突抜き、恐み恐みも白す
 
 
 三ヶ尻飛行場と
   その鎮守弓矢の神について
  (昭和十年頃)
 
 今の三ヶ尻(み か じり)(現熊谷市三尻)が、昔「甕尻(みかじり)」と書いたといふのは諸書に見えてをり、すこぶる意味のあることである。ミカジリは「甕治(みかじり)」であり、式内田中神社の御祭神に坐す武甕槌(たけみかづちの)神の(しら)したまふ地といふほどの村の名の起因をなしてゐる。田中神社は、実に常陸の鹿島神宮と御同神(武甕槌神)に()し、現に御鎮座の地を宮島と唱へ、神域に要石(かなめいし)なども残ってゐる。我が建国の昔、天孫の御降臨に当りて特筆大書すべき御功神は、何をおいても将帥の始祖とあふぐ武甕槌神をあげねばならぬ。またこの神と共に力をあはせて大勲を立てさせ給へる経津主(ふ つ ぬしの)神(またの御名、斎主(いはひぬしの)神)を指さねばならぬ(香取神宮)。斎主神とは、主将が出陣の首途に当って、必ず先づ斎甕(いはひべ)を道に置き、自ら斎主となって神祇を祀り、行軍の安泰と戦勝を祈った古への遺風から称し申した御名である。この意味から、首途をいはふことを「鹿島立ち」ともいってゐる。(※この年は下参宮の年でもあった)
 三ヶ尻、上野台(うはの だい)(現深谷市)、瀬山(現川本町)の鎮守が、何れも八幡宮である。八幡宮は応神天皇を祀る、人も知る弓矢の神であり、御母神功皇后の胎内にあって、海外御進出の御神業を達し給うたといふ御事から、後に胎中天皇とも申し上げた。
 私は先頃飛行場の起工祭に当り、八幡宮奉仕の関係から斎主の重任をお引き受けしたとき(※三社社掌による奉仕か?)、この点について感激至上の余り、祝詞の由縁句にこの一節を唱へ申したのであった。国防上重大なる任務を持てるこの新設飛行場が、偶然にも弓矢の神とあふぐ田中神社と八幡神社の氏子区域に創業せられたといふ、まことに神ながらの奇縁であったとおもはれる。
 武蔵野の端なき地、三ヶ尻原頭は、間なく皇国鎮台の偉観を呈するであらう。プロペラの音響は青空を圧するであらう。我等は天下の国民として、これを祝はねばならぬ。まして近在住民たる光栄を荷なふ者に於てをや、唯々専念皇軍の弥栄をば神かけて祈らねばならぬ。

第五部 斎女・浦安舞・華道


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